あの日、あの時、掌から伝わった温もりと、眼に射し込んで来た綺麗な紫は、想い出の色でした。



隠している訳ではない。

移動中の車内、病院での待ち時間、採血中、ずっと頭をその言い訳が渦巻いていた。
私の身体も血液も、きっと何かしら欠陥品なのだろう。
それでも、メンテナンスすれば使えない事はないようで、備えあれば憂いなしなのだ。
定期的に通う病院も、無機質に血液を保存してくれる場所なのだ。
私が他人様に掛ける迷惑をこんな事で軽減出来るならば、有り難い。


大きな病院の吹き抜けからは快晴が判る。
付き添ってくれた年齢も差して変わらない、嫁ぐ前のお屋敷でのメイドさんがお昼は何を食べましょうかーなんて愛らしい声で私を促してくれた時だ。
階段で擦れ違った白衣。

姫さん。
不意に耳が記憶している声音で呼び止められた。
私は振り返り、その声の、白衣の主に目を見開いた。


「おっしー君?」

「やっぱりな。姫さんやん。久し振りやなぁ。いつものやったん?」


「お久し振りです。そうです。いつものですよー」

「せや、ちょい時間あらへん?話したい事あるんや。盛本(シゲモト)さん、ちょっと姫さん借りて良えかな?」


「どうぞ。お嬢様、私、先に用事済ませて来ますから。帰られる時にはご連絡下さいな。では、忍足様、お嬢様を宜しくお願い致します」


「ごめんなさい。有難う、イノリちゃん」


丁寧に頭を下げて、私にひらひらと手を振る。
嗚呼、本当に背筋が綺麗なコだな。
旧姓家の養子に入ってから、いつでも付き添ってくれているコだ。
しっかり者でいて賑やかだったりする。
私に遠慮もしないところが一番好きだ。

忍足さんにお昼休みですか、と尋ねれば、本当は非番だったのだが、急遽呼び出されたらしい。
有能な方であるから、きっと皆から頼りにされているのだろう。

後ろを着いて行きながら、他愛ない話を振られる。
氷帝の゛あの時゛の皆さんは皆お元気そうだ。
屋上に上がる前に、カフェで購入した珈琲を片手に、日陰に当たるベンチに腰掛け、忍足さんが隣に腰掛けた。
数年見なかった内にまた背丈が高くなった気もした。
が、大学の頃から余り変わらないと言われ、そんなに会っていなかったのか…と何だかしんみりする。


「身体、平気なん?どっか不調あらへん?」

「大丈夫ですよ。心臓の方も未だ平気みたいです」

「なら…良えけど。せや、結婚したんやったなぁ。まさか、跡部やなく他人に先越されるとは思ってへんかったわ」

「おっしー君?」

「跡部には言ってへんのやろ?他の奴等にも」

「…挙式も未だ予定が立てられませんし。跡部さん、きっと忙しいでしょうし…。正直、言うのが怖くて…」

「それは否定出来んわ。跡部やったら式も挙げさせてくれへん奴とお名前が結婚したとなったら、怒り狂うで。ほんまに」

「……そう、ですわよね…」

「それにな、俺も結構、怒ってんで?何で、結婚なんかしたんや、って。いや、ちゃうな。これは只の嫉妬やな」

「………しっ、と…。おっしー君?」


急に左手を握られ、目を細めて薬指に触れる。
意図を汲み取りたくて、顔を見ようと名前を呼ぶが、その顔を見せてはくれない。
握られた左手を振り払う事も出来ず、私は右手にしていた珈琲を静かに真横に置く等の行動しか取れずにいる。

確かに、付き合った経験がある。
この人、忍足侑士は私の唯一お付き合いをした方。
けれど、ちゃんと、別れた。
何も疚しい事も、後悔等も一切ないように、また、ちゃんとこうやって綺麗に話せるように、別れた筈だ。

きちんと笑えるように。

けれど、如何して…声音が切ないのだろう。
折角、こうやって話が出来ているのに。
結婚した事は、忍足さんにとって…。


「何で、指環してへんの?」

「ああ、指環は…その…」

「隠したいん?そうや無いんやったら、まさか指環もくれへんような相手なん?」

「えと…くださらない訳ではないと思うんです。けれど……確かに、貰ってないわ。あ、でも!良いんですの。要らないんです。ほら、失くすのも汚すのも…そ、それに、家事をする時にも邪魔になるかも知れませんし!だから、その……」

「せやな。指環なんてなくても、紙切れ一枚で他人の物。人妻やな」

「おっしー君、あの…」

「良えよ。待つさかい。俺、気は長いんや」

「そ、れ……」


ふわり。
全てを言い切る前に、私の視界は真っ暗になった。
温かい感覚が目許に。
そして、弾力性がある゛何か゛が…口唇に当たった。


その瞬間、私は呼吸が、止まりそうだった。


瞬時に思い出したのだ。
嗚呼、おっしー君が私に初めてしてくれたキスと同じだ。
如何しても、何をするにも後ろめたく俯く私を、名前を呼んで顔を向けた途端だ。
掌を優しく目許を覆い、緊張やら後ろめたさも包み込む。


そうだ、これは、キスだ。


けれど、私は咄嗟に両手で忍足さんの胸元を押した。
離れようと、身体を離し、小さくなって仕舞った声で駄目ですわ、と…拒否を示した。
私は人妻であり、この方は友人であり、どちらも失いたくないのだ。


