烏と噂

信玄と幸村と佐助が城を空けてから十日が経った。

瑜葵は手習い以外特にすることもなく、変わらぬ毎日を過ごしていた。

変わったことといえば、食事を一人で食べることと、朝一人で起きるようになったことくらいだ。

守りを任された武将が瑜葵を行く戦から遠ざけたため、瑜葵の耳には、戦の情報はわずかも入らない。

結果、瑜葵は自室で稽古に勤しむしかなく、変わらぬ日常を過ごすことになった。

不意に、視線を感じて瑜葵は庭に視線を向けた。

「……?」

庭の、向こう。茂る木々の間から、誰に見られている。
なんとなくだがそんな気がして、瑜葵はぼんやりとそちらを見つめた。

「どうかなさいましたか、瑜葵様?」
「……いいえ、なにも」

傍にいた女中が、爪弾く琴の音が絶えたことに気付いて尋ねる。
瑜葵は緩慢に首を振って、また琴を奏で始めた。

瑜葵は、どういうわけか雅楽はからっきしだった。
琴は正に聞くに堪えない怪音波だったが、習ううちにましな音になりつつある。

「瑜葵様、お茶になさいましょう」
「はい」

女中に手招きされ、瑜葵は琴を弾くのをやめた。
志乃はたまたま宿下がりしており、代わりに女中が数名、傍に居る。

瑜葵の身元が判明してからは女中達の態度も軟化し、志乃以外にも話し相手が増えた。

それは嬉しいことなのだが、困ったこともある。
縁側の、日が良く当たる場所に行こうとすると、危険だからと止められてしまう事だ。

瑜葵は、太陽にあたるととても心地よいのにと思うが、危険なのでは仕方がない。
部屋の奥まったところで茶を頂き、やはり、縁側の方がいいと思い溜息をつく。

「……」

庭の方に視線を向けると、そこには一羽の烏がいた。
普通の烏よりもやや大きく、その双眸は瑜葵を確と見つめている。

「まあ、なんでこんなところに烏が」
「不吉ですわ、あちらへ行きなさい!」
「待って」

烏を追い払おうとする女中を止め、瑜葵は烏と向かい合った。
手を伸ばせば逃げられてしまう気がして、ただ見つめるだけ。

どれくらい時間が経ったのか。
瑜葵は不意に、烏が動かないのは飛び立てないからだと気付いた。

「怪我、してる……」
「え?御方様?」

女中が制止するより早く、瑜葵は庭に下りた。
烏は一瞬警戒したように身じろぎしたが、飛び立とうとはしない。

「怪我を直すだけです。ですから」

大人しくしていて、と言って、瑜葵は烏に手を伸ばした。
烏にかざした手が仄かな燐光を帯び、烏が僅かに嘴を開く。

ほどなく燐光は消え、瑜葵はほっと安堵して微笑んだ。

「もう、大丈夫です」

烏は、人の言葉がわかるかのようにかくりと首を上下させ、空に飛翔した。
それを見送り、瑜葵は危険だと言われていたことを思い出し、自室に戻った。

「瑜葵様、あのように庭に出られては困ります」
「ただでさえ、今は……その、何かと危のうございますし」
「……ごめんなさい」

詫びて、瑜葵はまた琴の弦に触れた。ビーン、と綺麗な音が鳴る。

そして、ふと、随分昔に、これに似た音を聞いた気がした。
甲斐に来るまでの記憶は空っぽなのに、どうしてかそんな気がする。

ない記憶を掘り起こそうとすると、一瞬、見た覚えのない光景が頭に浮かんだ。

大きな社。部屋の中央に座らされ、前に立つ女性を見上げる。
女性の背後、周囲を取り囲むように経つ男達は、矢を番えず弓を構えている。

「鳴弦……」

ぽつりと、呟いて。一瞬のうちに、記憶は掻き消えた。
思い出したことも、どうして思い出そうとしたのかも、消えてしまう。

「どうかなさいましたか、御方様?」
「……いいえ、なにも。名前で、呼んで」

音色が絶えたことを訝しがる女中に答えて、瑜葵は琴を爪弾き始めた。




――小田原。

瑜葵のもとを飛び立った烏が、庭に降り立った。

黒い羽根がぶわりと広がり、一瞬で長身の青年へと変わる。
それに気付いた老年の城主が、庭に面した縁側に姿を現す。

「おお風魔、御苦労じゃった。して、甲斐の様子はどうじゃった?」

こくりと頷き、青年――風魔は報告を紙に記して主に差し出した。

「ふむ、傷を癒す手、とな……噂は真じゃったか」


――四国。

釣竿を担いだ銀髪の男を見つけて、慶次は破顔した。

「元親!久しぶりだな、元気してたか?」
「見ての通りよ、ぴんぴんしてらぁ!お前も元気そうじゃねぇか、慶次!」

男はにっと口角を釣り上げて笑い、その拍子に唇から八重歯が零れる。
意外に愛嬌のある笑顔で応える男――元親は、慶次に問いかけた。

「甲斐に面白ぇ姫さんがいるって聞いたんだが、どんな姫さんなんだ?」
「ああ、瑜葵ちゃんのこと?確かに面白い姫さんだったぜ!それがさ、――……」


――安芸。

「なに、甲斐に光る手を持つ姫がいる?」
「はっ、その通りにございます。ただ光るのみならず、その手には傷を癒す力があるとか」

日光の燦々とさす庭で椿を見ていた青年は、忍の言葉に目を細めた。
その冷たく鋭利な眼光に、報告をした忍は内心震えあがった。

「その姫、一体何者ぞ。ただちに調べて参れ」
「はっ、了解しました」



(お館様と真田殿がお戻りになったそうにございます、瑜葵様!)(!)(瑜葵様っ、そのように廊下を走ってはなりませぬ!)

あとがき

一か月が十日で済んだのは、川中島で戦わなかったから。
prev Index next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -