全ては彼のために
クレアには一つだけ、前世から恐れていることがある。ジョットに嫌われてしまうことだ。自分は彼に見合う人だろうか。彼の隣に並んでもいいのだろうか。彼に出会った日から、そうした不安が心の中に居座っている。彼の愛を疑っているわけではない。彼は信頼に足る人だから。問題があるのは、クレア自身だ。
彼のためならば人殺しだって厭わない、――そんな性の悪さが問題なのだ。そんな恐ろしい女だと、気付かれたら。彼に、嫌われてしまったら。冷酷な自分に恐れ戦きながら、クレアは一心に祈った。どうか、気付かないでほしい。愛を捧げるだけの愚かな女だと思っていてほしい――と。
記憶を取り戻した今でも、それは変わらない。



「この村には、あの人の戦う相手がいないの」

二人が生まれ育ったこの村は、欠伸が出るくらい平和だ。百人くらいの小作農が自給自足の生活をして暮らしており、争いは殆どない。住民がみんな貧乏なので、兵士崩れのならず者が金を毟りに来ることもない。実入りが期待できないからだろう、盗賊でさえ村を素通りしていく。たまに家畜や女性が連れていかれるが、焼き討ちに比べれば小さな被害だ。家畜は季節がくれば増えるし、女性の家族は諦めて泣き寝入りする。
こんな鄙びた村では、ジョットに訓練を付けることはできない。彼に後悔させようにも、村人が危機に瀕する機会がないのだ。

「だから、他所へやってちょうだい。横暴なガベッロットがいるところに」

この国の支配階層は、前世のジョット達と違ってかなり退廃している。貴族達は都市部で豪遊し、領地の管理はガベッロットに任せきりなのだ。ガベッロットとは、貴族から農地の管理を任された地主のことだ。庶民にとっては最も身近な権力者で、領地内では時に貴族をも凌ぐ影響力を持つ。
領地を管理する権限を持つため、道を誤るガベッロットは多い。他所の倍以上の税率を定めたり、兵士崩れを雇って領民を虐げたり。農作物の売り上げから上前を撥ね、私腹を肥やすこともあるらしい。普通なら、そんな支配者のいる所に家族を連れていきたいとは思わない。しかし、ジョットを鍛えるには、そういう地でなければいけない。守るべき民と、明確な悪としての敵が居る場所でなければ。

「支配層と戦わせ、覚悟を持たせるつもりか」
「ええ。でも、それは今すぐにじゃないわ。準備が必要なの」
「準備?必要なものなら、手配してやるが」

彼の言葉に明らかな驕りを見て、クレアは思わず笑った。

「貴方にできるのかしら。農民の反乱を握り潰すなんて」
「なに?」
「今の彼は農民よ。支配層に逆らえば犯罪者になる。でも、彼にそんな汚名は似合わないわ」

農民の反乱は、原因が何であれ、貴族にとっては自らの富と権力を脅かす暴動でしかない。自己保身のために、彼らは反乱の指導者を賊徒として指名手配し、軍や警察を総動員するだろう。

「私は守りたいの。彼と、彼が守りたいと思った人達を」
「つまり、騒動を握り潰すために支配層に紛れ込みたいというわけか」

クレアの言いたいことを理解し、チェッカーフェイスは思わず笑みを浮かべた。まったく、この娘の脳みそは予想を上回る働きをしてくれる。彼とて、人間世界においてそれほど強い影響力を持っているわけではない。ジョットが引っ立てられた場合、正当な手段で絞首刑を回避させる術はない。
子孫を作る前に死なれたら、指輪を継承する人がいなくなる。血縁ならば弟や妹でも問題ないが、次世代に繋げる保証がほしいところではある。

「わかった。私の部下の娘として、貴族社会に捻じ込むくらいはしてやろう」
「ありがとう。身分さえもらえれば、十分よ」

そこまで話しておいて、クレアはハタと問題点に気づいた。計画の一番初めに必要なことを、すっかり忘れていたのだ。

「どうしましょう。家族を追いやる方法を考えてなかったわ」
「それなら、私が手配しよう。行き先もな。ついでに君を家族から引き離すが、構わないか」
「一度にできるなら、それに越したことはないけれど……」
「ならば決まりだ。一つ聞くが、君はその準備とやらにどれほど時間をかけるつもりかね」

問われて、クレアは考えた。貴族の子女は十八歳前後で社交界デビューする。王族の前でお披露目し、夜会に出る権利を得て大人の仲間入りをするのだ。しかし、交友関係は幼少のころから、家族ぐるみで広めておくものだ。それを基盤にして、貴族たちは社交界で華々しく立ちまわる。クレアは今、五歳の子供だ。デビュタントとなる十八歳までは十三年、ジョットの修行に三年かかると考えれば、猶予は十年となる。

「十年よ。その間に準備を終えるわ」

確固たる決意をもって、クレアはきっぱりと期限を区切った。前世では、エスプリの利いた英国の社交界にいたのだ。軟弱なイタリアの社交界など、臆する相手ではない。覚悟の決まった顔を見て、男はやはり指輪を託す相手を間違えたと思った。彼女が指輪の所持者だったならば、こんな手間を取らずともすぐに炎を宿しただろう。
しかし、世界は未だ、男尊女卑のルールに縛られている。指輪を持ったとて、彼女が戦場に立つことを、世界は許さないだろう。そういう点でいえば、男の方が指輪の所有者となったのは正解かもしれない。人間社会の煩わしさにほとほと嫌気がさし、鉄仮面の男は溜息をついた。
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