- 行方不明
女中頭の言う通り、裏山には湖があった。
月に照らされた水面は、影を孕んで薄暗い暗黒を秘めている。しかし、手で掬えば水はどこまでも清らに澄んでいた。
ここなら、出来る。
そう確信し、瑜葵は打掛を脱いだ。
「伊達は未だ、同盟には参加しないつもりだ。徳川も浅井も、織田との同盟を反す気はないらしい」
「ご苦労であった、佐助!」
「うむ……どうしたものか」
信玄は顎に手を宛て、地図を見つめた。
伊達は敵にはならないのでさして問題はない。
同盟に加わらずとも、単独で尾張に行くだろう伊達を先鋒に見立てればよいのだ
問題は浅井、徳川だ。
この二勢力が寝返ってくれれば戦場はかなり有利になる。
だが、浅井長政は織田信長の義弟であり、寝返ればその絆を断ち切ることになる。
徳川も誠実であろうとし、例え魔王が相手でも契約を反故することはできないという。
このまま戦場を開けば、武田、上杉は先鋒に見立てた伊達を浅井や徳川に阻まれないようにし、尾張へ攻め込まねばならない。
かなりの苦戦を強いられる戦だが、どうしたものか。
信玄と幸村が思考を巡らせていると、佐助の左手に忍びが現れた。
「才蔵。どうした?」
「瑜葵様が寝所におりません。只今、忍隊が館内を探しております」
「「な……っ」」
才蔵の報告に、信玄と幸村は同時に顔を上げた。
「瑜葵ちゃんが居ないって……俺様の留守に、誰か忍び込んだって事?」
「いえ。忍び込んだ形跡はありませんでした」
「だったら、自分から出て行ったってことか?」
ならば、何故、何処へ。
神社には戻りたくないと言って、この武田に居るのに。
どうして自らの意思で抜け出すのか。
この時期に抜け出すなんて、敵に人質にでも取られたらどうするのだ。
同盟のうまくいかない悩みに加えこの騒動に、佐助は頭痛を感じた。
間をおかず、才蔵の隣に鎌之助が降り立つ。
「報告します。館内に瑜葵様の姿無し」
鎌之助の報告に、幸村と信玄の顔色がさっと変わる。
こんな夜中に女子が外をうろちょろするなんて危険極まりない。
すぐに探さねばと、幸村は慌てて立ち上がった。
「某、探しに行き」
「待ちな、旦那!」
佐助に制され、幸村はぴたりと足を止めた。
「今、大将や旦那が動き回ったら、要らぬ動揺を兵に与えてしまうだろ」
「だが」
「瑜葵ちゃんのことも、大事にしたら兵が揺れるよ」
瑜葵は健気で儚げで世間離れして、姫らしく踏ん反り返ることもない。
表情こそ乏しいが、優しくて穏やかなその存在を、家臣や兵、女中達はとても大切にしている。
もし瑜葵がいなくなったら、彼らは動揺するだろう。
戦が近いこの時、些細な動揺でも戦に響くようなことは避けたい。
「瑜葵ちゃんの足じゃ、行ける範囲は限られてる。この館近辺を忍隊で捜すから、旦那達は軍議を続けてくれ」
「しかし、万一……」
「侵入者は居ないから、大丈夫。俺様も行くし」
諭すように言われ、むむ、と幸村は唸った。
だが、佐助の言うことは正論で、幸村は腰を据え直した。
「佐助ぇ!瑜葵殿を必ずや無事に、連れ帰るのだぞ!」
「……りょーかい」
しゅっと音がして、佐助、才蔵、鎌之助が姿を消す。
信玄と幸村は再び地図に視線を落とし、采配を考え始めた。
佐助から、瑜葵の無事発見を聞くまで落ち着きそうもない感情を、理性で隠して。