※ ちょっとモブ注意



蔵戸が叩かれた。
かなり激しい音を立てる。
「なんだい、騒がしいね。大事な話なんだよ」
長はその音の間に通る声で返す。戸の向こうには若い男が居て、焦っているのがわかった。

「火急です!」



きっと、朝には終戦の申し入れが届いて、少しばかり暮らしや習慣が変わっても、以前と大差ない生活が再開される。
これまでの話を聞いて、そういう予感があった。希望を持てた。
その心はわかりきることができなくとも、古くからの友人が成し遂げた逆転と大団円を朝にはなんの気概無く喜べる予感がしていた。

「おのれ佐久間、痴れ者が。
卑怯千万、よもや、よもや逃げようとは!」

離れを組み込んだような暗い林がいっそう不吉で邪悪に見えた。
駿馬にまたがる白衣の妻は疑いようもなく卑怯者である。怒りと、不思議な羞恥が血の道を駆け回って暴れ狂っているような気分がした。
めったに見ない巨躯馬にはいつかの騎馬隊の隊長が手綱を持ち、妻はその腕に抱えられるようにしている。
逃げる算段だ。

こうしようと決めていたのだ。
その姿を見て、鬼道にはすぐにそう思った。
外は吹雪になっていた。蔵の中は音がにぶくてほんのゆるい風が吹いているようにしか聞こえなかった。窓も無いことである。
火急、と持ち込まれた書簡には鬼道を不覚に陥らせるに十分過ぎる文句がしたためられていた。

「御達者で、旦那様」

ぶわあ、となびいた薄布のベールから薄ら笑う妻の唇が見えた。
部屋には血の気が引ききった妹と裏切り者と寸分違わぬ格好をしたカメの娘がへたりこんでいる。
「兄さん止めて!義姉さんが」
「この恥知らず。恨むぞ、許さぬぞ!」

馬は駆けた。
林には足跡が残ったが、すぐに次の雪がそれを埋める。
しばらく誰もが呆然としていた。
開け放たれた戸の向こうにはずんずんと続く林の闇が雪の反射をもってしてもなお深く深く黒かった。
吹き込んでくる吹雪にも、誰も全く動かない。誰も互いを見ていなかった。
それぞれが今起きたことと、これからのことをただ考えて無口だった。

(終わった…)

鬼道は結果ようやく脱力した。
大変なことになってしまったのに、不思議ともう焦りや怒りはわいてこなかった。かくしてなるべくしての事なのか。
「鬼道、鬼道すまない。
まさかこんなことに…」
「いい。謝るな。仕方ない。俺も知らなかった。それも悪い」
後から来て、呆然とする円堂がやっと短くそれだけ言うと、鬼道の返事は冷淡だった。
円堂が謝った事について、それが許せないわけではなかった。馬上から微笑みかける妻の姿が、鬼道の心をかたく冷やしきっていた。

「義姉さん…義姉さんが行ってしまった…」

沈黙が停滞する荒れた部屋で、春奈が泣き始める。
それは鬼道や円堂が無念に思っている気持ちとは全く違う意味に思えた。
「なんだって、泣くことは無い。恩情を乞うさ。まさか取り逃がしたその報復に罪を償う事もあるまい」
気丈にして言った。
春奈は無事でも鬼道はおそらくただで済むことは無いだろう。あれの夫だったのだから。

書簡は今まさに逃げた姫を引き渡すことを終戦の条件と告げるものだった。

実家に戻せ、というのでは無い。
条件を提出したのは目下本山の敵、清美軍である。
蔵で円堂は妙な感じがするとつぶやいていた。謀り事がなんとなく上滑りしているような気分だと。
それが当たったのだ。

円堂らの一派は諜報だけでなく、別件で本山の軍に潜っている精鋭が居た。
向こうの陣が撤退を始めたその一刻前に、本山の総大将とも言える社主(神主のようなもの)を捕らえて撤退の号令を出させたのは彼らの働きである。
さて、隣国から加勢されたはずの本山の軍は、その加勢がまるごと敵陣だとはのんきにも疑ることは無かったのだ。
はさみうち。
圧倒的な勝ち戦を最初から決めていたのに、円堂はそれを用心して用心して、里の誰にも告げていなかった。
今日の対陣に至る前に畳み込めたはずの計画は、清美軍の存在が小さくはなかったからこそこじれていたのだ。
あくまで天子一族を排除するという意思が決裂を生んで分かれたが、これが無ければ円堂は里に下りてはこなかったという。

鬼道家の妻が居たからだ。

万が一、排除の意思の元あの姫君が狙われるなら、里を襲うだろう。信仰を続ける者を弾圧せず、排除もせず、成るがままにしてあったこの里にはまだ姫を守ろうという教徒が少なからず居ただろう。
ふるさとの民が武器を手に取る惨劇を想像するだけでおそろしかったと円堂は言った。
結果的に清美軍の動きは全くわからない状況になり、彼らがどれだけの力を蓄えていたのか、彼らの味方がどう増えたのか、つかみきれないまま陣が敷かれる今日になったのだ。

本尊のみを廃する。

天子一族をことごとく抹消するやり方には賛成できなかった円堂だったが、彼以上に天子一族に複雑で深い恨みを持つ者も居ないのでは無いか。
ならば清美軍の筆頭はただ血の気が多くて、力を振るいたいとか、ただ極悪に暴れたいのでは無いだろうか。
円堂以上に激しい怒りを燃やしているとして一族を見据える清美軍は不思議に思えたが、鬼道には一族を生かす円堂も不思議だった。
円堂のように身内が無駄に虐げられた経験も無いが、異教の者には容赦の無い弾圧があったとか身の誠実や慎みを説いておいて肥やした財で酒池肉林贅沢三昧の極みを日々としていたという汚ならしいあの山一族は火にかけてさえかまわない気がした。

『でも佐久間が居たから…』

円堂はそう言いかけて、やめた。
鬼道もその名前を耳にして神経がぴりりと緊張するのがわかった。




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