何処へ行ってもそれなりになんでもこなせたし、反骨精神と根性を持ち合わせていた不動にとってどんな状況も大した障害に思わなかった。
精神的に滅入る、というものが自分に縁無い事だと信じていた。

酸っぱい口が気持ち悪い。フローリングと腕、膝、首にかかった吐瀉物が臭い。佐久間は素手で吐瀉物に汚れた不動の口元を拭い、さあ、風呂に入れ、と。それだけ言った。
「ゲホッ、……立てねえ」
「立てるようになったらでいい。ゆっくりだ」
「臭え…」
「ジャージ借りる」
シンクで手を洗う所作を見ても、吐瀉物への嫌悪が見えない。ただ手を洗うだけの行為なのか。佐久間をちょっと尊敬した。
「不動のじゃ小さいかな」
「うるせぇな」
「ふふっ、その調子」
何がその調子なんだ、と顔をしかめたが不動は気付いた。どうやら吐いた事にショックを受けていたようだ。自分の弱さが具現化されたような汚物。佐久間が来たのは偶然だった。
突然腹が病みその場にしゃがむと途端に吐いて、事態についていけず放心していたらドアが叩かれる。返事をしなかったがノックは続き、やがて佐久間が様子を伺いながらそっとドアを開け、おや、とでもいう顔をすると悠々部屋に入ってきた。

少し熱めのお湯が気持ち良い。腹具合は最悪だったが、吐き気は無い。今はただ痛いような苦しいような、圧迫されているような辛さがある。胃袋自体がせり上がってくるようだ。しかしそれも徐々に失せた。滞っていた血のめぐりが、じわじわと回復するのがわかる。
『吐けるなら全部吐いた方がいいぞ』
どうしても代表合宿での事を思い出した。佐久間には自分の危機を察知できるセンサーでもついているのだろうか。あの時の事は今更気恥ずかしい気がして、ここに来てからも話していない。佐久間も特に言い出さなかった。
『お前…なんで』
『いいからホラ。もう吐き気は無いのか?』
『ぅ、…ぅえ、』
『うんうん』
『ぇ…、ぐ』
背中をさすられてはじめて体温の低さを自覚できた。汚れた床にぽたぽた落ちる冷や汗と、喉の苦しさに滲んでくる涙に情けなくなる。それもすべて合宿中のあの夜と重なった。
何やってんだ、俺。
『よしよし』
『…っ、く、』
『疲れたな』
『……疲れた』
『うん、休もう。まずは風呂だ』
冒頭に戻る。

風呂から出ると佐久間は台所に立っていた。確かにジャージを借りる、と言っていたが、今ほとんどを洗濯に出していた事を風呂場で思い出した。佐久間は不動が昨年度まで通っていた地元中学の指定ジャージを上下で着ていた。全く気にしていないようだ。
「寝ろよ」
「お前そのジャージ…」
「前の学校のだろ?借りた」
吐瀉物はきれいに掃除され、布団は整えられていた。佐久間の尻に貼られた「不動」のワッペンが間抜けて見えて軽くふきだす。佐久間は不思議そうにちょっと振り向くが、不動は黙って布団に腰掛ける。するとあの時と同じように温められたスポーツドリンクが差し出された。
佐久間は何も言わないし、訊かない。
不動がスポーツドリンクを飲んで居る間テーブルで何か書いて居たが、急にこちらを向き、指で何かを数えながら今書いていたメモらしき物を読み返す。
「何か欲しい物あるか」
「は…?」
「飲み物とか果物とか、食べたいもの。買い物行ってくる」
「ああ…いらねえ。食欲無いし…」
佐久間は遠慮もことわりもなく不動の額に手のひらを当てる。母親から看病された経験の無い不動にとってそれは大いなる驚きであったが、佐久間は気にした風も無い。驚きのまま、体を起こしたままで居たら、空になったコップを手から取られ、身体を冷やすな、寝ろ、と叱られる。これも初めての叱咤である。
「………」
「…なんだよ」
「どういう意味、それ」
「は?」
「身体冷やすなって…」
「ああ…せっかくお風呂であったまったんだから冷やすなって事。本調子じゃないんだし、ただでさえ寝ると体温下がるんだし、本当は入浴後すぐに寝るのはよくないんだけど」
「もういいわかった」
「あ、そう。じゃあ寝たまえ」
「あいあい」
肩まで布団を上げると佐久間は更に首が隠れるまで被せてくる。それで腹の辺りをぽんぽんと叩き、にこっと笑んで見せるとコップを持って台所へ去った。

ぽかん、と気が抜けた気がした。

不動は壁の方にゆっくりと寝返りをうつと、手を繋いだ事を思い出した。
手を繋いで眠った事。眠るまでここに居る、と言ってくれた夜。抱き締められて眠った日々。1年も経っていないのに、遥かに昔の事に思え、今ひどく懐かしくなった。
「そうだ、手紙が届いてたんだ。それで来たの、忘れてた」
少し遠くから佐久間の声が届く。既に眠気がとろとろと身体の中を漂っている。
「ここに置くな」
「ん…」
「お休み」
「………」
頭を撫でた佐久間の手が離れ、それと同時に不動は眠った。

(後悔させてしまったろうな…)
夕暮れの光が部屋に満ち、佐久間は窓を開ける。葉桜になった並木が揺れて、ざわざわ鳴る。不動は小さくうなされはじめ、佐久間は黙って外を見ていた。





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