救われたと知る
カチャカチャと、金属の擦れる音が聞こえる。地獄に落ちてからというもの、いやというほど聞いた音だ。首輪と鎖が擦れるたび、それは耳障りで不吉な響きを聞かせた。お前は奴隷だと、この地獄で死ぬ定めなのだとこの身を呪うのだ。
やはりあれは夢だったのだろう、マリージョアから逃げ出せるはずがなかったのだ。胸にひたひたと広がる絶望を、ステラは諦めて受け入れた。この命の終わりに見たものが、煤煙の巻き上がる茜色の空ならばどんなに良いだろう。

きっと豪奢な牢獄が見えるのだろうと思い、ステラは薄く目を開いた。すると、柾目のきっちりと並んだ木の天井が見えた。清潔だが飾り気のないそれは、マリージョアにはありえないものだった。上級の奴隷には、壁紙を貼って金銀財宝で飾り立てた部屋が与えられる。下級の奴隷は、今にも朽ちそうな粗末なあばら家に住まわされる。そのどちらでもない天井を眺めて、ステラは戸惑いながらも音の方を見た。
窓から差し込む光が眩しくて、目を細める。不意に影が差して、すぐ傍に女性が現れた。ピンク色のナース服にヒョウ柄のタイツ、マリージョアで会ったことのない顔だ。彼女の手がすっと伸びてきて、額に張りついた髪をそっと除けてくれる。

「ああ、目が覚めたわね。おはよう、どこか痛いところはない?」
「……は、ど……こ……」

話そうとすると、喉が引き攣れて傷む。まるで、随分と長い間、声を出していなかったみたいだ。女性が吸い飲みを唇に含ませてくれたので、ステラは喉を鳴らして吸った。思った以上に喉が渇いていたらしく、じんわりと染み渡る水に生き返ったような心地がした。

「ここは白ひげ海賊団の船、モビー・ディック号よ」
「どう、して……?」
「貴女、小船で流されてきたの。すぐに手当したから良かったものの、あのままじゃ死んでたわよ?」

こほこほと咳き込み、ステラは熱っぽい頭でどうにか考えようとした。白ひげ海賊団と言えば、新世界にその名を轟かせる大海賊だ。四皇の一角を占める巨大な勢力であり、七武海はもちろん、海軍すら迂闊に手を出せないという。
海軍の船でないことに安堵し、ステラは目を閉じた。あれは夢ではなかった、本当にマリージョアから逃げ出せたのだと、少しずつ実感が湧いてくる。絶望に沈みかけていた心が、息を吹き返して涙を溢れさせる。ふ、と笑いが零れた。

「よか、た………ま、た……やく、そく……」

脳裏に蘇るのは、追い立てられてドアをくぐる三人の子供たちの背中だ。ハンコック、ソニア、マリーゴールド。赤ん坊の頃から大切に育ててきた、九蛇の女戦士。もうこの手を離れてしまって、二度と会えなくとも大切なことに変わりはない。
無事にシャボンディ諸島へ逃げられただろうか。海軍に見つかることなく、マリージョアに連れ戻されることもなく、九蛇に戻れるだろうか。いや、九蛇でなくとも良い、彼女達が行きたい場所に辿り着けるのならば良いのだ。背中に刻まれた竜の蹄さえ隠せれば、世界のどこでも生きていけるだろう。

「くじゃ、の、……ふねに……」
「無理に喋っちゃ駄目よ。今はゆっくり休んで、元気にならなくちゃ」

看護師はそっと窘めて、ステラの腕に鎮静剤を打ち込んだ。目を覚ますくらいに回復したばかりなのに、これ以上の無理はさせられない。すぐに意識を手放した彼女の額に氷袋を乗せ、はらはらと溢れる涙をハンカチで拭ってあげる。よほど辛い思いをしたのだろう、眠っても涙は止まらない。

「九蛇って、海賊でしょう?カームベルトの中にあるっていう」
「とても強い女海賊よね。でも、この子は強そうには見えないけど」
「どういう経緯で天竜人の奴隷になったのかな」

着替えさせる際、看護師たちは彼女の背中に天竜人の焼印を見た。壊れかけの小舟で漂っていたことと合わせれば、五日前に脱走した奴隷の一人だろうと容易に想像がつく。
焼印の件を船長に報告すると、彼はものすごく嫌そうな顔をしながらも、きちんと手当てをするようにと言った。嫌そうな顔と言っても、彼には奴隷を蔑むつもりはまったくない。人身売買の類が大嫌いで、そういう話を聞くと自然としかめっ面になってしまうのだ。

「それにしても、本当にきれいね!こんなに美しい人、見たことないわ。九蛇って美人ばっかりなのかしら」
「そうね、お人形みたい!髪も肌もつやっつや!」
「目も綺麗なだったわね、春島の空みたいな青色よ」

