白ひげの対話
「やっぱり、食べられそうにない?」

タバサに問いかけられ、ステラはびくりと震えた。慌てて手元の皿に視線を落とし、ぐっと息を詰まらせる。鳥の形に飾り切りされた林檎が、皿の上に鎮座している。食料の管理が難しい船上で、とりわけ新鮮なものを用意してくれたのだろう。今にも果汁が滴り落ちそうなほどに瑞々しいのに、喉に砂を詰め込まれたような心地がする。無理に口に入れようとすれば、たちまち砂の代わりに吐き気が込み上げるに違いない。

「……ごめんなさい。食欲が、ないの」

義務感で握り締めていたフォークを手放し、ステラは眉間を押さえた。あれから四日間、何も喉を通らず、一睡もできなかった。船中にひしめく男達の気配に、神経が高ぶっているせいだ。パニックを起こすまではまったく気にならなかった――気にもしていなかったのに、今は少し近付くだけで身が縮むような恐怖に襲われる。
彼らがこの部屋に来ることはないと、看護師達は断言した。しかし、どんな優しい心遣いも、胸に巣食った恐怖を和らげられはしなかった。

「いいのよ。食べられる時に食べればいいんだから、気にしないで」

皿を下げるタバサの背を盗み見ながら、ステラは考えた。マリージョアを脱走してから、少なくとも十日は経っている。その間に起きた出来事を想像するのは、さほど難しくない。天竜人に逆らったタイガーは政治犯として指名手配されている。天竜人の妻だった自分にも、さぞ高い懸賞金が掛けられているだろう――取り戻すためであれ、なぶり殺しにするためであれ。
新聞社はきっと、神の妻に成り上がった奴隷のことを記事にしただろう。奴隷でありながら、同じ奴隷を虐げた悪女としてさぞ悪辣に書いただろう。記事になるのも、後ろ指をさされるのも仕方がないと思う。ただ、この船の者達はそれを読んで、どう考えたのかが気になる。

白ひげ海賊団については、マリージョアで中将つるから聞いたことがある。船長白ひげは海賊にしては穏健派で、海軍と戦うことは滅多にない。また、船員たちを自分の家族として愛し、船員たちからは父親として慕われているという。世界政府非加盟国の多くを縄張りにし、貧民たちからは海軍よりも人気があるらしい。
しかし、彼女の語ったことは本当だろうか。マリージョアに居た元海賊の男達は、奴隷商人とさして変わらぬ卑しい者達だった。略奪や凌辱を好み、性状は卑劣で陰険、自分が助かるためならかつての仲間すら陥れるようなものばかりだった。

白ひげ海賊団だけが例外だと、どうして信じられるだろう。今にも甲板に引きずり出され、なぶり殺しにされるのではないか。夜に忍び込んできて、相手をしろと言われるのではないか。看護師ですら、微笑みの裏で軽蔑しているのではないだろうか。食事や点滴に毒を入れて、少しずつ苦しめようとしているのではないか。ひとつ疑い始めればもう、何もかもが恐ろしくてたまらない。
逃げ遂せたと錯覚して、夢見心地に過ごした十日。彼らの与えてくれたものを手放しに享受していたなんて、今となっては信じられない。疑念と共に湧き起る罪悪感が、より一層つらく突き刺さった。



騒動の翌日、翌々日、翌々々日、翌々々々日。白ひげは酒を飲まず、酒樽を持て余して考物思いに耽っていた。息子たちが話しかければ答えてくれるが、そうでないときは何かを考えている。普段は医者がいくら止めてもがぶがぶ飲むのに、もう五日も飲んでいないのだ。これは一体何事かと息子たちは戸惑ったが、訊いても答えらしい答えはない。そして、五日目になってようやく、白ひげは溜息をついて酒樽を開けた。
何らかの答えが出たらしいと察し、マルコは敬愛する父を見上げた。しかし、答えが出た割に、表情はあまり晴れやかではない。

「オヤジ、どうしたんだよい?」
「何でもねぇ、少し考えていただけだ。……だが、考えたところでわからねぇから、聞くことにした」

マルコの身長ほどもある酒樽を軽々と空けて、白ひげは立ち上がった。愛用の薙刀は椅子の傍に置いたまま、のしのしと歩き出す。普段と違う父の様子を案じていた息子たちはその歩みを目で追い、そしてギョッとした。
彼の向かう先は医務室――看護師達が門番を務め、問題の美人が籠城している場所だ。迂闊に近寄ろうものなら、隊長達ですら看護師達の鉄拳制裁を受ける。さすがに船長に手を上げはしないだろうが、母熊のごとき猛攻に遭うだろう。

