chapter.00




彼の手を覚えている。

あの時どうしても、触って、握って、指をひとつひとつ絡ませて、骨のくぼみにあの指先が優しく収まるのを夢見ていた。
ささやか過ぎる。
しかしささやかかもしれないが、
穏やかではない。

俺は自分の恋が、激しかったことを覚えている。




――ブッ…

不快な電子音が頭を撃ち抜くように耳を通る。
源田はイヤホンを乱暴に引っ張って外した。こんな街中じゃ好きな音楽だって雑音と混ざってやかましく思える。充電が切れて初めて気付いた。
ひとつも聴いていなかった。

(うるさい街だ……)

巨大な建物がずらりと並び、蜃気楼が揺れている。日傘をさした年配の女性を高校生が邪魔だと怒鳴る。
うるさい街だ。
音だけじゃない。建物も、色も、人も、不自然で不確かに見える。ビルの隙間に電車が走る。くだらない。
飽きた。
(全部ばかみたいだ)

近頃退屈していたせいか、なにもかもつまらなく思える。無気力な毎日を自覚していた。
暇というわけではないのに…
やることはある。学校のこと、サークル活動、一人暮しだから家事もやるし、むしろ忙しい。人から見たら充実した生活に見えるかもしれない。

しかしそれだけだった。

それしかない。毎日それだけ。
繰り返せば飽きもする。

このところ刺激的な体験ができたらとよく思う。日常に飽きてきた証拠だろう。
どこか旅行でも行こうかな。新しく何か始めてみるとか。したことの無い事。見たことの無い物。憧れる。
それにもうすぐ夏休みだ。

その時源田は漠然とした欲求と未来にしばし楽しく思いを馳せ、興味の無い町並みに何の注意も払わずに歩いていた。
目的地はアルバイトをしているショットバー。深夜までかかる仕事なので翌日に早い時間の講義が無い時だけの週2、3回の仕事だがなかなか稼げる。
悩みは店が暗すぎて、目が疲れやすい事。

帰り道、歩道を占領していた骨組みの足場が無くなっていた。来るときはわざわざ車道に出て通ったのでよく憶えていた。
一体何のための足場だったのだろうと見上げて、立ち止まる。
それは有名なジュエリーブランドの巨大パネルだった。
ブランドのロゴが入った真っ黒い背景に手の写真だけが写され、その指や手首にいくつも宝石が飾られた華奢なチェーンがまきついている。
「わ、見て。綺麗。なんか宝石欲しいなあ」
「買えるかよ。いくらするんだあんなの」
立ち尽くす源田のすぐ後ろを通りすぎる恋人たち。
「あー宝石ってさー、やっぱ憧れはあるよねー」
「絶対買えないけどね」
「ね、貰うしかない」
「誰からよ」
深夜の通りは人も車も少ないが、その分昼間よりも他人の声がよく聞こえたし、まわりもよく見えた。
パネルに気付く人も多く、ただ見ながら通りすぎるサラリーマンや指を差して何か話している若い女性たち。足を止める人も居た。
源田もその宝石の広告に見入ったが、見ていたのは宝石では無くその手だった。
キラキラと輝く宝石を飾るに相応しい、いや、宝石よりも美しい、芸術品のように見えた。

(佐久間……)


彼の手を覚えている。

あの時どうしても、触って、握って、指をひとつひとつ絡ませて、骨のくぼみにあの指先が優しく収まるのを夢見ていた。

過去に廃れた恋が噴火したかのごとくよみがえり、叫び出しそうだった。
絶対に見間違わない。

あの手は焦がれた彼の手だ。



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