act 10.



二度と浮上しないであろうとしていた意識がじわじわと回復していく。
(土の匂いがする…)
鈍りきった五感が最初に捉えたのは草原の茂みに寝転がったような土の香り。頬が湿っている。喉が渇いている。頭がひどく痛む。そうすると勢いよくざざぁっと身が冷えた。
(寒い…)
でも暑い。熱い。肺が苦しい。
ひたひた、ひたひた、
目蓋を持ち上げる力も込められない程衰弱しているという事に、次子はのんきに驚いた。背中から体温が逃げていく。思わぬ拍子に目蓋がぱかりと開いたのだが、周囲の見事な暗中に、何かが蠢く気配がする。
そういえばここは獣の城の地下牢で、私は今ようやくにして食われようとしているのだろうか。何しろ暗くてわからない。獣が触れるほど近くに居る。相当に高い熱があがっているらしい。暗闇が激しくぐらぐらと動き回り、迫ってきたり遠退いたり、わんわんうなり朦朧とする頭では、獣が何をしているかまではわからない。
ただ獣が在るであろう暗闇に手を突き出してみた。やはり獣は布を纏い、熊ほど大きくはないらしい。やがてごわりとした毛皮に指が埋まる。撫でてみると獣はどうも驚いたらしく、飛び退き牢の隅から威嚇した。
次子はぼんやりしながらも愉快になって、笑う間に気が付いた。
獣は次子をなめていたらしい。
頬や首元が汗とは違う妙に湿っているような気がしたのは、獣の舌だ。味見のようなものだろうか。いや、肉食の獣はそんなみみちい事はしない。早速喉から食らうだろう。では親愛を込めて…それも無かろう。
(知能が高いのなら…味見という事もありえるか)
だが味見は舌を這わすだけでは成されなかろう。それこそ身でも血でも食らわなければ。
ままあって獣は躊躇いがちに床をかぎながら近付いて来た。着物の袖に鼻先が辿り着くと、ちょっと大人しくなり、やがてまた頬や首をぺろぺろとはじめる。何にせよ次子の意識を呼び戻したのは獣の舌に違いなかった。



「熊か」
「そうよ。そう仰有ってました。熊の出没なんてご存知でいらしたの」
「いやまさか。熊か。熊ねえ。次子がね…」
鬼道邸を訪ねた夏未は挨拶もそこそこにして熊と次子の事件を伝えた。
ところが鬼道はどうやら楽しそうで、嬉しそうだ。夏未の焦りや危機感は腕透かしに遭うのだった。
「何か可笑しい事でもおありかしら。あたくし焦っていますの。だってもう2週間も前の夜だったって」
「いや多分心配に及ばない。それは熊では無かろうし向かったのが谷の方角ならば」
「ごたくは聞きたくありませんの。鬼道の敷地で物騒なこと、さぞお困りでしょうけど。
けれども大事には致しませんから、どうか、少しも早く」
「次子は無事であろう」
鬼道は実にのんびりとした様子で窓縁に寄り掛かる。夏未は思わず拳を作った。
「あたくし焦ってますの」
努めて静かに、しかし物言わせぬ迫力を帯びた声で繰り返す。
「焦る事は無い」
鬼道は今度も動じない。
「今夜の事では無いですのよ…今夜の事だったとしたって直ぐにでも」
「次子を拐ったのは熊でないし、あれは人を食ったりしない。店には後で手紙を届けるよ。安心なさい」
夏未はとうとう立ち上がり、いい加減にせよと声を張った。鬼道はようやく目を丸くしたが驚きに至った様子の色も無い顔に平手を張ってやりたくなる。
「まぁお嬢、落ち着いて。説明は一向に難儀になるが、こうなった以上聞いてもらわねばならないだろう。肚をくくってもらえるかな」
「あら、いくらでも!」
「見上げた度胸だ」
鬼道は愉快そうに笑うので夏未は更に気分を害した。元々親しくなれないだろうとしていたが、此の方は掴み所な無くて其処が嫌。着席を促すので機関車よろしく息を吐いて長椅子に座す。足と腕を組む間に、鬼道も向かいの椅子に掛けた。
「いや、実に大変な話なんだが」
「もったいつけないで。次子さんが無事だとわかるまで、あたくし貴方のその態度、許さなくてよ」
「もちろん。今夜遅くなって構わないなら、後に会いに行こう。無事であろうが、俺とて心配だ」
時刻は間も無く6時を過ぎる。暖炉に火を入れ、お茶を淹れると、鬼道は部屋に鍵を掛けた。
「鍵ですの」
「いかにも。肚をくくれ、と言ったろう。でかい秘密だ。共に秘めよう」
夏未は組んだ足を下ろし、手を膝上におさめると、背をすいっと伸ばして鬼道を睨む。
「肚はくくったと申し上げましたでしょ」




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