date 08:



骨と皮膚にのめり込む、拳の強さは麻痺している。
音をたてて痛んでいく頬や腹と、拳の仕組みは同じなのに。骨と肉と皮。拳が勝るかといえばそうとも言えない。
打撲に関節がいかれたり、歯や内々たる骨に負けて、皮膚が破けることもしばしば。ただ人体の中で武器として、使いやすいということに過ぎない。
殴るときは脳が悪い。
拳の痛みを狂わせる。そうなる物質を分泌したり、怒りを助けて後押しする。


施設には鈴虫の鳴き声が響いていた。
昨夜、夕涼みの催し物で外に出たとき、子供たちが捕まえた鈴虫。小さな虫かごに入れて風通しの良い廊下に置かれている。その夜が今、遥か遠い事に思えた。

瞳子は目を閉じた。
浅く息を吸い込み、深々吐き出すと目蓋を上げる。途端に飛び込んで来る重い現実が、未来さえも貫く鋭利でそこに堂々横たわっていた。

去年、晴矢は施設の子供を殴り、血を流させた。
丁度今の時期、今と同じような時間帯だった。
晴矢の体は去年より大きく力もうんと強くなっていた。利かん坊だったがそれも落ち着いて来たと思われていた。彼に心配は無かったことが、大きな誤算だったのだろう。
この奇妙に静まり返った食堂はこの世から遊離しているかのように思えた。まさかこんなことが起こるとは、そんなはずはない、という、まだ脳がこれを受け入れていないのだ。

惨状、床は血と吐瀉物と唾液に汚れ、週に一度の楽しみである、アイスクリーム。
子供が2人ひゅうひゅうと不自然な呼吸で倒れていて、椅子も机も散って倒れて一部は完全に壊れている。

「だから言ったんだ」
ヒロトが呟いた。
何の感情もこもっていないような冷めた声だった。
「…だから言ったんだ」
まっすぐ、この惨劇を目にうつしている。怯えは無いがどこか怒りを含んでいるように見えた。
「………だから…」
ため息をついたヒロトはまだ8つになったばかりの子供であることを思わせない。
「………無駄だったか…」


順を折ることは難しい。
これは突然に起き突然に終えた。
一瞬のことだが時が止まったのではないかと錯覚するほどのろく過ぎた。誰も同じ感覚でこの瞬間をとらえてはいないだろう。
夏休みの涼夜、なんでもない平和な時間、晴矢は隣に座っていた1つ上の学年の男の子を、渾身の力で殴る。
椅子もろとも飛んで行き、倒れた彼に晴矢はさらに掴みかかって殴り続けた。事態を把握した瞬間に、子供たちは我先にと席を立ち、2人から素早く距離を取った。止めようと晴矢にかかっていった子供も同じように殴られた。衝撃に吐いて、2人ともが大声で泣いた。晴矢はそれでもやめなかった。殴り続けた。
職員が押さえつけようときかなかった。
逆に突き飛ばされ、背や腰を打ち負傷者が増えた。
晴矢の様子は興奮しているようでもなく、冷静に見えた。かといって冷静が過ぎてもいない、つまり平常通りの彼のままなのだ。
誰もたった8つの子供を止められない、このあり得ない事態を瞳子は呆然としかし毅然と見ていた。

血に真っ赤になった晴矢の手の、その上下に振られる動きばかりを追う目と、何故か昨晩の夕涼み会のことを思い出しているにぶい頭に、渇を入れる勇気も持てない。
この惨状をどうやって認めろというのか。まばたきもできなくていると、小さな影が晴矢に走り飛び込んだ。
息を飲んだ瞳子の耳に入ってきたのは悲鳴だった。

「風…!」

ヒロトが驚愕にかすれた声を上げて気付く。今晴矢に飛び付いたのは風介であるのだと。
まさか。
風介は晴矢の胴に飛び付いて、誰もが二の舞を予期して青ざめる。
晴矢は意外に体の小さな風介に負けて後ろに倒れたが上体はとどめたままだった。
そのまま起き上がり再び向かうか胸に巻き付く障害を殴るだろう。
この間、数秒のことである。
身を貫くような細く切々とした叫びが鳴る。風介が声を上げて泣いたのだ。

「…声が…」

ヒロトのかすかな呟きに、瞳子はやっと理解した。風介が。この声は風介の声か。

はじめて聞いた風介の声は悲鳴だった。

晴矢はぴたりとおとなしくなり、風介を殴ることもなく、抱きつかれているのを疎むような様子も無い。
激高に疲れたのか、頭を風介の肩に乗せる。風介は相変わらず泣いていたが、抱きついているはずなのに晴矢が抱き締められているように見えた。晴矢の背中にしがみつく手に縛られる繊維が痛々しい。



……これから……

瞳子は痛みと悲鳴の充満する部屋を見渡して抉られた日常を愛おしく思った。

これからどうなるだろう…

現実味の無い明日が来るだろう。今夜は眠れないかもしれない。

血と汗にまみれた子供と泣きじゃくる子供。

この混乱と混沌に、立ち向かわなくてはならないのだ。





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