看護師の使命
泣き疲れて眠ったステラを寝台に運び、タバサは彼女の傍に腰掛けた。取り乱す前までは淡く色付いていた頬が、今は生気を感じられないほど蒼褪めている。疲れに沈む眼窩からは、彼女を苛む恐怖と絶望が涙となって零れ落ちる。まるで、小舟から拾い出されてすぐの彼女に戻ってしまったみたいだ。

「……ごめんなさい」

誰よりも傍に居たのに、タバサはステラの心が抱える痛みを知らなかった。手を振り払われたとき、彼女の必死な顔を見てようやく気付いたのだ。優しい微笑みの裏に彼女が隠していた心の傷と、深く根深い恐怖の存在に。
タバサは立ち上がり、診察室の方へ行った。船員を一人残らず追い返したらしく、そこには看護師しかいなかった。みんな戸惑いを隠せないようで、心配そうにステラのいる処置室の方を見ている。

「ステラちゃんは?」
「なにか処置した方がいい?鎮静剤とか……」
「今は眠っているわ。そっとしておいてあげて」

カルテを手に取ると、タバサは先程の経過をできるだけ客観的に書きつけた。そして、それを手に甲板へ出た。医務室の扉には『男子禁制、断固立入禁止』と書かれた紙が貼られている。遠巻きに様子を窺う船員たちの視線を避けて、タバサは船長が居るであろう甲板に向かった。
三島型船であるモビー・デック号の、甲板楼と船首楼の間にはすり鉢状になった溜まり場がある。天気のいい時、船長はよく専用の椅子に座り、息子たちと談笑している。タバサが行くと、やはり彼らはそこで待っていた。何が起きたのか知りたそうな面々を手ぶりで制して、タバサは船長の前へと回り込んだ。

「さっきは騒がしかったな。何があった」
「……その、ステラちゃんが」

眼光鋭く問われて、タバサは口籠った。深呼吸をして、震えそうになる声を取り繕う。カルテをマルコに渡して、改めて船長を見上げた。

「甲板に出ようとして、ステラちゃんが錯乱しました。おそらく、重度の男性恐怖症かと思われます」

波のようなざわめきが、船員たちの間に広がる。疑うのも無理はない、男が怖くて天竜人の妻など務まるはずがないからだ。しかし、船中に響いた絶叫は、すわ敵襲かと思うくらい鬼気迫っていた。まるで外敵を前にした小鳥の、命の危機に瀕したときの絶叫のようだった。
あれが演技ならば、相当の役者だろうと誰かが言った。天竜人を篭絡した悪女ならば、それくらいの演技もできるかもしれないと誰かが応える。

「あれは演技なんかじゃありません!本当に、心の底から怖がっていました!」

無理解なやり取りにカッときて、タバサは思わず怒鳴った。看護師達はステラの傍に居たから、あれは決して演技などではないと分かる。しかし、船員たちは彼女と接しておらず、紙面の情報しか知らない。本当の彼女を知らないから、演技ではと勘繰るのだ。
そうと判っていても、タバサは悔しくてたまらなかった。あの悲鳴のどこに偽りがあるものか。空を切り裂かんばかりの慟哭の、この世の絶望を見たかのような嘆きのどこに、悪意の入り込む余地があるというのだろう。

「ステラちゃんは、悪魔の実の能力で故郷に帰ると言っていました。それで、船長にお礼と、下船の許可をいただきたいって」

震える両手をぐっと握りしめて、タバサは嗚咽を飲み込んだ。扉を開ける前と開けた後、ステラの柔らかな微笑みと、怯えてうずくまる姿が脳裏を彷徨う。
思えば、警戒していた時ですら、彼女は微笑みを絶やさなかった。傷が痛もうと、熱がひどかろうと、彼女はいつも微笑んでいた。それは彼女の奴隷としての習慣だったのだと、今ならばわかる。あまりにも自然すぎて、誰にもそうと気付かせなかっただけだ。
もしかすると、彼女自身も気付いていないのかもしれない。男性への恐怖心を、まるで自覚していなかったように。だから船長に会いたいと言い、甲板に行こうとした。

「私、ちゃんと分かっていると思っていました。仲良くなれたって、全部、治せたって……でも、私達じゃだめだったんです」

タバサは医者ではなく、看護師だ。患者にとって最適な環境を作り、苦痛をなるべく排除し、最適な治療を適切な時期に施すことを使命とする。白ひげ海賊団の船員はみんな、喧嘩や戦闘で生傷が耐えなくて、毎日のように誰かの手当てをしている。とても充実した日々の中で、体の傷を治すことばかりに注意していた。
心の傷を見落としてしまうなんて、慢心していたのだ。怯えるステラを前に、タバサはあまりに無力だった。ただ馬鹿のように大丈夫と繰り返すばかりで、何もしてやれなかった。

