- 堕ちる所まで落ちて
切ないくらいのひもじさも、辛いばかりの路上生活も御免だ。粗末な家や不味い食事に不満は尽きないが、手放すわけにもいかない。グリエルモは銃を手に、共有地を見下ろせる丘に腰を下ろした。吹きすさぶ風は冷たく、孤独感を否が応でも感じさせる。
「……帰りてぇ」
あれほど嫌っていたフィレンツェの都を、無性に懐かしく思った。父の愛を繋ぎとめるため、母は美容にかなり苦心していた。その上、大公夫人と共に政治を支え、いつも忙しなく動き回っていた。親子で過ごせる時間なんて、砂利の中に落ちた胡麻の粒よりも少なかった。傍に居てくれたのは、ピアノを教えてくれる時くらいだった。
人肌の温かさ。母の愛用していたジャスミンの香水の、優しい匂い。ピアノを弾く間は、それらに包まれて幸せな気分になれた。それなのに、些細なことで激情に駆られて、逃げてきてしまった。感傷を振り払い、グリエルモは丘を下った。銃を作業小屋に置いて、沢へ顔を洗いに行く。
「あれっ、君……あの時の」
「あぁ?」
濡れた顔を上げると、雨の日に拾ってくれた金髪の少年――ジョットが立っていた。野良着を着ており、あの時に比べると幾分か痩せているように見える。この地で一番最初に見た顔だからか。無性に腹が立ち、グリエルモは舌打ちした。
「ひぃっ、ご、ごめん」
「何が。おまえ、こんな所で何してんだよ」
「え?ああ、この近くの農家で働いてるんだ。ブドウの収穫時だから」
「……そういや、そうだったな」
ブドウの収穫が迫ると、農家は人手を募集する。そのため、村には知らない顔がぞろぞろとやってくる。グリエルモにとっては、仕事の増える気鬱な季節だ。
「だったら、共有地には近づくなよ。俺にも話しかけんな」
「なんで?」
「村人に聞け」
犬を追っ払うように手を振り、グリエルモは沢を離れた。村人に聞けば、すぐにわかるだろう。ガベッロットの手下だと。グリエルモは銃を手に、共有地の監視に戻った。顔を洗った程度では拭えぬ郷愁に、ぐるぐると悩まされながら。
日が傾き、あと少しで夜になるという時だった。グリエルモは、ガサガサと農地の茂みをかき分ける音に気付いた。見れば、オレンジの木が葉っぱをはらはらと落としている。グリエルモは威嚇のつもりで、空に打向けて引き金を引いた。途端に動きが止まる。射撃に怯えて立ち止まったのならば、獣ではない。盗みを働こうと忍んで来た人間だ。
「チッ、動かねぇ。だったら……」
「やめろ!」
更に威嚇しようと引き金に指をかけたとき、知った声が待ったをかけた。銃を構えたまま声のする方を見ると、ジョットが丘を駆けあがって来ていた。
「やめてくれ、頼む」
「これが俺の仕事だ。関係ねー奴はすっこんでろ!」
怒鳴りつけると、彼はあからさまに震えあがった。本当は逃げたいのだろう、怯えた顔でちらちらと銃を見ている。その態度の何もかもが癇に障り、苛立ち任せに次弾を装填する。次は茂みの近くに向けて、威嚇射撃を二発行う。しかし、盗人は動かない。
「やめてくれ!子供なんだ、そんな事をしたらだめだ」
「あ?」
ジョットは大慌てで丘を下り、茂みの中に入った。そして、小さな少女を抱えて戻ってくる。恐怖のあまり硬直していたその子は、グリエルモを見るなりワッと泣き出した。
「お、お母さんが、熱を出して。オレンジ、でも、お金なくて」
「……っ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、お願いだから、殺さないで」
泣きじゃくる彼女を抱き締め、ジョットはその手に幾許かの硬貨を握らせた。グリエルモの給料より遥かに少ない、はした金も同然の額だ。
「これで買うと良い。もうここには近づいちゃだめだよ」
「いいの?お金、ないから、働きに来てるんでしょ?」
「貧しさには慣れてる。それより、君が死んでしまうほうが悲しい」
癖のある赤毛を撫でつけ、ジョットはそっとその子を下ろした。その手には、母の幻すら感じさせるような優しさが滲んでいる。彼の家を飛び出した時の失望が揺らぎ、グリエルモは息を呑んだ。
「いいか、こんな危ないことはしてはいけないんだ。親を悲しませたくないだろう」
「うん、……ごめんなさい」
「分かればいい。ほら、親が心配しているはずだ、早く帰ってやれ」
「うん、わかった。ありがとう、お兄ちゃん」
泣きやんだ子供を村へ送り出し、ジョットはグリエルモに向き直った。共有地の番犬と言われる彼は、遠目には強くなったように見えた。しかし、近くで顔を見ると、それが虚勢に過ぎないことが分かる。彼はあの雨の日から少しも変わらない。孤独に震え、全身で助けを求めていた。
「なあ。君は、共有地が何かわかってるのか?」
「貴族とガベッロットが共有する土地だろ。他所もんだからって馬鹿にしてんのか?」
グリエルモは煙草を取り出し、マッチで火を付けた。喫煙はガベッロットに教えられた、苛立ちをごまかす特効薬だ。
「じゃあ、あの子が折半農家の子だってことは」
「知ってるぜ。ついでに言うと、ここに来る盗人はみんなその村の農民だってこともな」
「おかしいと思わなかったのか?」
ジョットの言いたい事が分からず、グリエルモは眉を潜めた。彼の口調には断固たる響きがあり、まるで責め立てられているように感じる。決して誇れた仕事ではないが、詰られる謂れはない。もし道理や倫理を説くならば、殴り飛ばしてやろう。そう心に決め、グリエルモは煙草を吐き捨てた。
「何が言いたい」
「お前が騙されてるってことさ」
「はぁ?何言って……」
グリエルモは呆れ返り、新しい煙草を口に咥えた。相手にする気のない態度にめげず、ジョットは彼の知らない真実を告げた。それが、荒みきった彼にとって辛い真実だと知りながら。彼の心を更に傷つけてしまうことを、恐れながら。
「共有地の収穫物を共有するのは、貴族と農民だ。農地管理人じゃない」