act 06.



今にも泣き出してしまいそうな勇気が店に転がり込んできたので、ご主人と奥さんは仰天した。
丁度、春奈の準備に手伝っていた風丸も帰ると腰を上げたところだった。
「おまえ、どうしたんだ。ゆっくり息をして、そう。奥さん水を下さい」
勇気は息も切れ切れに、喉がひゅうひゅう鳴っている。風丸は店先に座り込んでしまった勇気の前に膝をつき、背を撫でながら取り敢えずなだめた。
一緒に戻るはずの次子が居ない。
しかしそれは口にしない。
1人冷静に落ち着いていたが、一方で恐ろしい予感も過る。
「つ、…」
「次子だな?どうしたんだ?」
風丸が言葉をくみ取り問いかけると、勇気は必死に頷いた。これはどうもただ事ではなさそうだ。
「く、くまに、…さ、らわれ、ました」
水を持ってきた奥さんが風丸の背後でコップを落とす。振り返ると奥さんの顔面は蒼白に、ご主人は慌てて上着を着込んでいた。
「おい、お前急いで駐在さんとこに声かけて来てくれ。勇気、お前は一緒に来い。案内が要る」
「は、はい」
目を見開いたままの奥さんを風丸は椅子に座らせて、草履を脱ぐと通りの端にある駐在所まで駆けて行った。彼女の足は早い。
その間にご主人と勇気は近所中に声をかけて、次子が熊に拐われた、探しに行くから手を貸してくれと頼んで回った。
森から走り通しだった勇気の足は腫れ上がっていた。駐在員の馬に乗せてもらい、その先導で一行は森へ入って行く。
街から見れば掲げられた松明の火はまるで火の玉がゆらゆらと列になって森の闇に吸い込まれて行くように見える。
橋を越えるまで男衆が手に持つ鎌や鉈が火に反射して光るのも見えた。
不吉に思えて仕方ない光景に、風丸は思わず顔をしかめた。

「……熊、か……」

店に戻ると奥さんが震える手で割れたコップを片付けていた。
あの森に熊は居ない。
森は深いが街が近いし、木の実のなる木が少ないために熊は住みにくい。獣はほとんど野犬や狼。勇気が見たのは熊では無い。

黙って隣にしゃがんで、一緒にガラスを紙に包む。すると奥さんが呟いた。
「あの子、知らないものね…」
“熊”の事を、だろう。
「…暗闇では、熊に見えたでしょう。熊の方が優しいでしょうが」
「……無事かしら」
「望み薄ですね」
「………」
奥さんは黙って立ち上がり、そのままじっと項垂れて居た。


『あなたなど、“やぢう”と張るわ』

あの森には熊でもなければ狼でもない、なにとも言えない獣が住んでいる。
此処が故郷という者ならば誰でも知っている。だが禁忌に近い。何故かは知らない。
傍にある脅威は子供への教訓や説教の中で役にたつことが多い。しかしそれもない。そんなに手軽なものでもない、本当に恐ろしいものなのだ。
風丸はこの街の出身では無いから“何か恐ろしい化け物が居る”というぼやけた感覚でしかその獣をとらえていない。しかし長く住んでいれば街の住人が“獣”に抱く畏怖の念をなんとなくだが感じる事ができる。“獣”はまさに禁忌なのだ。
人を食うだろうか。それもわからない。なぶり殺すのだろうか。それもわからない。
禁忌ゆえに深く訊く事は気が引けて、恐れの詳しくもわかっていない。強く、敵わない存在なのだろうか。恐ろしいなら何故退治しようとはしないのか。
疑問に思う一方で、実は核心的な考えもあった。

街の人間も“獣”のなんたるかを知らない。

長い間に伝えられてきた伝承や噂が一人歩きして、とにかく触れてはならない恐ろしい存在になってしまっただけなのではないか。
だから誰も何も知らないだけで、説明することもできないんだ。
(……と、思ってたんだけどな)

顔を覆うように立ったままじいっと黙っている奥さんを盗み見る。
ただ事では無いんだろう。
本当は存在も信じてなかったが、勇気が見て、次子が拐われたのだから嘘ということは無い。街の人々の驚愕した様子を見て尚も、誰も何も知らないとはさすがに思えない。
だからこそ、望み薄、と答えたのだった。きっとそうだろう。

あの女学生が次子を侮辱するために言った“やぢう”とは森に住む“獣”の事で、彼女の精一杯の罵りだったのだろうが、それでも言ってはいけない言葉だったに違いない。次子は“やぢう”の事を誰も知らないと言って教えてくれないと風丸にぼやいた。それならば自分も言うべきでは無いと判断し、風丸もよく知らない“獣”の話を次子に話しはしなかった。

次子の事を思えば、泣きそうだった。哀れな子だ。獣になぶられて食い殺される運命ならば、なんて酷い。

一刻程で、春奈が戻る。

森に出た男衆と駐在員は朝に成って帰ってきたが、次子は戻ってこなかった。




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