軍の二人
デジタルの世界は、三次元によく似ている。しかし、いくつかのことが足りない。泣いた後、目が腫れない。涙を拭いても袖は濡れない。傷付いても、血は流れない。けれど。このアバターは、確かに生きている。世界。それは、一体何をもって世界と認識されるのだろう。


「遅いですよ、このお馬鹿さん!」
「……前衛的な挨拶だな坊ちゃん」

第一層主街区『始まりの街』の中央、《軍》本部である『シェーンブルン宮殿』。その応接室に入るや否や浴びせられた罵声に、ギルベルトは唇を引き攣らせた。罵声を放ったのは《軍》のリーダー、ローデリヒ・エーデルシュタインだ。こげ茶色の髪に紫苑の瞳、やや中性的な面差しの美青年だ。薄い縁のあるメガネからは知性を、一挙一動からは育ちの良さが感じられる。
オーケストラの指揮者のように柔軟で、しかし正確に全てを導く統率力。そして、犯罪行為及びハラスメント行為の一切を断固として許さぬ強い倫理観の持ち主だ。その潔癖さは厳格さに通じるところがあり、ギルド設立当初は息苦しさから脱退した者もいたという。

「……」
「なんだよ、人の顔ジロジロ眺めまわして」
「いえ。いつにもまして品性の感じられない顔だと思っただけです」

ふいと視線を逸らし、ローデリヒはギルベルトの横に立つ少女に視線を向けた。先刻、アーサーを押し付けに来た時のギルベルトの顔は、とても見れたものではなかった。よくもまあ最善の行動が出来たなと思うほど混乱し、絶望にも似た悲壮感に満ちていた。普段の彼の陽気さや戦意はなく、すっかり戦意喪失して見えた。

しかし、今のギルベルトはいつもの面構えになっている。この僅かな時間のなか、一人で立ち直ったとは思えない。誰かが立ち直らせたのだ。そして、その誰かは間違いなく、彼が連れてきたプレイヤーだ。椿――《閃光》と渾名されるソロのプレイヤー。喪服のように、頭の先からつま先まで黒一色で揃えた人。その姿は、第一層のボス攻略の時から変わらない。

「お久しぶりです、椿さん」
「……お久しぶりです、エーデルシュタインさん」

小さな声で形ばかりの返事を返し、椿はギルベルトの後ろに隠れた。もう話したくないと言わんばかりの様子に、ローデリヒは苦笑した。

「おい、どうしたんだよ」
「なんでもありません」
「何でもねぇなら隠れんなよ」
「隠れたい気分なんです」
「どんな気分だよ。ったくしょーがねーなぁ」

しょうがないと言いつつ、ギルベルトの顔は嫌そうではない。いつも以上に見苦しい面構えだと思いつつ、ローデリヒは何も言わなかった。

「それで坊ちゃん。アレ何だ?」

アレ、と言ってギルベルトが示したのは、床にうつ伏せに倒れたアーサーだ。

「私が少し出ていた間に、眠ったらしいですよ」
「ンなわけねーだろ!どう見ても気絶させられたんだろポーズ的に!」
「気絶?」

今の精神状態で眠れるとも思えないし、眠るにしてももう少しまともな姿勢があるだろう。後頭部にかなり重い打撃を食らってソファから落ち、気絶したとしか思えない。もしここが現実世界なら、後頭部に立派なタンコブが出来ているに違いない。

「エリザベータが同室にいたのですから、気絶するような事はないと思うのですが。そうですよね、エリザベータ」
「はい。ローデリヒさんが戻ってくるまで、何もありませんでした」

エリザベータ・ヘーデルヴァーリ。《攻略組》の長剣使いで、《軍》の副リーダーにしてローデリヒの副官を務める女性プレイヤーだ。ゆるくウェーブした長い茶髪に緑色の目、とても綺麗な面差し。性格はやや男勝りで、芯の通った確り者だ。なよなよしさからはちょっと遠い。
典型的な攻撃特化型プレイヤーで、馬上での戦闘において彼女の右に出る者はいない。《軍》や《攻略組》からは姐さんと呼ばれているが、本人は少し微妙な顔をしている。

