現れ消えるもの
『いたい』のはきらい。だから、しない。リヴァイが、エルヴィンが『だめ』と言ったことは、しない。したら『いたい』から、しない。どうして『いたい』になるのかは知らない。覚えていない。
けれど、『だめ』と言われた事をすると『いたい』になることはわかる。しなければ『いたい』にならないことも、わかる。

けれど、『だめ』をしていないのに、『いたい』になったときはどうしたらいいのか。わからない。何も、わからない。顔が、目が熱い。頭のなかがぐちゃぐちゃで、頭の中も『いたい』。どうしたらいいのか、なにも、わからない。


だくだくと血を流す首筋を抑えながら、イルゼは離れた位置に立つトリナを凝視した。爪で抉ったとは思えない出血量だが、致命傷とまではいかない。ただ、傷は頸動脈の真上にあり、殺意を込めた攻撃であることは明らかだ。

「いるぜ、きらい。きらい」
「……っ」
「きらい。きらい、きらい」

他に罵り言葉を知らないのだろう、トリナは『きらい』を繰り返す。顔を真っ赤にして泣くその姿は、まるで癇癪を起こした子供のようだ。ただ、右手にイルゼの血がべっとり付着しているせいで、鬱陶しさよりおぞましさが際立っている。
今はただ泣いて罵っているだけだが、何らかの刺激が切欠で攻撃してくるかもしれない。そう思うと、下手に身動きもできない。訓練兵はもとより教官も警戒しており、身動き一つしない。
不気味な静寂が落ちるなか、トリナは泣き続けている。泣き方を知らないのだろう、時々息を詰まらせて咽ている。

「トリナ――ッ!」

不意に響いた大音声に、イルゼはざっと青ざめた。息をつめて様子を窺いながら、内ポケットに手を伸ばす。万一トリナが制御不能になった場合に備え、見張りには麻酔銃が渡されている。イルゼは懐の中で麻酔銃の安全バーを外し、万一の事態に備えた。
しかし、緊張感を吹っ飛ばす勢いで、訓練兵団本部の玄関扉が蹴破られる。後光のように朝日を背負い、玄関に立つ人影を見て、イルゼはぎょっと目を剥いた。ミケに次ぐ戦果と巨人に関する様々な研究の第一責任者として知られる人。長い髪を高い位置に結び、眼鏡と秀麗な面差しには知的な雰囲気を漂わせるその人が。

「トリナ居たぁああ!」

トリナを見つけるや、電光石火で接近し抱きついた。死亡フラグと叫ぶ金髪の訓練兵に、イルゼは全力で同意したくなった。

「分隊長!死に急ぎすぎです離れてください!」
「良かった、無事で良かった……!本当、朝からいないから、誘拐されたんじゃないかって……」
「誰が誘拐するんですか、そんな馬鹿娘」

見当違いな発言に緊張感を削がれ、イルゼは思わず本音でツッコミを入れた。ハンジが抱きついても、トリナは攻撃しない。警戒する必要はないと判断し、イルゼは麻酔銃から手を離した。
一方トリナを抱きしめたハンジは、違和感を覚えた。何かがおかしい気がして、トリナの顔を覗き込んむ。そして、トリナの頬を伝う涙に気付き、目を見開いた。

「トリナ、どうして泣いているの?どこか痛いの?」
「うぇ……っく、うう」
「痛い、どこ?」

重ねて訊ねれば、トリナは血の付いた手で頬を示した。しかし、泣いたせいで顔が真っ赤なため、なぜ痛いのかがわからない。ハンジは少し思案して、一番事情をわかっていそうなイルゼを見た。

「すみません。ついカッとなって、頬を叩きました」
「頬を叩いただけ?」
「はい。兵団の貴重な戦力とわかっていても、許せなくて」
「事情が事情だし、それは仕方ないけど。その傷は、トリナが?」

イルゼは頷き、溜息を付いた。トリナの見張り役を命じられたとき、扱いには十分注意するよう言われてはいた。語彙の少ない現段階では、トリナの思考や感情を知ることは難しい。したがって、何がきっかけでどんな行動に出るかもわからない。
赤子は本能に従って行動するが、トリナも似たようなものだ。明確な自我を持たず、ただ本能の示すがままに動く。もしも本能的な危機感を覚えた場合、攻撃衝動に駆られる恐れもあるのだ。赤子なら手足を振って泣く程度だが、トリナは最悪の場合、つまり死も覚悟しなければならない。

だから干渉してはいけない。いたずらに刺激を与えてはいけない。そう言われていたのに、感情に任せて手をあげてしまった。その報いが、この頬と首筋の引っかき傷だ。どちらの傷も、薄皮の下の肉まで抉られている。痛みは酷くないが、傷の範囲が広いため出血はそこそこにある。

「医療班に行っておいで。後のことは、私が引き受けるから」
「……はい。お手数をおかけして、申し訳ありません」

イルゼは一礼し、その場を離れた。未だ泣き続けるトリナを、ハンジはめいっぱい抱き締めた。

「トリナ。どうして朝いなかったの」
「……?」
「私はトリナがいなくて、寂しかったよ」
「さびし、い?」

トリナは『さびしい』を知らない。ハンジはなんと説明しようか悩んだ。トリナの語彙にあった説明は、とても難しい。困っていると、訓練生の一人が口を開いた。

「寂しいは、……痛い」
「さびしい、いたい?」
「そう。痛い。心が、痛い」

『こころ』が何なのか、トリナは知らない。しかし、『いたい』は知っている。ミカサの言う『寂しい』が『いたい』ならば、ハンジは『いたい』になる。

「はんじ」
「ん、なに?」

トリナは手を伸ばし、ハンジの頭を撫でた。普段ならば三十センチの差があるため手は届かないが、抱き上げられている今ならば容易に手が届く。

「リヴァイの真似?」
「いたい、きらい」

トリナには『いたい』時の記憶はある。その時はいつも傍にリヴァイがいて、そっと髪を撫でてくれる。そうすれば『いたい』が無くなるのだと思った。だから、ハンジの頭を撫でた。トリナは『労わり』や『慰め』や『謝罪』といった概念を知らない。ただハンジがそう受け取るだけだ。

「心配してくれたんだね。ありがとう」
「いたい、ない」
「うん、もう無いよ。帰ろう、トリナ」
「かえる」
「うん、帰ろうか」

トリナを下ろして手を繋ぎ、ハンジは教官に向き直った。しかし教官は首を横に振って拒否し、ハンジは頭を下げた。それから訓練兵達に軽く会釈をして、ハンジはその場を去ろうとした。しかし、トリナはミカサの前で足を止めた。

「トリナ?」

トリナはネックレスを外し、それをミカサに向かって差し出した。何を考えたわけではない。ただ、そうしようと思っただけだ。『お礼』をしらないトリナには、その行動が教えてくれた『お礼』だとわからない。

「みかさ」
「……?くれる、の?」

躊躇いつつも、ミカサはそれを受け取った。そして、それが手元を離れた瞬間、トリナはそれに対する興味を失った。そして頭の中で、記憶が消えた。
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