「オヤジ!そこは行かねぇ方が……!」
「グラララ……わからねぇもんは仕方ねぇだろうが」

『男性立入禁止』と書かれた張り紙も無視し、白ひげは医務室の扉を開いた。診察室にいる看護師達の視線が向けられる。視線の冷やかさがすぐさま焦りへと変わるのを、いささか愉快な思いで無視する。処置室へ歩を進めると、その場に居た看護師全員が素早く扉の前に立ちはだかった。

「船長、ここから先はだめです。ステラちゃんが居るんですよ!」
「面会なんてまだ無理です。落ち着いたばかりなんですよ」
「食事だってろくに摂れないくらいなのに……!」

口々に言い募る彼女たちを見下ろし、白ひげは眉を寄せた。ひとえに患者の安寧を守りたいという使命感からだろう。こうと決めた船長を止める術などないと分かっている癖に、諦める気はないらしい。

「アホンダラァ、俺はこの船の船長だぞ。入れねぇ場所なんざあってたまるか」
「医務室は私たちの領分です!面会の日は改めて決めますから……!」
「いいや、今日だ。わかったらそこを退きな」

白ひげが一歩踏み出すと、看護師達は意地でも通すまいと処置室の前に立ち塞がった。しかし、その程度の抵抗で四皇を阻めるはずもない。白ひげは彼女達をまとめて一掴みにし、医務室の外に運び出した。そして、扉に鍵をかけ、改めて処置室に向き直った。鬼が出るか、仏が出るか――処置室の扉を開け、整然と並ぶベッドの一番奥、カーテンに守られた空間へと歩を進めた。

カーテンの向こうから、タバサともう一人――白ひげの知らない人物の声が聞こえる。ガラス細工のように透き通ったその声は、深海のように深い悲しみに沈んでなお、美しく響いた。人の喉がこれほどに美しい声を出せるのかと、白ひげは思わず感心した。美声を誇る歌姫はグランドラインに数多あれど、これほどの声は滅多に聞けるものではない。

ますます会うのが楽しみになり、白ひげはカーテンを開けた。新聞の表紙を飾った絶世の美女が、ベッドの上に起き直り、小さな皿を見つめている。やつれたくらいでは翳りもしないその美しさに、白ひげは目を瞠った。もしこの世に神がいるならば、神は彼女を手ずから作ったに違いない。長い睫毛に縁どられた双眸には海の青を、長く艶やかな髪には黄金の輝きを、白く瑞々しい肌には真砂の輝きを使ったのだろう。
気配に気付き、彼女が顔を上げた瞬間――ぱちりと二人の目が合う。それは白ひげの心臓に落雷にも似た衝撃を走らせ、そして、彼女の瞳を凍りつかせた。

「お、とこ……?」

美しい肖像画を黒く塗り潰すように、恐怖が彼女の心身を支配していく。彼女の顔からさあっと血の気が引き、全身が震え始める。一瞬遅れて白ひげに気付き、タバサはかばうように彼女を抱き寄せた。

「船長!早く部屋から出てください!」
「グラララ……出るのはお前だ、タバサ。俺ァそいつとサシで話がしてぇんだよ」
「そんな……!そんなの、許可できません!」

もがくステラを抑え込みながら、タバサは助けを求めて視線を彷徨わせた。しかし、船長の巨躯が邪魔をして、同僚たちの姿が見えない。船長に押し切られた時点で、諦めたのだろう。彼の決定を覆せないのは、タバサとて分かっている。分かっているが、何とか阻止しなければステラが壊れてしまう。

「いや、いやよ、男はいや!来ないで、こっちに来ないで……!」
「大丈夫、大丈夫だから……!」

タバサの手を振りほどき、ステラはベッドから転がり落ちた。少しでも男から離れようと後ずさるも、すぐに壁に行き当たる。逃げ場のない状況が、思い出したくない記憶を呼び覚ます。火床から焼き鏝を持ち上げた男の姿が、視界にフラッシュバックした。炎に照らされた男の影は大きく、壁に張りついて助けを乞う自分はあまりにも卑小だった。
背中を焼かれた痛みを思い出し、ステラはたまらず体を屈めた。タバサはその背に覆い被さって、船長を振り仰いだ。首を横に振って、これ以上は無理だから退いてくれと訴えた。