「…何年でも、俺は待つで。あれから、ずっとずっと後悔してん。何で、あの時にお名前の言う事やからって言うこと聞いて、別れたんやろうって。会わんかったら忘れるんちゃぅかな、と思っとったわ。せやけど、何処がや。

未だ、こんなに好きなんやで。

他の女なんか、お名前と比べる材料にしかならへん。付き合うて、お名前とのキスやったり、話やったり、温度やったり…逆に鮮明になるんやで?他の女抱いて、お名前の名前呼ぶ位や。

……こんなん言うたら女々しいな。せやけど、言うとかなな。好きやから、仕方ない。でも、お名前が幸せなんが前提やから、やっぱ離婚とかはさせたないねん。好きなんやろ?旦那さんの事」


「好きです。好き過ぎて、いつも辛い位です」


「せやったら、やっぱり俺は待つしかあらへんな。式も挙げさせてくれへん、指環もくれへん、そんな男でもお名前がこんな真っ直ぐ言える相手なんやろしな。

良えんや。

今度、お名前の心臓治すんは俺やから。今はしっかり腕磨くわ。お名前は安心して生きててな?」


「…おっしー君…」

「大丈夫やで。まぁ、旦那と駄目になったら俺か、跡部もおるしな。彼奴もお名前の事、本気やねん。ほんまに」


泣きそうになっているのは、忍足さんが無理をしているのが痛い程に解って仕舞ったからだ。
お互いが嫌いになって別れた訳ではなく、立ちはだかった壁の重圧に耐え切れずに別れたからだ。


---手術、明日やな。
何や、やっぱ不安なんやろ?
大丈夫やで。
難しいのは否定出来んけど、最高のメンバー揃えとるさかい。


---…でも、成功する確率は極めて低いわ。


---やっぱり不安はある、か。
今夜は俺も此処に泊まるから。
成功したら、何しよか?
遊園地とか良えんちゃうんかな。
絶叫系、一度も乗った事ないんやろ?
せやか

---今回の手術の成功率は極めて低い。
更には、成功したとしても、また近い将来に再手術になりますわ。
だから……もしかしたら、失敗するかも知れない。
ですから、おっしー君…あのですね…。


---…何で笑うん?
失敗するかもって、ほんまは不安なんやろ。
せやったら、此処は笑うとこ違うやん。
再手術になるのも、怖いっていう感情や。


---駄目ですわよ。
私は、このままでは、きっと…。


---お名前。


---私は、失敗した方が良いと思ってますの。


絶望的な顔を知っているか。
そう問われれば、はい、と答えるだろう。
手術前日の私達の会話は、余りにも自己満足過ぎた。

私は失敗していなくなれたら、と望んでしまっている節があり、忍足さんの愛情を無視した。
忍足さんは自分が重荷になり、是が非でも誰かの為に生きねば成らないという感情を取り払う為に、自分を偽った。

私から解放したい。
俺から解放したい。

それは、きっと、只(タダ)お互いを想い合っての発言だったり行動だったりした。
そして、唯(タダ)お互いを好きなままで仕舞っておける別れ話だった。
当時は未だ、深い場所に侵入出来ない、拙(ツタナ)い私達だったのだろう。


「今度な、心臓移植の権威であるオルフォードっちゅう人の指導を受けんねん。ドイツ、行って来るわ」

「そうなんですか?おっしー君なら、きっとその方を抜く技術を身に付けて来られるんでしょうね」

「せやな。全ての技術盗んで、お名前の心臓は必ず俺が救ったる。せやな、チーズとか送るわ。チョコレート好きやろ?」

「わぁ!チーズ大好きですし、チョコレート…。本当に?本当に送ってくださいますの?おっしー君」


「ハハッ。ん、綺麗な顔になったな。ほんまに送ったるから。…良かったわ。ちゃんと綺麗に微笑(ワラ)ってるで?お名前。なぁ、お名前、いつまでも微笑っとってや」

「…おっしー君…」


「ほんま、大好きやで」


改めて、結婚おめでとう。


迎えに来て下さったイノリちゃんが駆け寄ってくれたので、私は腕に抱き着いた。
私が忍足さんとお付き合いをしている時、一番相談にもなってくれた彼女は、良い男になっておりましたね、と私をもう片方の腕で抱き締めてくれた。

泣いてはいけない。

泣くのとは、少し違う感情だ。


---失敗なんて、あらへんよ?

---人間ですもの。
失敗はないとは言えないでしょう?


---失敗したら、お名前の両親は喜ぶんかな。
もう、面倒やない、って。


---如何かしら。
でも、もう……これ以上、迷惑は掛けなくないんですの。
おっしーは大事ですから尚更。


---俺かて、大事や。
お名前の事は、ほんまに大事やねん。


---手術が決まったら、言おうと思ってましたの。
……お別れしましょう、おっしー君。


別れを切り出した私に、黙って頷いた忍足さんは、手を握ったまま、一晩…私に付き添ってくれた。
好きでいてくれる事が、当時は大事過ぎて、私にはこういう守り方しか出来なかった。
別れる事で、もし手術が失敗してこの世界からいなくなった場合、早く忘れてくれるかも知れない。
頭が良い方だから、馬鹿な私を嫌いになってくれるかも知れない。

そのような方ではなかったのに、ね。


「言わなくちゃですわね。惟臣さんに」


夫婦だもの。
この隠し事は、きっと、してはいけない。
例え、これから様々な隠し事が出来ても、あっても、判断を誤らないように。

好きな人に。


fin…xxx
2013/10/16:UP



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