act 07.



これが野獣か。

目前に現れた巨大な影に次子は瞬時に閃いた。
(果たして人を食うのだろうか)
勇気が次子の前にずいと出て、勇敢にも獣から次子を護ろうと身構える。それを差し置いて次子はやたらと冷静だった。獣は確かに恐ろしいけれど未知の存在への興味と五分。次子にはこういった奇特な面が備わっていた。
「つ、次子さん、おれの、おれのうしろに」
「勇気、走れますか」
「え?」
「一気に一緒に走りましょう。街道前まで出ればあれも追ってこないかもしれません」
勇気はこの状況で冷静で居られる次子に驚き感心し、素直に提案に従おうと思う。しかし共に同じように、神経をすます事まではできなかった。
次子は逃げる気などははじめから無かった。
勇気を逃がす事のみを考えて、一緒に逃げると嘘をついた。

獣がにじりと動いた瞬間、勇気と次子は走り出した。

あれはたぶん速い。
いくらも進まないうちに獣は背後から次子を倒し、首や髪をかぎはじめた。
(食う気か)
勇気は血相を変えて踵を返し、そこらに落ちていた太い枝を拾って振り回しながら近付いてきた。泣きそうだ。
「やい、やい、離れろ獣!無事ですか次子さん!」
「いいから逃げて、行って」
「ばかなこと言わないで!」
勇気の顔には恐怖がありありと浮かんでいた。圧倒的な目の前の獣も恐ろしいし現状避け難い友達の死と戦っている。
勇気が石を拾い上げたのを見て次子は焦った。あれを投げる気なら獣の注意が勇気に向いてしまうかもしれない。
「勇気、人を呼んで来て下さい」
「えぇっ?そんな、そんな…行けませんよ!」
「早く!」
「でも、」
「行って!」
勇気と次子が大声で会話しようとも、獣は落ち着いていた。気を立たせているようにも見えない。次子をかぐのに夢中だった。
しかし、でかい。ひと噛みで骨も砕けよう。この森には狼しかいないと聞いていたが、これは…熊か?
「…!」
「次子さん!」
「勇気、早く…」
熊らしき獣は地面から次子の腰と頭を持ち上げて、胸元に鼻先を擦り付けた。なお匂いをかいでいるようだ。いよいよ食われてしまうと肝を冷やした勇気とは別に、次子は獣が実に器用に手を使った事に驚いていた。
「待っていて下さい、直ぐに駐在さんを呼んできます!」
勇気が走り出すと同時に、獣は次子を抱き抱えて来た方向に走り出した。それに気付いた勇気が何事かを叫びながら、追いかけてきたらしいものの獣はやはり速かったようだ。あっという間に勇気の声が聞こえなくなった。
(巣穴に持ち帰ってから食うのだろうな…)
しかしそれよりも次子は勇気の無事と、後から自分を探してくれるだろう駐在さんの苦労なんかが気になって、どんな風に獣に食い殺されるだろう!という恐怖は無かった。諦めていた。
春奈にも悪いと思った。せっかくの兄上との会食の思い出に、傷をつけるに違いない。
(帰りに獣に食われたとあっちゃあな…)
獣の腕は優しかった。ごわりとした毛皮は土の香りがして気分の悪いものではない。これから食らう獲物に対してそんな意識も無いだろうが、潰さぬように落とさぬように、しっかりと優しく抱えてくれている。そんな気がして獣の腕は案外心地が良いものだった。
時々立ち止まっては次子の匂いをかいでまた走る。勇気と共に灯りが消えて、獣の姿はわからない。いくら走っただろう。抱えられているだけなのに疲れてきた。眠い…
こんな状況で眠気を感じるとは。思った以上に神経に負担がかかっているのかとんでもなく図太いかのどちらかだ。
やがて獣はどこかしかにたどり着き、息を正して扉を押した。

「……!」

扉…!
この獣…まさか家屋に住んでいるのか。それ以前に、扉の役割を理解し、そして利用しているのは何事だろう。
(熊では無い!)
次子はここにて初めて獣に恐怖を覚える。
此れだけの事、きっと高い知能を有するだろうに獣から感じる事が出来るのは獣の本能だけだった。
(なぶられるかもしれないな)
ただ食われるなら幸せだ。生還などは出会いの瞬間に諦めたものだがせめて苦しまず絶えたかった。
獣は再び歩き出していた。やけに安定した歩行が恐ろしい。それにしてもここは広い。単なる家屋ではなくて、屋敷か城かという程だ。
扉を潜った後にも獣は時折立ち止まり、首や胸元に鼻先を埋めて次子のにおいをかいだ。ぶさぶさとした毛皮が肌に当たるのに、その鼻は低く獣らしからず乾いているように思えた。
いよいよ食われる、しかもなぶられるともわからない場に来てまでも、次子は獣を観察していた。
布を纏っている気がする。
この獣はなんなんだろう。暗闇が心底疎ましい。食われる前に一目でも姿をきちんと見たい。
獣の頭部に触れようと次子は大胆にも手をのばす。耳や鼻の形状を知りたい。獣はというと目の前にのばされた手に足を止め、かいでみて、指をちろりと舐めただけ。
その意外過ぎる静かな反応にあっけにとられていなければ、獣が階段を下った事に気付いただろう。

次子は牢に入れられた。

冷たい石の床に下ろされ、鍵がかけられた音がする。
「…食べないの」
「………」
「何故…?あなたは…」
「………」
ぐるる、と低い唸り声が地下牢に小さくこだまする。
獣はしばらく次子の様子を見ていたようだが飽きたのかそのうち去って行った。
光の無い冷えきった牢は次子に獣の腕のあたたかささえも懐かしくさせ、死の恐怖を際立たせ、まんじりとも出来ぬ夜のみを与えた。

今頃誰かが自分を探しているのかもしれない。
しかし生きて帰る事は決してあるまい。
(帯が苦しい)
今はそれしか感じない。




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