- 幻に微笑む
「私達は夫婦だった。この世界だけの話ではない、リアルでも私とジャンヌは夫婦だった」
とても誠実で優しい女性だった。シャルルが提案したら、ジャンヌはいつも賛成した。彼女がシャルルに反対したことは一度もなかった。夫唱婦随、その言葉がまさにぴったりだった。
「だが、ジャンヌはこの世界に来て、変わってしまった」
彼女は剣を手に戦場へ走って行った。剣を取ることもままならず、ただ震えるばかりのシャルルを置いて。ただふわふわと微笑むばかりの妻は、凛々しい剣士へと変貌した。正義を歌い、抵抗と進撃を謳い、希望をもつよう皆に働きかけた。
そして、自ら率先して戦場に出て、先陣を切った。その顔に恐れはなかった。凛として勇敢な兵士の顔だった。その目は希望に満ちて、太陽のように輝いていた。絶望に挫けることなく、圧倒的な道程にも強敵にも怯むことなく、未来を見上げていた。いつかすれ違った青年が、彼女を向日葵に例えた。太陽を見上げ続ける、強い花だと。
「私は、妻を失った。私の愛した妻は変わってしまったんだ」
このデスゲームから解放されたとしても、ジャンヌは元には戻らない。自らの手で道を切り開く術を知り、その能力が自分にあることを知ってしまった。
「もし、離婚を切り出されたら?リアルで、反駁されでもしたら?私は耐えられない」
耐えられない。そんな屈辱には、耐えられない。リアルに残してきた理想の家庭までもが、壊れてしまうくらいなら。
「此処で私が彼女を殺したとして、それを誰が証明できる?この罪は誰にも裁けない、これは合法的殺じ――」
殺人、と言い掛けたシャルルの顔に、エフェクト光を纏った膝がめり込む。体術スキル零距離技《膝蹴り》だ。予想だにしない攻撃をもろに受け、シャルルは無抵抗のまま吹っ飛ばされた。背後の木にぶつかり、HPゲージが減る。
「なっ、……椿ちゃん?」
「お前何やって……!」
中空で一回転して、椿はエフェクト光の消えた足で着地した。そして、木にぶつかった反動で地面に転がったシャルルを見下ろした。視界の端で、自らのHPカーソルがオレンジ色になったことを認識する。グリーンのシャルルを攻撃したのだから当然だ。
「貴方のそれは、愛じゃない!」
悔しさと悲しさが胸にこみ上げ、椿は慌てて深く息を吸った。部外者の椿に泣く資格はない。この場で泣いていいのは、フランシス達だけだ。椿は感情をねじ伏せ、刀の柄を掴みそうになる手を手で押さえ込んだ。
「貴方のそれは、愛じゃない」
「なに、を」
「貴方の手には、結婚指輪が無い。貴方が妻を愛していたなら、指輪を外せるはずがない」
椿の指摘に気付き、シャルルは慌てて左手を隠そうとした。しかし、その時には既に、皆がその薬指を見ていた。指輪のない、空っぽの薬指を。
「ただの、所有欲だった。そんなの、あんまりじゃないですか」
シャルルは放心し、俯いて動かなくなった。彼は自らが愛と呼んだものの虚ろさに気付いたのだ。そして、本当の愛を自らの手で殺したのだと気付き、絶望した。心を満たしていた欺瞞をはぎ取られた残骸――そんな哀れな男の姿は見るに堪えない。
椿は視線を逸らし、握り締めていた手を離した。煮え滾っていた怒りも悔しさも、全部消えてしまった。残ったのは、こんな男にわざわざ攻撃してしまった後悔だけだ。背後でフランシスが立ち上がる気配がして、椿は振り返った。涙こそ流してはいないが、彼の表情は悲しげだった。
「椿ちゃん、ギル。あの人の処分は、俺達に任せてくれないか」
「誓って言うが、私刑にかけたりはしねぇ」
「でも、罪はきっちり償わせんで」
口を揃えて頼まれ、椿はギルベルトに視線を移した。この中で決定権を持っているのは彼だ。《圏内PK》事件における捜査第一責任者は彼なのだから。
「……わかった。その男の処遇は、お前らに一任する」
ギルベルトの判断に、三人の表情が和らぐ。《KoG》としては《軍》に引っ張りたいところを、過分な配慮で曲げてくれたのだ。アーサーとアントーニョはシャルルの両腕を掴み、無理矢理に立たせた。そして、半ば引きずるようにして麓へ連れて行く。恐らく、ギルドホームだった家で、これからの事を話し合うのだろう。
「おら、お前も早く行けよ」
思い悩むように立ち止まるフランシスの肩を、ギルベルトは軽く押した。
「事件の方は、私達で適当な形にまとめます」
「だからお前らは、お前らのしたいようにしろ」
本来なら、騒動を起こした三人が何らかの形に収めるべきだ。しかし、ギルベルトも椿も、指輪事件を解決してやりかった。そのためなら、後始末を引き受けても良いと思えるくらいに。
「それじゃ、俺らは《軍》に行って話し合いするか」
「あ、私はオレンジになったので、クリスタルで転移しますね」
オレンジカラーが解除されるまで、二日三日はかかる。その間は、余計な誤解を生まないように、人目を避ける必要がある。椿は黒いコートを羽織り、フードを目深に被った。
「ありがとう。片付いたら、三人でお礼するよ」
「美味いメシ奢れ」
「お手製フランス料理フルコースで手を打ちます」
「歪みない食欲!」
がっつり食欲に支配された二人に、フランシスは思わずツッコミを入れた。それでも、下手に気遣わない二人の態度には救われるものがある。ギルベルトは先ほどよりも少しだけ強く、フランシスの肩を押した。今度は素直に従い、丘を下りる。その心もち軽やかな足取りを追うように、ギルベルトも村へと歩を進めた。椿は二人の姿を見送りながら、転移結晶を取り出した。
「《始まりの街》」
転移先を言うと、椿の体は光に包まれた。反射的に振り返ったフランシスは、目を瞠った。椿が消えたあと、あの墓の前に一人の女性がいた。その姿は半分透けて、朝靄の中で仄かに輝いている。
「ジャンヌ」
白いシャツに黒いリボン、真っ赤なスカートを身に付けて。銀の鎧を纏い、腰には細身のバスターソードを穿いている。少し癖のある金髪。美しい面差しに柔らかな微笑みを浮かべ、その人は佇んでいた。その唇が、ゆっくりと何かを言う。音は聞こえなかったが、フランシスには彼女の言葉が手に取るようにわかった。
「はは、は……ジャンヌ、らしいよ」
フランシスは顔をくしゃくしゃにして、笑った。みっともない、しかし太陽のように美しい泣き笑いだ。
「大丈夫。思いは、俺が受け継ぐから」
フランシスの言葉に、その人はぱっと破顔した。そして、笑顔のまま風の中に消えていった。