嬉しい約束
フィレンツェに戻ると、街は既に月に抱かれて眠っていた。人目を忍ぶようにひっそりと家に戻ったクレアは、自室のソファに座り込んだ。本当ならば、風呂に入って旅の汚れを取って寝るべきだろう。しかし、月を見てから、やたらと目が冴えてならない。クレアはレナータを下がらせ、一人になった。燭台に一つだけ小さな火を灯し、溶けゆく蝋をじっと見つめた。

「ずいぶん、元気がないんだね。旅は楽しくなかったの」
「……アラウディ」

闇の中から生まれ出でたように、彼は音もなく姿を現した。クレアは灯から視線を移し、精いっぱいの笑みを浮かべた。

「情けない顔だ。君らしくない」

アラウディの手が、頬に触れる。章魚だらけの、ざらついた掌が痛い。しかし、人肌のぬくもりは思ったよりも心地よく、クレアは陶然と目を閉じた。

「人を殺したんだね。そんな顔をしてるよ」
「言わないで、お願い」

十歳にも満たない歳で、人を殺すなんて。人が聞けば悪魔の子と罵るに違いない。ジョットもきっと、悲しい顔をする。受け入れてはくれない。

「貴方はどうして、人を殺して平然としていられるの」
「君は蟻を踏み殺して、心を痛めるのかい?それと同じ事さ」

アラウディにとって、殺人はさほど心を痛めることではない。生存競争で勝つために必要なことで、それ以上でもそれ以下でもない。そこに善悪だとか下らない感情を挟むなんて、まったくもってナンセンスだ。どうせなら楽しむべきだ。己の強さを実感する、その快感を。泣くなんて、とんだお門違いだ。アラウディは彼女の涙を強引に拭った。

「君の秘密を教えて」
「だめ。それはできないわ。だって、だったら何のために、私は」

人を殺したのか。チェッカーフェイスとの約束を反故にしたら、何もかもが意味を失ってしまう。

「その意気だよ。根負けするまでは、頑張ってくれないと」

張り合いがないじゃないか。そう言って、アラウディはベランダから出て行った。クレアは彼を見送り、そしてようやく、いつもの笑みを浮かべた。

「励ましてくれるなんて、人間嫌いにしては優しいのね」


それから、四年。フィレンツェでの準備と並行し、クレアは秘密裏に修道院を訪れて、実験を繰り返した。墓の数は日を追うように増して、丘を墓標で埋めるほどになった。しかし、いくら観察眼を磨いても、クレアは満足できなかった。手を抜いた結果、ジョットを死なせてしまうことが怖かったのだ。もはや強迫観念といってもいいかもしれない。

フィレンツェに戻ると、アラウディは必ず会いに来る。晩でも昼でもお構いなく、家の者に断りもなく部屋に来る。最初は戸惑いを覚えたが、回数を重ねれば段々と慣れてくる。人を殺すことも、彼の来訪も、慣れてしまえば日常になってしまう。感覚はマヒしてしまい、正すには何かが遅すぎた。クレアはお茶とお菓子を準備し、彼は何も言わずそれを口にした。

「君、いま幾つだっけ」

クレアがフィレンツェに来て、七年目の春。いつものように訪れたアラウディは、唐突にそう切り出した。

「十二歳だけれど、どうしたの」
「結婚話が持ち上がったって聞いたから」

女の子の結婚適齢期は、男の子よりもかなり早い。十歳や十二歳で結婚して、十三歳で初産を迎える子も珍しくない。クレアも八歳の頃から縁談話が絶えない身だ。諸事情から全て断っているが、普通なら結婚していておかしくはない。

「それなら断ったわ」
「相手は諦めてないようだけど」
「じきに飽きるわ。所詮、その程度の思いよ」

縁談話の相手は、ジャンフィリアッツィ家の長男。社交界で浮名を流してやまない優男だ。彼は流行りの自由恋愛主義を主張し、女性達に恋愛ゲームをしかける。そして、一時の情熱的な恋を楽しむと、次の女性に乗り換える。なまじ顔立ちが良いぶん、大抵の女性はころりと恋に落ちてしまう。遊ばれたと知って、蒼褪めたときにはもう何もかもが手遅れだ。しかし、いかな美男子でも、クレアの心は奪えない。遥か昔にジョットが奪っていったものを、誰が奪えるだろう。

「ふーん。興味ないな」
「そうでしょうね。おかげで、貴方と話すのは気楽でいいわ」

心底無関心でロシアンクッキーを齧る彼に、クレアは溜息をついた。恋愛どころか友情さえ感じられないこの関係は、本当に気楽でいい。

「それよりさ、君、貴族の領地を奪ってるらしいね」
「合法的に差し押さえただけよ」
「わかってる。でも、何を企んでるのかは気になるな」
「何をと言われても……」

口ごもり、クレアはふと先程の遣り取りを思い出した。フィレンツェに来て、七年が経った。約束の日まで残すところ三年となった。準備は概ね終わっている。秘密を打ち明けはしないが、約束を口にするくらいは許されよう。

「四年後に、全部教えるわ。だから、それまで待っていて」
「全部?」
「そう、全部。なんなら、とても強い人との決闘もおまけするわ」

アラウディの強さは、千里眼で幾度となく見てきたから知っている。ジョットを本格的に鍛えるとき、対戦相手として使えるだろう。

「言ったね。前言撤回は許さないよ」
「ええ、撤回なんてしないわ。だから今は、何も聞かないで」

重ねて言質をとり、アラウディは爛々と目を輝かせた。気がかりだった秘密が明かされる。おまけに血沸き肉躍るような戦闘まで付いてくる。これ以上嬉しい事はない。諜報の仕事など、適当に書いた書類を送ればそれでいい。カップが空になったのを機に、アラウディは席を立った。
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