夕香の言う通りになっているだろう。

里にはきっと遣いが行って、長や円堂や豪炎寺に、これにて終戦だと平和的な気持ちを持った誰かがそれを伝えるのだ。
安堵して、希望に満ちて、成し遂げたことに満足している。

それを壊すかもしれない。


鬼道は馬に乗っていた。
どうしてそうなったのか、自分でも今でもわからない。正しいのかもわからない。
正しいかどうかということをいつも判断の基準にしてきた。
正しくないと思うものを避け、結果失敗することもある。正しいことがただひとつだとか、無二なのだとは思っていない。それほど幼稚な時は過ぎた。

でもこうしてわけがわからなくなる時もある。

何を判断してこうなったのか、正しいものがどこにあるのか全然わからないままに、突発的にも流動的にもゆるゆるとした頭の中で身体は素早く動いたり、言葉や腕が意識を裏切る。そういう時がどうしてもあった。
若いから自制が利かないのかもと考えていた頃もあったが、自制ができないのはただの甘えだと考えなおす。しかし時にそれは意図せず起こり、それらは事故や反射に近い。

今もそうだった。


駄馬はよく走った。
脚はたくましく肥り、疲れ知らずの走りは美しいだろう。跨がる鬼道にその姿は見えない。
これは佐久間が仕込んだ馬だ。

馬屋に入ると薄暗い中に目を腫らした妹がぼんやり立っていた。

かたく凍えた指にくるまれたろうそくが、今にも消えそうな火を持っている。
鞍がのせられた馬の身体を撫でさすってやる手はみずみずしく冷え、最後の妻の爪先と、おんなじような色をしていた。

『ここに来ないなら私が行くと』

兄を見ないまま春奈は言った。

『そう思っておりました』

名前を呼ぶと、返事はせずに、馬に外套を被せてやる。また耳を撫でて首に抱きつくと、妹の目には涙があった。

『間に合わないかもしれないけれど…』

つぶれそうな声だった。



迷っているのにこうしなければいけない。
それは人としてとか罪悪感とかそういうものを懸念してではない。
鬼道は後悔を知っていた。

妻を嫌って会えた時間を長いこと無駄にしてしまったり、父に何の言葉も無いまま唐突に裏切った後の重い気分や、母を亡くして沈む友を知らんぷりして結局泣いたり、そういう数限りないものを大なり小なり抱えてきていた。
そしてそれらがどう嘆けど恨めどどうもできない、本当に過ぎ去った事柄と、いつかは受け入れなければならないこともわかっていた。

『逃げたのでは無いの。
行ったの。自分で。捧げたの』


夕香が言った「捧げた」という言葉が、いつかの佐久間を思い出させた。
それはいつだったか、いつでもだったか、とにかく佐久間は“そう”だった。
捧げる、なげうつ、捨てる、与える。
いつも、いつも、何度でも。
そしていつでも無償であった。

毒を飲んだのも鬼道のため。
何故そう思い至らなかったか鬼道は今度も後悔していた。
聞いて、わかって、今までの間に何回も。
天子一族を陥落せしめる戦を始めた顛末が、まさか身分の保証であるまいて。
佐久間が鬼道の子を孕んでは立場が揺らぐのは鬼道の方。
血祭りにあげられる事もなきにしも、あらずとも転ぶ筋道の中で佐久間は鬼道を庇ったのだ。
決して鬼道家の子を生むことを厭んで毒をふくんだわけでは無い。

涙が出そうだ。

春奈や、夕香、忍はややを知らなかった。
だからあれは佐久間の覚悟で、鬼道を全く突き放すためのことでもあった。
(言わねば生んだろうか…)
あの時ややかと確かめず、待っていたなら生んだろうか。
無いだろう。佐久間なら、今もう死ぬかもしれないのだ。

本尊潰しも彼女の指示で、どれだけ度胸が要るだろう。
そして自分を捧げるのだ。

逃げたのでは無い。終わらせに行った。
忍が夕香の言葉を聞いて、泣きながら鬼道に伝えて来た。

『遺書があるのです』

鬼道は跳ね出し、馬屋に走った。

最初からこのつもりで!
最初から!
死ぬつもりで!


吹雪の中朝が近くても闇はとっぷりたまっていて、
少しだけ先の樹も見えない。馬はよく走った。わかっているようだった。大好きな主人を追うように見えた。
「よしよし、おうおう、」
太い首をたたいて鬼道は言った。
「すまなかったなあ…」
言葉は疾風にのまれていき、顔はこわばり指が痛い。

謝って泣けた。

(すまなかったなあ…)
反芻して、悔しくなった。

『御達者で、旦那様』

初めて離殿を訪ねた日、佐久間は最後にそう言った。
達者でと。
後もう一度会うことも無い。
そういう挨拶だ。少なくとも明日明後日会うのになんら少しの不便も無い、たった庭を隔たった先の、しかも伴侶にかける言葉ではない。
そう思うと泣けてくる。
いつから戦いを始めたのか。
顔を見れば後悔する。
そう言ったのも鬼道のため。
“それなりの覚悟”が無かったから、鬼道は今も苦しんでいる。
許してくれ、許してくれ、許してくれ、許してくれ、
あとはもう頭にはそれだけだ。
許されれば間に合うのか、理屈も推論も何も無い。
あれだけ無しだと馬鹿にしていた神力や、奇跡的な何かを願っていた。

アカヤギを追って帰った夜、一晩過ごした洞がある。

そこに我が偉大なる妻、
馬の主人、救い主、戦う勇者、神、友、ただの少女、鳥の母、優しき姉、峰の花、罪人、聖人、命。

(佐久間…!)

峰がえぐれる林に入り、馬の速度を落とさせる。
うっすら明るのは日では無く、きっと洞から届く火の光。



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