「じゃその後ろ手に持ってるフライパンは何だ」
「これは、ええと……その、明日の朝食の卵料理は何にしようかと思って」

ギルベルトに指摘され、エリザベータはフライパンを素早くアイテムウィンドウに隠した。別段親しくもない椿にも、それでギルベルトの言いたいことがわかった。アーサーを昏倒させたのはそのフライパンだ。《圏内》なのでHPは減らないが、一定以上の衝撃を食らうと気絶する場合がある。
しかし、そこはアントーニョとタメを張る鈍感青年ローデリヒ。額面通り受け取り、そうですね、と卵料理について考えだす。

「オムレツが良いですね。貴女の作るオムレツはとても美味しいので」
「オムレツですね、わかりました!」

ぱあっと花が咲かんばかりに破顔し、エリザベータはパタパタと部屋を出て行った。

「ギルベルト。そこの眉毛は引き取ってくださるんですね?」
「ああ。回収しねぇと、《UK》が煩そうだからな」

引き取れとか回収とか、割と散々な扱いだ。これまでの《UK》の暴虐っぷりを見れば、仕方ないことではあるのだが。ギルベルトはアーサーを担ぎ、クリスタルを二個と逆棘のついた短剣を取り出した。

「椿はこれをサディクに鑑定してもらっててくれ。俺はこいつを送った後、そっちに向かう」
「あ、でも」
「パンジャンドラム!」

短剣とクリスタル一つを椿の手に押し付け、ギルベルトはさっさと転移してしまった。残された椿は、思わず短剣に視線を落とした。フランシス殺害に使われた短剣で、最初のアイテム同様に禍々しい意匠をしている。同じ目的、同じ鍛冶屋の手によるものだと容易に予想がつく。またしても、目の前で《圏内PK》が行われ、救えなかった。
フランシスの顔が思い浮かぶ。ふざけてばかりで、セクハラ大好きで、よく全裸になっていたけれど。彼は、決して悪い人ではなかった。むしろ、気兼ねせず話せる良い人だった。なのに、彼は殺されてしまった。

「……貴女でも、そんな顔をするんですね」

ぽつりと、ローデリヒが呟いた。その声で我に返り、椿は顔を歪めた。

「私だって、友を失えば悲しい顔くらいします」
「……今回は、誰が」
「フランシスさんです。《攻略組》の」

フランシスと聞いて、ローデリヒの眉がぴくりと動く。訊きたいことは山とあるだろうに、彼はそうですか、と呟いて黙った。

「サディクさんの所に行かなければならないので。これで失礼します」

一礼し、椿は渡されたクリスタルを掲げた。転移門で移動したほうが安上がりなのだが、そこまで一人で行く気はしない。

「セニ セヴィニョルム」

サディクのホームタウンの名を唱えると、手の中でクリスタルが砕けた。そして、視界がブルーの光に包まれていく。

「……?」

ブルーの光。破砕するクリスタル、散っていくポリゴン。椿はそれらに違和感を感じた。それはフランシスとアントーニョに感じた違和感と同じだ。足の裏に石畳の感触が伝わり、椿は五十一層に到着した。本来なら、すぐにもサディクの家に行くべきだ。
しかし、椿は短剣を持ったまま、手近なベンチに腰掛けた。何がおかしい。何が変なのか。違和感を捕まえようと、椿は必死に思考を巡らせた。その様子を、遠くから見ている者が見ていることに気付きもせず。

「……ふふ、何考えてるのかなぁ」
「め、珍しいですね。気になりますか?」
「うん、かなり。ねぇ、彼女は真実に気付くかな?気付くと面白いんだけどなぁ……」
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