白磁のような肌は箱入りの美しさそのもの、金色の髪は陽光を糸に紡いだようにきらきらと輝いている。神々しささえ感じるほど繊細な顔貌は、雨に濡れた白百合の花のように儚げだ。ほろほろと零れ落ちる涙すらも、彼女の存在を美しく際立たせている。眠っている姿はどこか絵画的で触れがたく、無性に庇護欲を掻き立てる。

「そこまでよ、みんな」

病人を囲んでワイワイと騒ぎ出すナースを、ナース長であるタバサが手を叩いて黙らせる。ちゃんと静かになってから、タバサはカルテを手に取った。

「とりあえず、目を覚ましたことを船長に報告してくるわ」
「船長、ちょっと気にしていたものね」
「言葉にはしないけど、心配なのかも」

タバサが甲板に行くと、船長は甲板の定位置で新聞を読んでいた。彼の常人離れした体躯に対して新聞はあまりに小さく、膝の上に座った息子が代わりにページをめくってあげている。看護師に気付いた彼は新聞を閉じて、ひょいと膝から降りた。

「船長、少し良いですか?医務室の彼女について報告があります」
「ああ……丁度いいところに来たな。どうした、目を覚ましたか?」
「ええ。白ひげ海賊団の船だと教えると、『よかった』と言っていました」

船長――白ひげことエドワード・ニューゲートは、少し眉を寄せた。海賊船に拾われて、良かったと言う人間はまず居ない。居るとすれば、海賊船よりも遥かに辛い地獄に身を置いた者か、相当の実力者だろう。

「グラララ……よかった、か。それァどういう意味だ」
「わかりません。あとは、九蛇の船と言っていましたが……故郷かもしれません」
「あの女海賊のか?その割には、戦闘力に関する情報がないが……」

膝の上の新聞に視線を落とすと、表紙に印刷された写真が目に入る。いま医務室で眠っている彼女の、この上なく美しく着飾った姿が写っている。写真の上には大文字の見出しが躍っている――天竜人の寵姫ステラ、極悪人フィッシャー・タイガーに誘拐される――と。記事には、彼女がいかに美しく、心清らで素晴らしい奴隷であり、天竜人と相思相愛であるかがつらつら書かれている。

しかし、タブロイド紙の表紙についた見出しは違う。天竜人の権威を笠に着た女狐、希代の傾国、奴隷でありながら奴隷を虐げた毒婦などと散々な書きようだ。記事にも元奴隷の証言が並び、彼女を喜ばせるためだけに奴隷が虐殺されただの、彼女の機嫌を損ねた奴隷が犬の餌にされただのと書き連ねてある。
描き出される人物像があまりに乖離している上に、どちらも信ぴょう性に欠ける。そもそも、ニューゲートは噂話をあまり信じる質ではない。何の因果か噂の人物は自分の船に乗っているし、直に接してみて、自分の目で判断した方がよほど間違いない。

「話せるようになるまで、どれくらいかかりそうだ」
「そうですね……体力がかなり落ちているので、一週間はかかるでしょう」
「それくらいなら構わねぇ、しっかり看てやんな」

そう言うと、タバサは見るからに表情を明るくした。タブロイド紙の見出しを見て、ステラを海に投げ込むよう言われると思ったのだろう。海賊といえど、ニューゲートはそこまで非情ではないし、たかが女一人で揺らぐほどこの海賊団を脆いとも思わない。
看護師の心を惹いた彼女に、少し興味が湧いたくらいだ。もっとも、そんなことを言おうものなら、しかめっ面でタブロイド紙を読んでいる息子に怒られるだろう。天竜人の心さえ蕩かせた悪女だ、油断しない方がいいと口うるさく言われるに違いない。

「あんまり真に受けるなよ、イゾウ」
「わかってる……でも、用心するに越したことはない。少なくとも、医務室は立入禁止にした方が良いと思うぜ」

イゾウは甲板掃除の連中を指さし、ため息を吐いた。彼らは医務室の窓の、しっかり閉ざされたカーテンの傍で立ち止まったまま微動だにしない。透視能力でも開眼しない限り見られないだろうに、仕事をサボって何をしているのやらだ。

「グラララ、しょうのねぇハナッタレどもだ。噂通りなら、女の方が相手にしねぇだろうよ」
「違いない。ちょっと叱ってくる」

タブロイド紙をぽいと放り捨てて、イゾウは彼らに喝を入れに行った。その背を見やりながら、ニューゲートは一昨日に出港した港町でのことを思った。
血眼になって彼女を探しているのは、海軍だけではなかった。元奴隷達とその家族や友人、義憤に駆られた市民たちは、彼女を天竜人に準ずる害悪と見做している。必ずや海軍より先に捕まえて、私的制裁を与えなければ収まらぬといった様子だった。

流石に白ひげ海賊団の船までは調べに来なかったが、商船を一つ一つ検める民衆の姿は常軌を逸していた。この船を下りたら、彼女は早晩、殺されるだろう。回復した時、彼女は船を下りたいと言うだろうか。ニューゲートには、そこから彼女の本性を知れるだろうという予感があった。
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