枷は外されて
ガシャンと音を立てて、首に嵌められていた枷が外れた。首周りに重く圧し掛かっていた重みが、奴隷の身分と一緒に足元に転がり落ちる。一生外れることはないと思っていたのに、こうも呆気なく解放されるなんて信じられないと思った。こんな日が来るはずがない、これは夢に違いないと。ありえないはずの現実に、涙があふれて止まらない。

彼は――フィッシャー・タイガーは、必ず戻ってくると言った。必ず、奴隷をみんな解放しに来ると。するはずがない、できるはずがないからと、ステラは笑って送り出した。それなのに、彼はここマリージョアに戻ってきて、本当にみんなを解放してみせた。
ステラは涙をぐいと拭って、己を奮い立たせた。海軍が駆け付ける前に、この地獄から脱出しなければいけない。

「立って、みんな。逃げましょう」

ステラは傍らで泣いている少女たちに声を掛けた。同じアマゾンリリーに生まれ、ステラが赤ん坊のころから世話をした子達だ。同じ日に奴隷となり、今日まで侍女として傍におくことで守り続けてきた、我が子も同然の子供たち。姉のハンコック、次女のサンダーソニア、三女のマリーゴールド――ボア家の三姉妹だ。
姉妹はみな、戸惑いがちにステラを見上げるだけで動かない。逃げたところでどうせ捕まる、捕まったら惨たらしく殺されると思っているからだ。逃げたいと思っていても、恐怖で体が動かないのだ。

「立ちなさい!立って、走りなさい!」

ステラが厳しい声で命令すると、姉妹達は弾かれたように立ち上がった。彼女達を急き立てながら外に出ると、そこは既に火の海になっていた。マリージョアが燃える日が来るなんて、誰が想像しただろう――海軍の加護厚きこの地が、襲撃されるなんて。
肺まで焼けそうな熱気の中を、ステラは姉妹を追い立てながら必死に走った。久しぶりの運動に、体中が悲鳴を上げている。限界を訴える心臓を無視して、聖都を囲う森へと急ぐ。ふいにハンコックが目の前で転び、ステラは慌てて足を止めた。

「大丈夫?けがはない?」
「うん。でも、妹達は……?」

彼女を助け起こしながら振り返ると、後ろを走っていたはずのサンダーソニアとマリーゴールドの姿がない。逃げ惑う奴隷達のなかで、はぐれてしまったのだろう。逃げる奴隷達を目で追うも、彼女達と思しき姿は見えない。

「探しましょう。今はぐれたら、もう会えないわ」
「無理よ、もう……」
「諦めては駄目よ、頑張れるでしょう?もう自由なのよ、私達!」

忌まわしい枷はもう無い。いまマリージョアを抜け出せれば、どこにでも行けるはずなのだ。見聞色の覇気で周囲を探り、ステラはハンコックの手を引っ張りながら走り出した。

「居たわ、あそこよ!」

人波に視線を巡らせると、懸命に走る二人の女の子が見えた。きょろきょろと周囲を見ながら走り、転んでは起き上がって、また走っている。ハンコックの手を引っ張りながら、ステラは二人のところへ急いだ。人をかき分けてどうにか合流すると、ハンコックは妹たちに抱き着いた。

「二人とも、勝手に先に行かないで!はぐれたらどうするのよ……!」
「ごめんなさい姉様!」
「ごめんなさい、人に押されて……っ」

ひしと抱き合う三人から少し離れて、ステラは目頭を押さえた。できるならば、心ゆくまで喜ばせてあげたいところだが、そう悠長なことを言える状況ではない。三人を急かそうとした瞬間、遠くからぞっとするような声が聞こえた。

「逃がさんぞぉ……!貴様ら奴隷ども、逃がさんぞ!」
「……!天竜、人……っ」

心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、体の中心に突き刺さる。過剰なまでの寵愛と執着、いつとも知れぬ死への恐怖、奴隷たちの悲鳴、些細な理由で殺された人達、理不尽な刑罰の日々が次々と蘇る。もう逃げられない、逃がせない――そう諦めかける心を、ステラは必死に奮い立たせた。まだ間に合う、まだ逃げられると、祈りにも似た希望を唱える。
意を決して振り返ると、門の向こうから銃剣を持った海兵達が押し寄せてくるのが見えた。その奥に、天竜人のシルエットがあった。今なお煌々と燃える火を背に、その醜悪な姿は実際よりも大きく、なによりも恐ろしく見える。

