※モブだらけ


「やい」
かつ、と背に何か当たり、それが跳ねて佐久間にも当たる。
小さい石だった。
「やい、お前なんだ。
どっから来た。何しに来た」
活発そうな若者の声が、鬼道には霧の向こうからのように響いた。
「誰だ。里のモンか。
あんた、まさか、山のヤツか」
「捕まえろ、手下だ」
「待て、里者だ。穴が無い」
本山の軍幹部には額の皮膚に針を通して飾りをつける習わしがある。その事を言っているのだ。
「佐久間…」
やっと手をのせると、
期待していたあたたかみは無い。
失われたのか冷えたのか、とにかく妻はつめたかった。
乱暴にかけられたベールから、少し髪の束が見えている。先で切られたようになっていた。
海霧は手の先に跳ねて行き、爪先をつついて指を甘く噛む。
荒く声をたてていた幾人かが黙ってしまうと、洞の中は再びしんと静まった。
動揺が広がり、さわさわと小さな相談が始まる。

持ち上げられた中指が、そのままかくっと岩肌に落ちるのを冷たい身体に触れながら見つめていて、たまらなくなる。
鬼道は妻を抱き上げた。

───軽い!

込めた力の半分も要らなかった。妻の手首には縄の跡と、それを焼いて切ったような火傷がいくつか散っていた。
なぶられたのだ。
ひどい、と思うところで、これが山への恨みなのだとはっとする。
どれだけの横暴と理不尽が、どれだけの人々に与えられて来たのか鬼道は知らなかった。たかだか古びた習わしに、不便だとか癪だとか思う程度の鬼道にはわからないことだ。
知らないところで親を殺されたり子供を贄に捧げさせられたり、秘密裏に金品を要求されたり重い奉納を強いられたり、そのために苦しめられるのはもちろん反感はその倍酷い目で制裁された。
平和な里でのほほんと暮らした鬼道には想像さえもしなかった。

だから恨みは持っていない。

この数ヶ月にかさんだ山への不信感などは、身内や自身を虐げられた人々にとってはなんでもない。
過激と非難した清美の者たちが、どんなに辛かったか。
このたかだか15、16の娘を縛ってなぶっても気持ちはきっと収まらない。

生きているのか。

鬼道はそれを確かめられない。
抱き上げても妻は冷たい。肩も背中も冷えきっていた。
ベールを持ち上げるのもこわい。
ばたばたと染みた血が見える。

「何にせよ、あれの味方だ。
捕らえよ、あれの味方なら我らの敵だ!」
野太い男の声が鳴る。
ザワッと緊張が伝播して、近場の男が棒を手に持つ。
鬼道はこれ以上妻を傷付けまいと、身体を庇うようにより強く抱えた。何の反応も無い。
辛くて、血の染みたベールに顔を寄せる。首もとに鼻をすりよせてみても、あたたかみは少しも感じなかった。
「何してる、早く!」
「でも…」
棒を持った男が躊躇する。
口答えするなよ、という風に、その隣の男が肘でつつく。
「この娘オレを治した尼だよ…」
はっとして棒を持つ男を見ると、同郷の旗家の者だった。確か籠熱にかかったはずだ。顔を見たのか。
「何故わかる」
捕らえよとがなった男が不信を込めた声で言う。
「声が同じだ。励ましてくれた。きっと治りますよって」
「策略だ!あの籠熱だって、本山の毒だったんだ」
「でもこの娘は」
「バカだな、そうやって、本山の人間に治させるのが目的なんだ。支持させるために」
そうか、と鬼道は今更思う。
なるほどそれが目的だったのだ。本山は妻の薬師としての能力を知っていた。でも佐久間は策略に気付いて、自分で治すのを渋ったのだ。結局里の薬師に負えず佐久間が治療をしたのだが、決して正体を明かさなかった。

『わたくしは、外に出ません』

ざわめきがだんだんひどくなる。
そういや俺も治療を受けた。若いどころか、娘だった。
虎丸のとこのお嬢様がぴったりくっついていたじゃないか。
やや、もしやこれは偽物なのか。

騒がしさもその内容も、鬼道にはどうでもいい事だった。
妻の爪が割れて血が滲んでいる。あおあざが浮かび、皮膚が破けている。刀傷もある。こうなるとわかっていて。

「もうよかろう」

よく通る低い声が、洞のざわめきを遮断する。
「隊長、これは本物でしょう、ね、そうでしょう」
清美の長なのかさっきから指示を出していた男が急に言葉を丁寧にした。
「そうとも。本物です。だがあたながたの頭でもある」
洞は再びざわめいた。岩が声を反射して、ささやきを余計に響かせるのだ。
「頭?頭っていうと、俺らにはひとりだ」
そうとも、そうとも。と声が続く。
「ですからね、こちらですよ。
すべてを始めなさった方は」
妻を抱えるだけの鬼道に人の足が見える。立派な革靴。爪先には鉄の覆いがついていた。
「鬼道様はご老人だ。馬鹿を言わんでください。こんな娘が鬼道様であるか」
鬼道の目の先で爪先はさっと後ろに下がり、かわりに折られた膝が現れる。
「信じずともいい。この方は確かに山の本尊だが、鬼道家に嫁いだ我らの長だ」
少し顔を上げれば騎馬隊の隊長であった。
妻をここへ連れ出した本人だ。
ざわめいたり静まったりを繰り返している洞の中で、それを黙って見ていたのか。鬼道がここへ来て佐久間に駆け寄るのも、佐久間が痛め付けられるのも見ていた。
味方なんじゃないのか。
ずっと妻のしもべじゃないのか。
恨めしい思いがふつとわき出る。睨む目になったのは仕方なかった。

「お許しください。
背きもうした…!」

隊長は鬼道に何を言うもなく岩に手をついて叩頭する。なにに背いたというのか、一瞬わからない。
「みすみす失う事はできない…」
震える懺悔を聞いて気付く。
(残酷なことをする……)
鬼道は妻をゆっくり眺めた。ベールに透けた細い首が、折れそうに曲がっていて生命を感じさせない。
(ここに連れてきて置いていけと命じたのか。この忠実な下僕に)
ひどい奴だ。
(ほら見ろ、できやしない)
「………」
「………」

カラン。

戸惑いが走る洞窟の中で、誰かが武器を投げて捨てた。
カラン、という乾いた音に、徐々にそれが増えて行く。
(佐久間…ばかな娘だ…)
海霧がベールをつつく。
曲がったくちばしで穴があく。



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