夕香が尼になると言い出した時、誰よりそれを嫌がって見せたのは思えば妻だったような気がする。
文句の無いやり方で、しかし実は有無を言わさぬ選択をさせた。山には行かせないと確固たる思いがそこにあったのだ。

戦場になる。

それが佐久間にはわかっていた。
なる のではない。
する のだから。
この戦を始めたのは、齢たった15の娘。他でも無い、鬼道の妻。本山の生神そのものが、なぜ。


夕香が拾ったサシバは治療の後に回復し、美空と名付けられ可愛がられて賢く育った。
呼べば来たし、自分の名前や求められている行動を把握していた。
美しい成鳥に育ったが、人手で育てると野性が死ぬとか言って、確かに繋がれてもいないくせに美空は離殿から離れなかった。
夕香が蔵に急ぎ来た用事に、皆一様にしばし黙っていた。
「結局女の戦いだったな」
それから円堂がぼそりと言うと、縄をほどかれていた忍は弾けるように返す。
「違います。ただ血は流させないと決めておられた」
「………」
忍は、と言おうとして、鬼道は素早く息をひそめた。
円堂に向いていた忍がきっとこちらに向いたからだ。
「私は貴方が嫌いだと何度も言った。首をはねられてもかまわないと思った。本当に好きじゃなかったから」
忍は不思議な声をしていた。怒っても無い。でも、責めてもいない。
「………」
「そういうところよ。姫様がどうして、貴方がところへ来ることを承知したか、私には全くわからない」
自分たちで決めたわけじゃないと言おうとして、思いとどまる。
忍が言いたいことはそんな事では無いはずだ。
「海霧がよく飛んだ時、姫様は反乱の指揮をとっておられた。
あの子が手紙を渡すから」
あの子というのは海霧だろう。
なるほど。騎馬隊も早く着くわけだ。
「清美の者は姫様だと知らない。姫様は男を名乗り、そう、鬼道の老爺、弱頭を装って幽された老人を演じられた」
「大叔父か…」
「今も生きているとして、もう本山を許せないとして」
佐久間は鬼道の大叔父のふりをして、本山に怨み深い人物として(方法はわからないが)陰ながら有志を募って…
円堂へ打ち明け、共に知らんぷりをしながら長い間を今日まで過ごしてきたのだった。
旗頭というのはそういう意味だった。円堂では無く、また清美の長でもない。旗頭の正体を知る円堂も、清美の誰にもそれを伝えはしなかった。
「では清美が分かれたのも、隣国が我らで無く、実のところ清美についていたことも、謀られていたのか」
円堂は困惑して見えた。
どこまで知っていたのだろう。
「謀られていたというのは、いささかおかしいのでは。姫が旗頭である事はずっと、どちらにしたってかわりないのですよ」
忍は円堂には敬語を使った。鬼道もいわれは無いと思いながら、特に気にはしなかった。今でも話がどう転ぶのか、よくわからない。
頭はなんとなくぼんやりしていた。
「だって、そうじゃないか。おれは知らなかったんだぞ」
拗ねたように言う。忍はちょっと笑った。
「もちろん。清美にだって明かさないこと、私にだって知らないこと、騎馬にとっても秘密のこと、たくさんありますのよ。だってあの方は旗頭です」
それでも円堂よりは忍には全体が見えていた。
「隣国を巻き込んだのは姫様でない。清美が勝手にやったこと…」
「そうなのか?」
「ここまで大きくしなかった、と思いませぬか。姫様ならばもっと穏和に」
そう言われたってもはや佐久間が何を考え何を成そうとしていたのか全然わからないのが正直なところだった。やはり忍は少し佐久間に心酔している。
「騎馬隊は幼い折からすべて姫様の味方です。
実は軍とて姫様のもの。社主が勝手に動かして許されることでは無いのですが、姫様は軍があること自体を嫌っておられた」
(佐久間を連れて逃げたのも、騎馬隊の隊長だった…)
たくましい駿馬とひるがえる佐久間の白衣が思い出される。裸足だった。爪先が冷たさで赤くなって…

「清美が少し逸脱したことをし始めたなら、今回の要求も予定外だったのか?本尊を寄越せとか」
「………」
忍は目をふせて、言わねばならないとわかっているものの、口に出せないようだった。
「それで、逃げたのか。
おそらくだが、天子一族を根絶やしにという清美の意志は曲がらないと思っていた。ここまでやるほど本山が憎かったなら、佐久間は一族を捨ててもいいと思っていたんじゃないのか?」
豪炎寺はいつもの、何でもない話をするように話していた。
「本尊を絶つなんて最後、本人が思い付くわけが無いものな」
その横に立つ彼の妹はなんだか物言いたげな拗ねた顔をしていたが、この少女でさえ忍と同程度知っていたのだろうか。鬼道は我ながらのんきだった。まだ気持ちが定まらない。
「虎丸は?」
「えっ」
「お前はどこまで知っていたんだ?」
すみで息さえ殺していたような虎丸は、急に声がかかってあからさまに驚いていた。
「……いえ、ぼく、…おれは…
何も…」
言いにくそうだ。
本当にそうで豪炎寺がすごむから恐いだけなのか、何か知っていたのかはわからない。
「ふうん」
「……本当に」
さっと顔色が悪くなったのが、暗い蔵でも露骨に見えた。
「円堂よりは知ってるらしい」
「違います」
「そうかもな」
「違います」
嘲笑は虎丸に対してでは無い。
豪炎寺も円堂も、
自分に対して嘲笑ったのだ。
虎丸にはそれがわからないようだった。ただ青い顔で小さくなっているのを、でも鬼道も慰めてやれなかった。

「美空が届いたのよ…
もう、もう時間が無いのだわ…」

夕香がぽつんと言った声が、涙を含んでいた。
妻に対し、友に対し、もうどんな感情でいたらいいのかわからない大人たちを尻目に、
夕香はただ慕っていた。
まだ好いていた。それが揺るが無いのであった。
「夕香さん…私にも教えてください。姫は最後に、何と言ったのです」
忍は懇願するように言った。夕香は美空を撫でながら、今にも泣きそうな顔になる。
「……嫌よ。言いたくないわ。なぜみんなここに居るの。なぜ奥様を助けに行かないの。
私にはわからない。なぜ奥様は行かなくてはならないの。ひどい。みんな嫌い。みんな嫌いよ」
ぽたぽたっと落ちてきた雫に、美空がぷるると頭を振った。
やわらかい羽毛を滑るように落ちて、涙は蔵の土床にしみる。
「夕香」
「嫌いよ。お兄様も嫌い。みんな嫌い。奥様に会いたい。会えなくなっちゃう」
触れようとした兄の手を遮って夕香は袖で涙を拭った。いつの間にか嫁いだ頃の佐久間の年を追い越していて、着ている物はよくよく見れば鬼道が初めて妻に会った日彼女が着ていた狩衣だった。

「ごめんなさい……」

忍がただ謝った言葉に、虎丸までもが涙をこぼした。

この子供らが戦う痛みを、鬼道には果たしてわからない気がした。


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