date 15:



3年前の半可な決意を再び肚と肝に据え、瞳子は抉る。
膿んでも地獄。捌いても地獄。
恨まれることも覚悟した。

「どうせ、バラバラなのよ」

あの日からね。
パソコンのキイを叩く指が少し乱暴な音を立てる。
放っておくことは出来ない。この施設は今やおかしい。それもことごとく。
ぐずぐずに膿んだかさぶたの下で異臭を放つ化膿した皮膚。かさぶたは硬く、押せばへこむ。そのイメージが喉まで上がって腑まで下がる、胃がかき混ぜられるような胸糞悪さを屈伏させつつ進軍する。至難の技だった。
(…明確な動きが無ければ、これ以上は……)

いつかは勘づかれるだろう。父は愚かだが馬鹿ではない。娘であろうが容赦も無かろう。それもとっくに覚悟に決めた。


「瞳!吐いた!」
例の“母親”からの電話の最中、風介は突然脱力し、激しく倒れそのまま嘔吐した。
職員が電話を取り次いだことを知った晴矢が走りついたのと、風介が倒れたのはほぼ同時。吐瀉物は全て水と胃液だけではあったが、たかだか小学5年の子供がそれを少しも嫌悪せず、見るからに普通ではない倒れ方をした子供を果敢に抱き抱えるのはもはや感動の域であった。
「吐いた?何故」
「どうしたらいい?呼んでもだめだ、全然だめだ」
事務室から少し離れた部屋に居た瞳子は、晴矢の叫びに飛んできた。そして思い切り顔を歪ませた。
風介よりも晴矢よりも、居合わせた職員はまずは電話を拾い上げ、その向こうを真っ先にしたり、吐瀉物を片付けたり。麻痺している!
まともだったのは晴矢だけだ。
風介はそのまま熱を出し、その日のうちには目覚めなかった。夜中にうなされ明け方に吐いた。水と胃液。晴矢はずっと付きっきりだったが、吐いた風介がぐったりしながら途切れ途切れに言った「ありがとう」に、少しだけ部屋を離れて泣いた。

「ねえさん…」
「しー…まだあまり話さない方がいいわ、風介」
「……ありがとう…」

弱りきった風介を見て、昼間の職員の対応に再び強い怒りがわく。そもそも何故電話を取り次いだのだろう。風介は拒否しなかったのだろうか。
額を撫でると汗ばんでいる。苦しそうな呼吸があまりにもか細くて心配になる。ヒロトが留守でよかった…
あれ以上あの子を惑わすのもあんまりだ。きっと風介も守ろうとするだろう。


瞳子は神経を張り巡らせて事を運んだ。晴矢は強力な助っ人だったが、時々は晴矢自身も問題になる。献身的な風介が、瞳子にはあまりにも切なく思えた。
この子は自分が生きていることを自覚していないのかもしれない。
晴矢の心を護ろうとする風介は、そのくせ自分のことなど投げやりに見えた。
その心配がいよいよ形になってしまったのが、この年の秋。風介は自分の指を噛んだ。
瞳子はこれを大変重く、恐るべき事態と捉えて更に急ぐ必要を感じた。
これは、自傷だ。悪化すれば、風介は死ぬ。
さすがに手に負えない事態にまで来てしまったと思ったが、しかし瞳子は諦めなかった。
「風、この怪我はどうしたの?」
「……さぁ…いつのまにか怪我してた」
風介の返事は決まっている。
わからない。知らない。気付かなかった。


「ヒロト、サッカー楽しい?」
欺瞞の慈善の膜が張られたような食卓だ。トレーに置かれたプラスチックの食器が“施設”を強調しているように思える。
胃が焦げそうな思いで食事を流し込む瞳子の隣で、風介はヒロトに控えめな声で話し掛ける。
「サッカー?楽しいよ。風介も興味あるなら一緒にやろうよ」
「うーん…難しそうだ」
細い首がくにゃりと曲がってぎょっとする。しかしただ首を傾げただけだった。
「教えるよ」
「……じゃあ今度。教えて」
「わかった。約束」
テーブルの下で結ばれた指が離れて食事の作業に戻っていく。風介は好きなはずの果物をまるごと残してトレーを下げた。やはり調子は良くないようだ。
絆創膏で隠れない傷が目立ち出している。風介は何度も同じ箇所を傷付けた。
いつか晴矢も気付くだろう。その時は隠し立てしないつもりだ。


瞳子の関心と注意が施設に向いているうち、いの一番に“兆候”が来たのは意外ながらもヒロトだった。

「姉さん。もう恨まれていい。私からばらす。今夜ヒロトに会いにいって」

“報せ”をもたらしたのは玲名という女子児童。
ヒロト・晴矢らと同学年の大人びた女の子だった。
「ばらす…?」
「ヒロトに恨まれるな…
でも、もう…」
「あっ、玲名」
呼び止めても玲名は聞かなかった。走り去ってその後も目を合わせない。
賢い子供故に瞳子は妙に不安になった。きつい印象を受ける程、玲名ははっきりした子供だ。言い方も強い。なのにあの歯切れの悪さ。しかし深夜、ヒロトの過呼吸症を目撃して納得する。
「姉さん…」
「風介、黙っていたのね」
「大丈夫だよ。おさまるんだ…」
「…………」
瞳子は黙って床に座った。ヒロトは風介の胴に収まるように背を丸め、ひくひくと呼吸している。風介は声もかけなかければ、ただただヒロトの背中や頭を撫でているだけだった。
「……わざと黙っていたのね…」
「……」
「……未熟ね。私…
こんなに心配されているのね…」
風介は黙ってうつむいている。

瞳子に言わないと決めたのはヒロトだった。

それをこの状況で冷静に受け取れる瞳子とヒロトの間には、断ち切り難い絆がわかる。相変わらず、すれ違いはあるけれど。
風介は瞳子を見た。見つめた。
瞳子はヒロトをじっと見ていた。

「2年前からだ。姉さん。ヒロトは少し、頑張りすぎた」

「………」
思えばヒロトは一人部屋だった。
私は、何か見落としている。

暗闇で羽虫が舞うような悪寒。
まだ大きくなる。
もっと悪くなる。
昼間の世界に住むように見せて、この子達はひたらすら暗闇に居る。

カーテンから薄く入る外の明かりが部屋を青く濁らせていた。
そこにうっすら浮かぶ輪郭。

風介の目だけがちらりと光る。





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