「大丈夫、きっと、できる……!」

今までは怖くて使えなかった悪魔の実の能力も、今ならば使えるはずだ――自由に指先が届くかもしれない今ならば。ステラは一度目を閉じ、想像してみた。ドアドアの実の能力者のように、他の島へと繋がるドアを。そのドアをくぐって行く三人の姿を思い浮かべ、その先にはシャボンが浮かぶ幻想的な島を。すると、三人のすぐ傍の空間が揺れて、ぽっかりと丸いドアが開いた。ドアの向こうには、想像した通りにシャボンディ諸島が見えている。

「三人とも、そのドアを潜って逃げなさい」
「えっ、でも……」

びっくりしたように、三人が目を瞠る。炎に照らされた彼女達はどこか幼く見えて、そういえばまだ子供だったと思い出す。ステラは眉を下げ、精いっぱい微笑んで見せた。せめて、この養い子たちに見せる最後の姿が、奴隷になる以前の自分と同じくらい優しくなるように。

「その扉を潜って、九蛇へ帰りなさい。海軍に見つからないように、よく気を付けるのよ」
「でも、はぐれたら会えないって言ったじゃない……!」
「……いいえ、きっとまた会えるわ」

それは明らかな嘘だった。三人を逃がすと決めた時点で、ステラは自分の未来を諦めていた。時間を稼ぐために戦って死ぬか、海軍に捕まって天竜人に殺されるか――どちらにしろ、生きて此処を出ることはないだろう。口先だけの残酷な嘘を吐いて、ステラはハンコックの肩を押した。

「行きなさい、早く!」

覚悟を決め、ハンコックがドアへ向かう。妹二人は姉とステラを交互に見て、姉の後を追った。三人がドアを潜る気配がして、ステラは目を閉じた。想像を止めるとドアはたちまち霧散し、ステラは一人取り残された。
荷を下ろしたときのような虚脱感が、首輪の代わりに全身にまとわりついた。久しぶりに悪魔の実の能力を使ったせいか、頭に激しい痛みが走る。それでも、ステラは懸命に、土を操作する能力を想像した。土の壁を作って、追っ手を足止めするためだ。

「人間なめないで、……天竜人風情が!」

迫りくる兵士たちを睨みつけ、ステラはだんっと強く地を踏んだ。想像したとおりに土が盛り上がり、海兵もろともに天竜人に襲い掛かる。危険に気付いた彼らは慌てて銃を乱射したが、津波のように押し寄せる土の前には無力だった。無様な悲鳴を上げながら呑まれていく彼らに、ステラはほっと溜息をついた。
その瞬間、ステラの肩を衝撃が穿ち、灼けつくような痛みが走った。海兵たちが最後の足掻きとばかりに乱射した弾が跳ねて当たったのだ。命中した瞬間に弾が爆ぜ、肩から二の腕までをズタズタに切り裂く。あまりの痛みに視界が真っ赤に染まり、ステラは思わず膝を付いた。

「っ、うぁ……っ」

肩の傷を押さえて、盛り上がった土の向こうを睨む。運よく生き埋めを逃れた海兵たちが、あっちに迂回しろと吼えている。しかし、傷の痛みが集中を乱して、うまく次の想像を生み出せない。ああ、ここまでなのね――そう諦めかけた瞬間、ステラは誰かに担ぎ上げられた。

「ちょっと、なに……!?」

咄嗟に抵抗しようとして、ステラは煤と血で汚れた赤い肌や背鰭に気付いた。マリージョアにいる魚人の中に、この背鰭を持つ者は一人しかいない。

「タイガー、あなた、どうしてここに」
「それはこちらのセリフだ。どうしてまだこんなところに居る」
「海兵を、足止めしないと。みんなが、逃げられないでしょう」

ステラを担いだまま、タイガーは森の中をひた走った。彼が地面を蹴るたびに、マリージョアの喧騒が遠のいていく。やがて断崖に辿り着くと、彼はステラを下ろして切り株にもたれかからせた。

「傷を見せてくれ、手当てをしよう」
「いいえ。早く、貴方一人で、崖を下りて」
「それはできない」

断固とした口調で断る彼を見やり、ステラは息を吐いた。彼の考えていることは、手に取るようにわかる。彼はステラを背負って崖を下り、海を泳いで逃げようと考えているのだ。しかし、それはこの状況では一番の悪手だ。彼がどれほど強くとも、怪我をした人間を背負って航れる海ではない。それに、今は優先すべきことがそこにある。ステラは海を指さし、そこに浮かぶ船を示した。軍艦が商船と思しき船を追いかけている。船を奪取して逃げようとする奴隷達を連れ戻そうとしているのだ。

