彼は二度、私にキスをしました。

一度目は眠る私に。二度目は死んだ私に。
死体に口付ける人間を、初めて見ました。私の体は白くかたまり、冷たくなっていたでしょう。おそらく状態の粗悪な遺体であったと思われます。
葬儀には、火葬にも、私は近寄りませんでした。遠くから会場をひとめだけ見て、あとは余所で時間を潰していました。だから彼のキスを見なかった。私はまた、彼の心を、無かった事にしたのでしょうか。

彼は、通夜に誰からも隠れて、棺に顔を傾けていたと、葬儀屋の男性が仕事仲間に話しているのを聞きました。私にもはや肉体は無けれど、体を針が突き抜けたような感覚がして、苦しくなった。
葬儀屋の男性は歳は初老の、猫背で痩せた方でした。以前、曾祖母の葬儀の際にもお世話になった方だと思います。彼は御霊灯のあかりが少しだけ入る母屋のかげでたばこをふかし、同僚の男性に話していました。
よう、見たか。あのボウズよ。
男性がたばこを挟んだ2本の指をすいっと門の方に向けたので、私もそちらを見てみました。
そこには遠縁にあたる同級生、幸次郎が立っていました。
婆さんの時も立派にしてたがね、今回もしゃんとしたもんだよ。
いやぁ、立派だ。と、葬儀屋の2人が頷き合うので、私は少し誇らしくなります。幸次郎は私にも自慢の親戚でした。私たちが僅かながら、血の繋がりがあるということを知る友人は少ないですが、そんな友人たちにもはばかる事なく私は幸次郎を自慢しました。
彼は洗練された獣のようです。
気高く、たくましい。私は彼のような男に生まれたかったなあと、幾度ともなく思ったものです。

だがね、こたえたのかね。今回はほら、同い年の娘だし。
葬儀屋の話は思わぬ方向にそれで行きます。どうやら今度は私について何やら物議を始めたのです。
さっき泣いてたよ、あのボウズ。可哀想になぁ。仲が良かったんだろうなぁ。
こういう葬式は、たまらんね。子供が死ぬのは何度だっても慣れないね。
幸次郎が泣くわけがない。彼は強く、気高い獣なのだから、たかだか私が死んだくらいで涙など流すはずがない。私は葬儀屋の男性が、話をだいぶん誇張したか、偽造したかと疑いました。
いやいや、ボウズの同級生だろうがね。どうやら好いておったらしいのよ。そう話しておったのを、聞いちまってよお。
たばこを吸っていない男性は、少しだけなまっていましたが、歯が抜けたような話し方は、それこそ曾祖母を思い出させて、なんとなく親しみがわくような気がしました。
可哀想になぁ。可哀想になぁ。
猫背の男性はしきりに言います。幸次郎の何が可哀想なのか、何度も何度も言うのです。
いや、さっきだがね。ふっと人がはけた時に、ほとけさんの顔を撫でてたのを見たのよ、俺。
ほとけさんというのは、この場合私の事でしょう。
なんとも言われない顔をしてて、俺、哀しくなっちゃったね。あんな子、今でも居るんだなぁ。
痛ましいね。なんとも。
遺体に直に触れるのは、それなりに覚悟が必要であると思われます。私は曾祖母が亡くなった時、彼女の手が冷えきるまで、ずっと両手で握っていました。しかし私の体温は負け、曾祖母の体から彼女が消えていくのを、じっくり思い知らされただけだったのです。以来、おそろしくて、お別れも言葉だけで終えました。彼が曾祖母のように冷えた私の体に触れたなら、一体、それは何故でしょう。
綺麗な娘だのになぁ…
いやはや、惜しいというのもいやらしいがね、本当に思うよ。ボウズのあんなところを見たら余計にな。
滅多に居ない。さぞ美人になったろうに。あれはボウズも仕方ないところだよ。
私はこの辺の話を急に話題が変わったのかと思い聞いていました。綺麗だとか、美人だとか、およそ私に釣り合う形容ぶりでは無かったのです。
目が開いてるとこを見てみたかったね。
おれぁ見たぜ。いやぁ、綺麗なのはもちろんだがね、そういやあ儚いような感じがあったよ。
門の近くで誰かと話していた幸次郎が、済んだのか母屋に戻ってきます。あくびでもかいたのか目が真っ赤です。幸次郎が通りすぎるのを、私は見納めとばかりに見ました。この時はまだ、自分がすぐに消えるだろうと思っていたのです。
目が赤かったねぇ。
すかさず、葬儀屋が呟きます。
本当はめちゃくちゃに泣きたいくらいだろう。立派なもんだ。
おう、そうだ。話がめちゃくちゃになっちまったな。
2日前には問題なく会い、話して過ごした幸次郎が、霞の奥に居るようでした。
母屋に向かう彼の背中を注視していると、不思議に彼が振り返るのです。きょろきょろとして、誰かを探しているように辺りにひととおり目をやると、私を見ました。
あのボウズ、棺に手をつっこんだと思ったら、しばらくして今度はよ、体を乗り出して。

この状態になって、はじめて人と目があいました。

ちょっとこう、あの娘のくちびるを撫でてよう。それでこう、さわるくらいの。
おいなんだ。くちづけでもしたってのか。
幸次郎と目があい、くちづけと聞いた時、去年の夏に彼が眠る私にしたことを思い出しました。このような記憶は、どこにしまわれていて、どうやって引き出してこれたのか不思議でしたが、鮮明でした。
私は幸次郎からキスを受け、目をさましました。真夜中の事です。
確かに唇に何かが当たったような気はしましたが、ねぼけていたためかあまり重要に思いませんでした。

『………どうしたの…?』

目前の幸次郎に、たったそれだけ言いました。彼は黙っていましたが、ようやく、ごめん。とつぶやき、のそのそ去って行きました。それを見届けた私は再び眠りにつきました。事態に気付いたのは翌朝です。
覚醒しきっていなかったはずの意識が、私の及ばないところで、彼をとらえていたのです。
眠る私にキスをした、彼を。

そうよ。そう、その通りよ。思わず泣けてきちまったよ、おれぁ。
なんとまぁ…美丈夫じゃないかあのボウズもよ。可哀想になぁ。可哀想になぁ。
幸次郎には、私が見えていたのでしょうか。彼が一歩、こちらにふと踏み出したので、私は会場を離れました。わからないながら、私たちは会うべきでないと思ったのです。
もし、彼に私が見えていて、声が聞こえ、話ができても、
やはり私は過去の故人で、彼は私には未来なのです。

二度と交わらぬ、これも時差でしょう。


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