「行くわよ、ヒロト」
姉はおれを呼ぶのに、最初から違和感を持っていた。
なのにヒロト、ヒロト、とよく呼ぶ。
姉さんの実の兄と同じ名前をつけられた男の子、というのが、きっと姉さんの中で一番正解に近い。

おれにはわかるんだ。

そんなことを知らない姉さん。なんだか可哀想なんだ。
義父さんや、院のみんなや、お兄さんの、にせもの。
「はい、姉さん」
「ネクタイ、1人で結べるの?」
「はい」
「そう……」

だけど何も捨てられないんだね。



case02:瞳子




赤ん坊の時から院にいて、小学校に上がる前には吉良の家に入っていたおれは、院の子達とは扱いが違っていた。

週末には義父と義姉と出かけて、大きくて綺麗な場所で食事をしたり、義父さんは忙しいのに、水族館や動物園や、スポーツ観戦に連れていってくれた。

義姉はおれによそよそしくて、姉さんと呼ぶのはなんだかいつも悪い気がしていた。
義父さんがおれを呼ぶ時、嫌な顔をする時もあった。

それでも冷たくされたり、無下に扱われるようなことは無い。
優しいために、おれが可哀想だと思うのだろう。
おれは、姉さんの死んだ兄さんに似てるらしい。義父さんの考え方が変なのは、おれにだってわかった。

似てるからっていったって、これでは名前や、場所を盗んだ気分。
だからおれは本当の『ヒロト』を知らないけど、悪いような、許されないような心のまま、生きていくのではないかと思う。

さすがに自分の未来なんて、知ろうと考えない。

未来は、ぐらぐらしていて、決まっていない。暗かったり、明るすぎたり、揺らめいていて、見るのは難しい。誰のものであっても。

「今日はどこへ行くの?」
「さあ…車が迎えに来るわ。私は知らない」
本当は知っている。姉さんはどこへ行くのか知っている。おれも、訊かなくても知っている。
姉さんは行きたくなくて、義父さんとおれがふたりで行けばいい、と思っている。
知ろうと思わなければ知らなくて済むのだけど、あんまり強く思っていることとか、すごく怒っていたり、嬉しいと思っている時、
隠されていても伝わってくる。
これは仕方ない。力を使わなくても、頭の中に入ってくる。

姉さん…
姉さんはおれを嫌ってはいないんだ。
一生懸命、弟のように思おうとしてくれている。大事にして、可愛がろうと心がけてくれている。

だけどだめ。
やっぱりだめ。
『ヒロト』は兄さんの名前。

姉さんは義父さんが、おれをお兄さんのようにするのが嫌なんだ。
だからおれは悪くないとわかっていると、無理をしていつも思い込む。

本当は姉さんのことや、姉さんのお兄さんのこと、それから院の皆のこと、
考えると『ヒロト』を返したい。

義父さんにとってもそれが正しいんじゃないかな。
よくわからないけど、おれが『ヒロト』じゃないのは、
間違いないのだし。


でも、そしたら『ヒロト』のおれは、どこに行くんだろう。どうしたらいいんだろう。
もっと大きいことができる力ならよかったのにと思う。


おれは『ヒロト』の名前の意味を、本当は知らない。
そういうことになっているけど、知らないふりをずっと通せるのかな。

「車が来たわ。行きましょう、ヒロト」
「はい、姉さん」
「……もうすぐ、誕生日ね」
車に乗り込みながらそう言った姉さんの声は小さくて、おれに言ったのかひとり言だったのかよくわからなかった。
3人で出かける時の姉さんは、行きたくないとかお兄さんとか義父さんとか、それからおれの事でいっぱいで、あまり気持ちがわからない。
だけど姉さんは、優しくてそうなるのだと思う。

「誕生日ね、ヒロト」
「あ…はい」
前を見たまま、いきなり言われた。
「来週でしょう」
「はい」
「敬語はやめて」
姉さん、どうしたんだろう。
最近よく言う。敬語はやめてと。
「…は、…あ、うん」
「………」
「………」
「何か欲しい物はあるかしら」
姉さんは大学に行きながら、院のみんなの面倒を見て、義父さんの仕事の手伝いもして、それからこうやっておれの事とか、色々考えている。忙しいんだ。
「いえ、何も…」
「遠慮してるの?」
「…いえ……」
「ヒロト、敬語」
「…はい…いや、うん」
「あなたもまだ慣れないのね」

姉さんがそう言った時、
姉さんの心の一番奥が見えた。

忘れないだろう。この時のことは絶対に。


姉さんはおれを、慈悲ではなく愛してくれている。
ようやくお兄さんと、おれのはっきりとした区別がわかったのだと思う。
当たり前だけど全然違うお兄さんとおれ。

姉さんは義父さんの心と、しっかり戦うと決めたんだ。

おれのため、お兄さんのため、義父さんのため、自分のため。強い姉さん。頑張ろうという気持ちが、
きっと本当に姉さんだった。

「サッカーボール…」
「……え?」
おれはわかって、言った。
「サッカーボールが欲しい」


姉さんは喜んで、一緒に買いにいこうと言った。

本当の『ヒロト』が大好きだったサッカーを、義父さんと姉さんの間で、
おれはやりたいと言えなかった。

姉さんは、風介のように、心の近い人になった。

ヒロト、と呼ぶ姉さんの、
あの声が今はとても好き。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -