※ 存外ファンタジック注意


「使ってないのがあるんだから、我慢しなさいこれで」
「イヤ。新しいのがほしい!」
「夕香!」
実は名前には複雑な制約がある。くだらないことだが。
鬼道、というのは世間一般に名乗る名前。姓ともいうが、鬼道の旦那様、鬼道の若様、鬼道のお嬢様、と、こういった調子。これは等位の高い家の者に限られるが、親しみにくさを助長するようで鬼道は好かなかった。
いちいち誰々の兄だとか弟だとか、回りくどいのだ。
あだながある場合もある。女子に限られるのだが、鬼道の妹、春奈がそうだ。春奈は一等の家の娘なので外ではどこでも鬼道のお嬢様になるわけだが、音無という異名がある。親しい異性や身内が他所で呼ぶ場合に使われ、豪炎寺や円堂はそう呼ぶ。本当は“春奈”という本名は夫と家族にしか知られてはいけないことになっているのだが、今や宗則にそれほどの強制力は無い。
豪炎寺も円堂も、呼びはしないが春奈の本名を知っている。当然鬼道も豪炎寺の妹、夕香の名前を知っている。
「鬼道だったか。よかった。つい名で呼んで誰か来たから焦った」
「けんかか。珍しいな」
「いやけんかというほどじゃないよ。ただちょっと我儘を言うので、困ってね」
「ふんだ、お兄ちゃんけち」
「こら、まだ言うか」
豪炎寺がたしなめるような声で言うと、妹の夕香はさっと隠れ、逃げて行った。
聞くと妹にねだられた物をお古があるからそれを使えと応え、拗ねさせてしまったらしい。豪炎寺の妹も頑固なところがあるので骨が折れると時々こぼす。
「なにを欲しがったんだ。我儘なんてやはり珍しいじゃないか」
「鉢と薬研だ」
「やげん、とは」
「薬の道具だよ。ほら、最近習ってるだろ」
夕香には確かに頑固な面もあるが、基本的にだだをこねたりやたらと他人を困らせるような真似はしない。物欲の激しい子供でもないから、今回のことは特に意外な言い合いである。
「ああ、うん。薬を作るのに使う道具か」
「そうそう。うちには親父の使い古しがあるから、古いがしっかりした物だし、丈夫だから良いと思うのに」
「はりきってるんだろう。それに自分専用の物がほしい気持ちはわかる」
豪炎寺はううんと唸り、ため息をついた。
「しかし、女の薬師なんて身先が無いじゃないか。道女か薬師一筋として生きていく他無いというのは」
「まあな」
「どう言っても利かんのよ」
「……」
夕香が、薬師になりたい。山に入り道女の修行をしたいと言い出して、それを止めたのは鬼道の妻、佐久間だった。
説得や強引な手段にあらず、佐久間が製薬の法を伝授するという夕香の意思を尊重しつつの解決となったのだが、夕香は製薬にのめりこんだ。鬼道は薬草の種類など数種しか知らないし、かじれば腹具合が良くなる実だとか傷に当てれば治りがはやくなる葉だとかその程度のいくつかしか知らない。
何せ薬の世界は奥が深い!
膨大な知識と柔軟な発想と、奇抜なひらめきが無ければ究めることも難しいであろう。それを思うと夕香は性に合っていたのだろう。
「おくさま、これは」
「それはシデコブシ。頭が痛むような時、それが効きます」
「し、で、こ、ぶ、し」
「まこと、熱心ですね」
まだ雪は溶けないが妻の部屋には乾草がわんさと保管されているので本物の薬草を用いての贅沢な練習ができる。夏場から秋までずっと縁側や庭や軒下で干されていた木の実や木の葉はすべてが薬の材料だった。
最近ではいつ行っても熱心な夕香が妻を独占しており、鬼道は少しおもしろくない思いをしていた。
周囲の女が個性の強いのばかりなのでうっかり忘れるが、等位の高い家の女はいくつになっても蝶よ花よ。大事に育てられた癖が抜けずにたとえ嫁ぎ先が没落しようと贅沢を諦められないようなのも居る。老いても派手な着物を好んだり、果ては若い男に気を奪われて財を分けたり待遇を良くしてなんとか手におさめようとしたりする女も珍しいくはなかった。
そんな愚かしさで破滅する女の話が戒めのためかいくつか言い伝えられている。またこれらは妻の気持ちを十分引き留めておけない夫の情けなさを批判している面もある。

妻は鬼道に妻としての気持ちは無いのかもしれない。

考えれば単純なことで妹夫婦のように互いに惹き合って結ばれたのでは無いのだから、妹が夫に抱くような想いを妻が鬼道に向けるということは、ひょっとしたら非現実的な事態ですらある。
鬼道とて、情はわけど妻を女として愛するには条件がいささか厳しかった。

ところで妻が薬師ならばあの籠熱を退治したのは妹ではなく妻なのだ。
妻は自分を薬師だとは言いはしないし心配したと言っておきながら今では籠熱のことなど知りもしなかったというとぼけた態度を通している。しかし里のどの薬師よりも優秀である事は明らかであるし里中の誰にも治せなかったものを治したのだから、それがどんなに賢かろうが今までどこでてほどきを受けたわけでもない妹が出来るというのも不思議な事だ。
「なぁ、お前なんだろう」
「なにがですの」
「あの時の俺の熱を下げたのは」
「さあ…はて」
「とぼけるなら、それもいいさ」



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