2014/06/29 Sun 04:44 ★ 幸福の匙C 『いつか行こうね』 恋人が行きたがった場所は、巨大なテーマパークでもリゾート地でも無く、昔デパートの屋上にあったような規模の小さな寂れた遊園地だったはずだ。それももう何処だかわからない。 忘れる事が増えてきた。 10年前の世界に片寄っていては、たぶん生きていくのに不便なのだ。脳がそういう働きをしているのではないだろうか。 つまり、忘れさせる。今に馴染ませるために。 (受け入れていないつもりはないんだ。戻りたいとか非現実的なことも考えてない) (適応してるの?) (そのつもりだよ…) (懐かしい?) (懐かしいさ。懐かしいけど、ただそれだけだ。昔話は腹の足しにならない) (食べないの?絶対なの?) (………お前が居たら食うのにな) 佐久間は不動の中で、だんだん大きくなっていった。 目を閉じて思い浮かべれば、触れられるんじゃないだろうかというくらいにリアル。 頭の中のただの声や都合の良い話し相手に、記憶の佐久間を選んだだけだと思っていたが、不動は子供っぽい、未熟だったとしていた佐久間との間柄について当時全く感じなかった発見をたくさんした。 佐久間は見るからに育ちがよかったが、いたずら好きで時々は乱暴な言葉も使った。もちろんたかが知れているが、バカとかマヌケとか意気込んで口にすることがあった。 頑張って言ってみたものの、それを使う相手が本人なのだから不動には可笑しくてたまらなかった。 まつげが長かった事。 つり目を気にしていた事。 自分を好いていてくれた事。 人が話すときは遮らず、目を見てきちんと聞く娘だったが、そういえば自分と話すときだけは、目をおよがせるのは照れていたのか。 手をつなぐ時必ず了承を取る事。 下の歯の一部が八重歯になっていて、笑うと見えるそれがなんともいえず魅力的に感じられた事。 右の耳だけすぐ赤くなる事。 自分がいかに佐久間を好いていたか。 (食べないと死んじゃうよ) (いいよ別に) (だめ) (死んだら会えるかな) (………) (今どこにいるんだお前) (………) 佐久間は所在地と未来の話をしない。 人を食えというならお前を食うから居場所を答えろと言っているのに。 砂漠を何日も歩いて、もとの場所に戻ること。 滝を目指して歩いて、湿地に出ること。 ガラスの破片が底をうめつくす小川や、電柱を飲み込むように生える巨木。雨水がたまった廃墟。祈るまま朽ちた教会の躯。 絶望的な世界なのに、不動にはひどく美しく見えた。 土管に住み着いたアラブの幼い姉弟に髭を剃ってもらった。お礼に途中で摘んだスグリを分けるつもりで、全て渡してしまった。 酸味がきつくて涙が出るほどの野菜だけを食べている夫婦に、拾ったウズラの卵を分けた。 飢餓に喘ぎながら父から受け継いだ馬を殺せないでいるチベットの青年に、安全な水と引き換えに得た猪の肉を与えた。 人を食わない人に会うと、不動は生きている気になれた。 自分が弱ってくたばるのを待ってる死神が後ろからついてくる。 しかし不動の進む先には、必ずエーゴラが待っている。 (どっちにしろ地獄だ) そう思うと進むのも退がるのも同じことに思えて、時々億劫になる。 (行くの?) (いや……) (行かないの?) (………) (いいよ。どっちでも) 佐久間は俺を導かない。 いつまでもここで一緒に居る。どこまでも一緒に。 俺がくたばるとき、佐久間も死ぬ。 この世に佐久間を知る人間が、自分の他には居ないようだ。 不動は不思議と確信していた。そしてもし佐久間を記憶に留めたる人が何処かで生きていようとも、きっと自分ほど愛していないだろう。 一歩一歩進む度、何故か佐久間に会える気がする。 彼女の生をまるで信じれない今、死に向かうだろう自分の勘はハズレとも言えないのではないか。 荒野にたった1人だけでも、叫んだり裸になって走ったりはしたくない。 狂いたくないわけじゃなく、佐久間に会ったとき向こうが俺に気付かねば困る。できるだけ自分を保ちたい。 七回海を渡った先で、不動は日本に戻って来た。 誰も居ない島。 恐慌前もきっと誰も住んでいなかったのだろう。 船を出してくれた男とは言葉が通じなかったが、以前どの国で使われていたのかさえもわからなかった。 (おかえり) 佐久間の声はずいぶんと小さい。弱っていっているように思えた。 (ただいま) 草を掻き分け島を巡る。 (きれいな場所でしょ。前から見せたかったんだ) (そうだな) 小さな島は一時間もあれば島の輪郭を一周できた。中央から広葉樹の森がしげり、所々から杉が突き出ている。 やがて人工的な舗装跡を見つけ、森に入る。青い鞄が捨てられていた。 (あの鳥、綺麗) (うん) (ほら) (うん) (………) 佐久間はきっと不動をこの先に進ませたくは無いのだ。 そこが不動の旅の終わりだと、意識に宿る以上わかっているのだから。 (戻ったら?) (ダメだ。行くんだ) (でも) (終わるんだ。終わらせるんだ) (終わらせないこともできるのに) (いいんだ。もう疲れた) (…私、待ってたのにな…) 佐久間は消えた。 意識を裏切った時、森の奥で機械音がした。 長い間苔が自由にむしていた石畳が続く。 その先で不自然に白く光るエーゴラ。 ツタがからまり、立て掛けられてむき出しの底は土にまみれて錆びている。 佐久間に最後に会った時、銀細工の華奢なスプーンをもらった。 『あげる』 あのスプーンはどこかでなくしたが、今ならばその意味がわかる。 不動はエーゴラにすがるよいに体を預け、表面を撫でた。やはりかつてどの家庭にもあった冷蔵庫を思い出した。 懐かしいモーターの音。 ここで不動の旅は終わりである。 佐久間の願いは叶えないし、ここで餓えて死ぬ結末と決めた。 飢餓は苦しい。耐え難い。 そのためにこのおぞましい棺は世界に広がり、多くの人々を食人の咎におとしめた。 不動は貰ったスプーンのことを思い出した。 あれは学習机の上棚に置いて、飾ってあった気がする。 一度だけ使った。 確かコンビニで買ったプリンにスプーンがついていなかった。 エーゴラに寄りかかったまま、その前に律儀に鎮座した、少女の革靴を眺めている。 不動は大きくあくびをかくと、そのまま目を閉じ眠ることにした。 ← top → |