「私達じゃ、ステラちゃんが怖がっていても、悲しんでいても、助けてあげられない……!」

気丈な看護婦がわっと泣き出すのをみて、白ひげは片眉を上げた。日々の報告を受ける中で、看護師達がステラを気に入っているのは分かっていた。しかし、ここまで入れ込んでいるとは思わなかった。

「そのステラってのは、どんなやつだ」
「ステラちゃんは、……優しくて、我儘なんて一つも言わなくて、素直で」

船員たちと違って、ステラは看護師達の指示にきちんと従った。薬をきちんと飲み、ベッドから逃げ出さない。治療を最善のものであると疑わず、迷惑そうな素振りなんてちらとも見せない。聞かん気の強い船員たちに手を焼いてきた看護師達にとって、それだけでも涙が出るくらい嬉しかった。
代わる代わる構いに来る看護師達に、彼女は快く応えた。たとえ奴隷の習慣からのものであっても、微笑みの全てが嘘だったはずがない。あんなにも温かく、優しさに満ちていたのだから。

「素直で、……悲しそうに、拒絶する人……」

話したくないことを訊かれたとき、ステラはにこりと笑って黙る。八の字に眉を下げ、物悲しげに笑うのだ。話せないことなんて誰にでもあるし、申し訳なく思うようなことでもない。マリージョアでの立場を考えれば、話せないことなんて幾らでもあるだろう。
しかし、彼女はそれを自分の罪と思い、優しい誰かを傷付けてしまうと悲しむ。傷だらけでも相手を想う心の、なんと美しく哀しいことか。

「誰かが、助けてあげないと、死んじゃうような人……!」

過去の呪縛に囚われたまま、彼女の心は恐怖に引き裂かれている。誰かが助けてやらなければ、あの華奢な体はトラウマに耐えきれずに粉々になってしまう。捨てられた奴隷達の多くが自ら命を絶ったように、救われないまま死んでしまう。

「船長。ステラちゃんを助けてあげてくれませんか……?私達じゃだめでも、船長なら……!」
「馬鹿を言え、俺ァ医者じゃねぇ。そもそもが男だ」
「でも……っ」

反論できるだけの言葉がなく、タバサは口籠った。船長――白ひげはこれまで、行き場のない若者たちを、家族という限りなく広い器に迎え入れてきた。彼の差し伸べた手は、孤独に打ちひしがれた者にとって奇跡にも等しい救済なのだ。
彼らと同じように、ステラの心も救ってほしい。そう願う一方で、男である彼がステラの希望になり得ないこともわかる。ちらと男を見ただけで恐慌状態になったのだ。無理に会ったとて、徒に心の傷を抉るだけで終わってしまうだろう。会話すらままならないのでは、救えるものも救えない。

「落ち着くまで、傍に居てやれ。挨拶はいい、無理はさせるな」
「はい……っ、すみません」

頬の涙をさっと拭い、タバサは足早に去った。後に残された気まずい沈黙を振り払うように、船員たちは努めて明るい声で話し始めた。マルコやフォッサなどの隊長達はカルテを回し読みし、本当に男性恐怖症なのか、もし本当ならばどう扱えばいいものか議論している。白ひげは傍らの酒瓶に手を伸ばし、どうしたものかと思案した。
会う日を楽しみにしていただけに、話せないのがただただ残念でならない。そしてそれ以上に、天竜人の変わらぬ暴虐ぶりに腹が立つ。今の気分では酒が不味くなりそうで、白ひげは手に取った酒瓶を持て余した。


また夢が襲ってくる。娘達が男達に捕まり、どこかへ引きずられていく。涙に濡れた青い瞳が、ステラに助けを求めている。たまらず追いかけようとすると、背後から伸びてきた手に押さえ付けられる。覇気を使っても振り解けず、娘達がどんどん遠くへ連れ去られていく。

「やめて!あの子達には……!」

ステラがどれほど乞おうと、男達は全く聞く耳を持たない。これは上玉だ、丁寧にしなければと言葉を交わしている。商品でなければなぁという呟き、無遠慮に背中を撫でる手に吐き気がする。

「いや……!やめて、お願いだから……!」

遠くから、娘達の悲鳴が聞こえてくる。あの子達が泣いているのに、すぐに抱き締めてあげたいのに。男達に捻じ伏せられたまま、ステラは動けなかった。首輪についた鎖を引っ張られ、口に襤褸を突っ込まれる。背中に迫る熱気に、恐怖が込み上げる。
誰か――、ステラは祈るような思いで助けを求めた。そんなものは来てくれなかったと、分かっているのに。
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