「奴隷を、助けに来たのでしょう。彼らを、助けてあげて」

ステラが軍艦を指し示すと、タイガーは顔を歪めた。奴隷達を助けられるのは魚人である彼だけだが、それも足手まといを背負っていなければの話だ。
「貴女も奴隷だ。彼らと同じ、助けるべき人だろう」
「いいえ。私は、天竜人の妻だった……逃れるすべなんてないわ」
「……!それでも、見捨てられるものか……!」

タイガーは拳を振り上げ、ステラの頭を思いきり殴って気絶させた。かなり野蛮な方法だが、彼女の説得にかける時間が惜しかった。背中に彼女の体を括りつけ、手近な木に命綱を巻いて崖から飛び降りる。轟々と風切りの凄まじい音が延々と続き、やがてロープがピンと張られて宙ぶらりんになる。

「行きより遥かに簡単だな、まったく……」

ロープを切って海に落ちると、タイガーは崖沿いに海面を泳ぎながら手探りでハーケンを探した。泳げないような怪我をした場合に備えて、崖に小舟を繋いでおいたのだ。幸いそれはすぐに見つかり、ロープを引っ張ると小舟もちゃんと繋がっていた。
タイガーの巨体がギリギリ入るくらいのサイズの、古ぼけた小舟だ。海賊や海軍に興味を持たれないよう、外見はかなりボロボロにしてある。船底にステラを横たえて、傷口を適当な布で縛り、見えないようにボロ布を被せる。

「……すまない、俺にできるのはここまでだ」

レッドラインから離れられる海流に小舟を誘導し、タイガーはそっと手を離した。新世界の荒くれた海に、粗末な小舟が流されていく。よほど運が良くない限り、荒波一つで海の藻屑と消えるだろう。それでも、これがタイガーにできる全てだった。
レッドポートの沖合では今も、奴隷達が海軍に追われている。フィッシャー・タイガーは海へ潜り、商船へと急いだ。



壊れかけの小舟が、ゆらゆらと海を漂う。それはマリージョアを離れ、シャボンディ諸島の沖合を通り、あてもなく大海原を彷徨う。やがて、白鯨を船首に戴く大きな海賊船の脇腹にこつんとぶつかって、気ままな航海を終えた。

「なんだぁ、小せぇ船だな」
「あんなボロボロでよく浮いてるな。誰か乗ってそうか?」
「どれどれ……?お、おい、嘘だろ!」
「なんだよ宝でも乗ってたか?」

海賊船の船縁から厳つい男達が下を覗き見て、ひとりが双眼鏡で見て素っ頓狂な声を上げる。これは宝か何かかと双眼鏡を取り合い、船の中を見るや奇声を上げる。あまりにうるさいので、それまで興味なさげだった者達までもがぞくぞくと集まってきた。

「おい、なんの騒ぎだよい」
「ままままマルコ隊長!大変です、小舟が横っ腹にぶつかって……!」
「小舟ぇ?何か乗ってんのかい」
「女が乗ってます!それも見たことないくらいキレーなのが!血みどろで!」

マルコと呼ばれた男もまた、船縁から下を見て驚いた。人一人がどうにか収まるくらいの小さなボロ船が、モビー・ディック号の傍に浮いている。その狭い船底には、ボロ布に半ば隠れるようにして、血みどろの女性が膝を抱えて横になっていた。
横顔しか見えないものの、その女性は並外れて美しかった。よく手入れされた金色の髪、長いまつ毛が影を落とす頬は白く、小ぶりな唇は赤く艶めいている。気品の漂う美貌や宝石をちりばめた服装から察するに、王族か貴族といったところか。遠目にはすでに死んでいるようにみえるものの、マルコは念のため確認することにした。不死鳥の能力で鳥の姿になり、近くで羽ばたくだけでも転覆しそうな小舟に舞い降りた。

「……生きてるな」

女性はまだ辛うじて息をしているが、血を流しすぎている。それに熱もあるらしく、額に触れると驚くほど熱かった。少し悩んだ末、マルコは彼女を鳥の足で掴んで白鯨の船へと運んだ。途端に群がってくる仲間を蹴散らして、彼女を甲板に横たえる。運んだ拍子に傷口が開いたのだろう、赤く濡れそぼった布から血が滴り落ちた。

「生きてるのか?」
「まだな。とりあえず、医務室へ運ばねぇと」

マルコは素早く応急処置を施し、船医のいる医務室へと彼女を運んだ。ぐったりと力のない体は細く、不自然なくらい軽い。明らかに戦い向きの体つきではなく、不自然な痩せ方をしている。王族や貴族といっても、何か訳ありなのかもしれない。オヤジに報告しておいた方がいいだろうと判断し、マルコは彼女を医者に渡すと船長室へと向かった。
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