「お前はちっと外に出てろ」
「船長!」

白ひげからすれば、タバサの抵抗などかわいいものだ。ちょいと摘まんで扉の外に放り出し、ステラに向き直る。小さく蹲る背中を前に、さてどう切り出したものかと考える。見聞色でわかるのは、彼女がとにかく怯えていることだけだ。

「男が怖いらしいなぁ、お前」
「っ……!」

地鳴りのような声が、話しかけてくる。女性の高く軽やかな声とは明らかに違う、重みのある低音にステラの体は震え上がった。耳を塞ぎたいのに、手に力が入らない。
それなのに、男の気配が一歩分だけ近づく。いつだってそうだ、男という生き物は怖がれば怖がるほど近付いてくる。ぞっとするような薄ら笑いを浮かべて、人を甚振ろうとするのだ。恐怖の中に確かな憤りが湧いてきて、ステラは声を張り上げた。

「こ、怖い……だって、いつも、私達を痛めつけて、笑って……!殴られて、犯されて、たくさん……!嫌い、男なんて、大嫌い……!」
「そうか……だったら、俺も怖ぇのか」

なぜ当たり前のことを聞くのか。こんなに震えているが見えないのだろうか。奴隷商人も海賊も、貴族も天竜人も、男ならばみな同じだ。欲にまみれた薄汚いサルども、性根の卑しい下賤なケダモノだ。

「男なんて、みんな同じよ、貴方もあいつらも……!」
「そいつは聞き捨てならねぇな。俺を奴隷商人や天竜人と一緒にするんじゃねぇ!」
「……!何が、何が違うと言うの、貴方とあいつらの何が!」

雷鳴のような怒鳴り声に、ステラもまた反射的に言い返した。恐怖はいま遠く、ただ心の底から突き上げるような怒りが燃え上がる。怖がる自分を虐めて、心を粉々に砕こうとしている。大声で怒鳴りつけて、無理矢理にねじ伏せようとしている。それなのに、何が違うというのか。

「貴方だって、所詮は男でしょう!私を弄ぶか、売るかするに決まってる!徒に傷つけて、苦しむのを見て笑うんでしょう……!」
「俺ァそんな趣味はねぇ!」
「嘘よ!信じられない、信じられないわ……っ」

苛立たしげに眉を寄せる男が怖くて、ステラは俯いた。泣きたくないのに、握り締めた拳に涙が落ちる。心が千々に引き裂かれて、辛くてたまらない。
頭上で男が溜息をつき、身じろぐ気配がした。散々に言い返したのだ、きっと打たれるに違いない。身丈は優に三倍以上あったから、殴られたら大怪我を負うだろう。ステラは反射的に身を縮めたが、予想に反して暴力を加えられることはなかった。

どんと部屋全体が揺れ、そして静かになる。静寂に耐えかねて顔を上げると、男はこちらに背を向けて床に座っていた。座ってもなお山のように大きい男の、白いコートを羽織った広い背中がステラの視界一杯に広がる。
コートの中央に描かれたドクロに、ステラの目は釘付けになった。三日月のような白ひげを蓄えたジョリーロジャ――不敵に笑うその骸骨と骨十字。世界政府の公証に似たその意匠は、五つの海を統べるのはこの俺だと主張している。世界政府ではなく、この俺だと。

ステラはマリージョアで、世界政府の絶対的な権力を嫌というほど見てきた。勝てるはずがない、屈するしかない――戦う前からそう諦めてしまうほどに。その強大な存在に対し、このドクロはあまりにも不遜すぎる。これを掲げて悠々と海を航れるなんて、ステラには到底信じられなかった。

「これなら、ちったぁ話もできるだろう」

虚を突かれた心に、男の言葉がすとんと落ちてくる。男は背を向けたまま、ちらともこちらを振り返らない。巌のように大きな背中が、攻撃する意思はないと告げているように思えて、ステラは目を瞠った。目じりに溜まった涙がすっと頬に流れ、ぱたりと指先に落ちた。
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