「奥様はわたしに詫びたわ。膝をついていらっしゃった。あんな風にすまなそうに、わたし、言ってもらう道理なんかないのよ」

夕香が言うことにぎょっとして、鬼道はあわてた。
ひょっとしてわかっていないのでは。うまく言いくるめられて、何か協力したのかもしれない。
「夕香、旗頭のことを知っていたのだな」
なだめるように声をかけると、夕香はみがまえた。
「お前を責めるんじゃないよ。どこに行ったのか知っているのだろう?」
夕香の態度は自分のしでかした仕事を非難されることではなく、逃げた佐久間へ手がのびることへ警戒しているように見えた。
行ってしまった、と泣いた春奈といい、佐久間はどうしてこううまく娘たちの心に取り入ったのか。
夕香は鬼道をかたきのような目で見ている。それがまた鬼道の気持ちを荒立てた。
「死ぬのだぞ」
「……」
「奴を引き渡さなければ、この里は滅びる」
脅すような声になったことは自覚していた。
豪炎寺は黙っている。
「お前に何かを託したのでは無いのか。何か仕事を言い付けられたか」
夕香はじっとしていた。
言うものか、と物語る真一文字の唇に、かすかに前歯が食い込んでいる。
何か悔やんでいるのか。
「夕香さん…」
忍が切なげに呼ぶと、夕香は目だけをそちらに向けた。お互いに何を含む様子も無いが、目だけでなんとか言葉でも汲み取ろうとしているよう見えた。
「…それとも時間をかせげとか」
「!」
「そう言われたか?」
騙されているぞ、と言ってやりたかった。
夕香は円堂の話を聞かなかったので、佐久間をただかわいそうに思って逃がす手伝いをしたのかもしれない。
実際佐久間の企みは今よくわからない。円堂が語ったことと先の行動につながりやちょっとした仮説も見出だせない。
ただ立場が急に危うくなったので保身に走って逃げたとしか考えられないが、夕香は何を信じているのだろう。

謝ったとは、何にだろう。

「わたし…わたし喉を裂かれても言いません」
目に涙をうっすら浮かべて、震えながら夕香は言った。
小さかったが、折れえぬ声に兄がとうとう声をかける。
「夕香」
「約束したわ」
「夕香、一体誰と」
「やぶらない」
「一体誰と約束したのか、わかっているのか。何を約束させられたのだ」
豪炎寺の言い方はたしなめるより心配しているようだった。
妹を愚かだと思ったろうか。
床に突っ伏して泣いた春奈を鬼道は自ずと思い出していた。
「やぶらないわ」
「夕香」
「決して!」
ついに夕香は叫んだ。
「夕香!」
今度はその兄が怒鳴る。
「口が裂けたって言いません。
誰も奥様を思ってない。
なら同じよ。何を知ってたって同じよ!」
美空があわてて腕からはばたく。
蔵の梁にわっとつかまると訝しく下を見渡している。

外は一層風が激しく吹いていた。
忍はかくりと項垂れていて、まだすべてを話したわけもなかろうに力無く憂鬱にしている。
夕香は腫らした目のままで、兄に対しても知らぬ顔である。
長は黙り、虎丸は忍とほとんど同じ姿勢でいる。
鬼道もどうやらお手上げであると内心空笑いでこけていた。

びゅうう、と壁を叩く風。
本山の宿房でよく聞いた音だ。
あの山は時に風が凄く、冬には毎日吹雪が襲う。
土は熱いのに雪は溶けなくて、時々降る雨はいつも冷えていた。

御簾の奥の赤子。

思えば、確かに、ああ確かにと今にして思う。
確かに白い髪であった。
すやすや眠るちいさい子…
何故生まれる前からここに来ると、鬼道に嫁ぐと決められたのか。
ごわごわとした風に、あられが混じった。
美空が蔵の屋根を見上げ、膠着する場に降りて来る。
「美空…」
夕香がそっと口を撫でると、美空は指を甘く噛んで離す。
「らちがあかないね」
長は呟く。
「わたし言わないわ」
夕香もまた重く言う。
「わかってるよ」
長は低く笑った後、椅子から立ってまた座った。
何もできない。
朝が来るまで何も起きない。

不変が漂う蔵の中は、外の吹雪と変わらなかった。

吹きさらしに遭い凍えているのに、何をどうする手立ても無い。
喉を裂かれてもと夕香は言ったが、誰も彼女を傷付けたり、ましていたぶって真実を聞き出そうとは考えもしない。
それがわかってかわからずか、夕香はじっと緊張していた。
美空が椅子の背もたれにうつり、蔵の隣小屋で鶏が鳴いた時夕香は美空より早くそちらを見た。
「明けだ…!」
「くそっ…」
「まだ暗い」
「終わりだ」
「夕香」
「無駄だよ。もう、今じゃ…」
各々渋く呟いて、やれやれという心情で戸に向かう。
とにかくもう何も進まぬし過去の話も以上は出ない。
眠気と疲れでくらくらしつつ、先達て戸に向かった円堂の後ろから外を目指す。

「きっと終わりにしてみせますからとおっしゃっていた」

唐突に夕香は言った。
「終わり…?」
くまの浮かんだ目を細めて妹を見やる豪炎寺は、気付けば髭がのびていた。
「言わないと」
「夕香、話すのか」
今さらと思わないでもない鬼道や円堂とは違い、豪炎寺の声にはやはり心配が混じっていた。
「言わないわと約束しました」
「うん、うん」
「言いません。口が裂けても言いません」
「うん、それで」
妹の肩に手を乗せた豪炎寺は、冷えたその体に驚いた。
「そしたら奥様は謝って、何度も何度も謝って、ごめんなさいね、最後ですからね」
(そりゃあ最後だろう)
皮肉って笑ったが、それは表には出さなかった。
「わたし頼まれたわけじゃない。何を託されたわけでもないわ」
「そうなのか?」
「わたしが勝手に知ったのよ。奥様がなさろうとしていることを知りたくてこっそり」
ひときわ強い風が吹いて、戸ががたんと叩かれた。
「そしたら奥様は怒らずに、秘密にして欲しいと言っただけだった。でもわたしもう春奈ねえさまに話してしまっていて」
戸があおられたひょうしに四隅のろうそくが一本消えた。
「だからねえさまは泣いたのよ。
逃げたのでは無いわ。
美空はヤガラ川(里から3里離れた大河)を越えた時、奥様がわたしに放した合図なのよ」
(まだ騙されたことに気付け無いか)
鬼道は目の前で目一杯涙をこらえて震える少女に同情した。
騙されているということは、信じているものこそ本物なのだ。

「要求は止むわ。
きっとね」

鋭い視線が鬼道に刺さる。
鬼道が夕香に同情を思う一方、夕香は鬼道を憐れんでいた。

夕香には真実が見えている。
それを己が第一信じていた。



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