朝の暗闇にぽかんと空いた穴のように薄明るい洞の口には足跡があった。
そばの樹が切られ、しんとしているのににぎやかに見える。

馬を引くと、鼻を鳴らす。
長く走ったが強い馬だ。
息は荒いが疲れは見えない。
蹄の雪を払ってやると、尻尾を振って露を落とす。

洞の奥には光があって、入り口まで届く明かりが暗闇を薄く照らす。まだ空よりも明るかった。

『家族みんな殺してしまうより自分お一人で済ますのだわ』

佐久間がふもとに嫁いだのは、彼女の母の意向だった。
鬼道がいつかに神々しいと感じた御簾の先に居た、彼女。くすくす笑うベールの女官がずらっと並んで上品にしている。
あれで奥方は三番目の人で、仕組みがわかるとおかしいのだが、今の社主の三番目の妻で、佐久間以前の生神ということになる。
彼女らの血筋に神は生まれ、佐久間が生んだらまた神なのだ。
信心薄い鬼道にとっては特殊な遺伝というだけだったが、山には神で信者には救いだ。三番目の妻、ということだが、奥方は四人の姉妹の末らしい。
社主の基準はわからないが、すげられれば死ぬまで代わりはしない。

義母が娘の未来を憂えて里に落とした意思を継いだのか、佐久間が乱を起こした意味は本人に聞かねば決してわからない。

白髪で金の眼が神の証なら隠されていただけで一族の女は皆そうなのではあるまいか。だとしたら生き神というには実に大げさだ。
それとも、時に生まれるだけで、いつも奉られていたわけでは無いのか。

(祖父は何か知っていたのか)

鬼道の結婚を決めたのは祖父だ。
祖父は信仰に厚く、祭事には祝詞を唱えたり、式様々に最も重要な役割をよくこなした。
妻にも会ったという。
それが不思議だ。
信心深いはずの祖父が普通会ってはならないとされている(孫のものとはいえ)他人の妻に離殿に上がり込んでまで、一体それは何故だったのか。

どこから始まっていたのだろう。

ちら、ちら、と動く光。
間に合ったならば走らなければ。そう思っても足は動かない。
凍えているからではない。
皮のコテがじっとりと濡れて、親指のあたりで音をたてた。

(ああ、あの向こう…
佐久間が居る)

しかばねでも…

時として絆は残酷だった。
佐久間に感じる慈愛の思いは、生きてきた中でずっと欠けていたもの。だから鬼道はそれを喜んでいた。
秀才よ、できた男子よと誉め称えられても不思議だった。
何も秀でた技が無くとも、ほかの子供は幸せに見えた。
遊ぶに飽きず学ぶに飽きず、日々がいつも刺激的。そんな日常に居るのならば、書物を読んでも稽古をしても、ほんの少しで匠を越えては何の刺激も楽しみも無い自分よりも、ずっと価値ある毎日ではないか。
友に恵まれねば空の子供。
鬼道には自分がそう思えた。

何かに心動かされても、
その感動は浅いのではないか。
純然たる驚きなのか、演じているのかわからない。

すかすかの、つまらない…

愛する家族や友が居ても、自分だけが惨めで哀れないきものだと、そんな気で生きてきた気がする。
それを全部自分で負わず、閉塞した暮らしや古い宗教、厭わしい習慣やつまらない全て、自分の外の何かにある悪いものが、自分を卑しめている。みじめにする。
この憮然このうえも無い勘違いの憤りたるや!

生死や、花鳥風月の尊さを喜ぶ妻が居てくれてこそ…


止んだ涙がまたもちあげられてきてしまう。
泣くな、情けない。
その恫喝さえも頼りない。

じゃり、と鳴った足元の雪は、夜に冷えて凍っていた。
響くはずの音が吸い込まれる。
鬼道は拳を握りしめ、厠を恐れる幼子のような気分になる。
ああ、あそこへ行かなくちゃ。行かなくちゃならない。行かなくちゃならないのに。

ぶるる、とうなる馬の声に、急に突かれたように歩き出す。
それは唐突だった。自分でおどろいた。
じゃり、じゃり、じゃり、と鳴る足音を消す努力も無い。どうせ洞に入るほど、奥はざわめいて音も多かった。


「佐久間…!」



駆け寄る時、誰もとめない。
そばに膝をつこうとして、ようやく驚いた近くの男に肩をつかまれるが、男は手雷(静電気のこと)でも走ったように手をひっこめて、うわ、やめろ、痛い、と転ぶ。
鬼道は気にしない。
白い衣装が土に汚れて、雪に濡れたのか染みていた。
赤い血液がまかれたように、岩肌に飛んで散っている。
「やめろ、うわあ、海霧」
何人かの男たちが騒ぎ、手を振り回して猛禽をなだめる。
海霧は更に男をつつき、腕の一部をざっくり切るとまだ収まらぬ思いをこらえるように、鬼道のそばにてんてんと降りる。
「お前…」
「どうした、海、味方だぞ」
海霧に言葉をかけようとして、腕をえぐられた男が怒鳴る。
いいから、手当て…と女が駆け寄り、ざめいていた洞の奥はぴったり静かに緊迫した。
一様にどうしていいか、何が起きたかわからないだろう。

海霧は鬼道のそばというよりも、主人の傍らに降りたのだ。
眼を細め、顔あたりに寄ると、首を傾げたり髪をくわえてちょっとひっぱる。
背中側に居た鬼道にはそういった海霧の全ては見えたが、妻がどうなっているかはいまだに知らない。

(つらい……)

これは抱えてはいけない後悔だとして、駆けてきた。
でもどうしよう。
死んでいたら?
ぞわっとした何かが走り、それは寒気でも恐怖でも無いのだから、
鬼道にあふれていた想いだった。

妻というには幼すぎる頃自分に嫁いで来てくれた妻。
家族の情で、母の愛で、妻としての慈しみで、鬼道を満たし、導いた妻。

(そうだ、確かに、これは神…)

鬼道はコテを脱ぎ捨てて、横倒しになった妻に手をのばす。

(神様…俺の神様なのだ…!)




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