すり抜ける欠片
フランシスと会ったのはいつだったか。確か、四十二層の迷宮区に行こうと思い、食料を買いに行った時だった。

――そこの黒パン、不味いでしょ。向こうのチーズ屋さん行ってご覧。美味しいバケットサンドが買えるよ

お兄さんのおすすめなんだよ。そう言った彼に、私はとても酷いことを言った。それも、その時ではなく、そのチーズ屋で何度も顔を突き合わせた後に。彼は一層の時から、ずっと同じ最前線に居たのに。問いかけてしまった。

――貴方の名前、訊いてもいいですか?まだ訊いてませんでしたよね

その時の彼の表情が忘れられない。とても、寂しそうな――悲しそうな、表情が。



椿が襲い掛かると、その人影はローブを翻し屋根伝いに走り出した。足はあまり早くないが、随分身軽な装備だ。椿の方が早いはずなのに、追い付けない。

「よくも、フランシスさんを……っ!」

走りながら、椿はくないを取り出し投げつけた。しかし、人影は巧みに避けて走り続ける。ギリリと歯を食いしばり、椿はなおも続けて投げつけようとした。しかし、人影が突然立ち止まり、何かを高く掲げた。

「クリスタル?!」

人影が右手に掲げたのは、青い転移結晶だった。転移されたら、逃げられてしまう。せめて転移先を聞かねばと思った、瞬間。背後に聳える街の鐘楼が、鐘を鳴らして時刻を告げる。耳を塞ぎたくなるほどの大音量に、全ての音がかき消されてしまう。人影が呟いた、転移先の名前も。その手の内でクリスタルが砕け、黒いローブ姿が光に包まれる。椿は剣を両手で握り、敏捷値最大で突進した。

「……っ」

あと数メートルというところで、敵の姿が消える。空振りした剣が屋根にぶつかって、紫色の破損不可メッセージが出た。

「どうして……っ」

これは偶然などではない。犯人は計算していたのだ。時報の少し前に殺害し、鐘の音と共に姿をくらます計画だったのだ。

「フランシスさん……っ」

仕留められなかった。捕まえられなかった。大事な友人を殺した、敵を。涙が止まらない。次から次へと、頬を伝って落ちていく。屋根の上に座り込んで泣いていると、不意に視界に黒いブーツが見えた。見上げると、ギルベルトがいた。毅然とした、涙一つ零さぬその姿に、椿は顔をくしゃくしゃにした。
ああ、やはり。彼は、強い。

「ごめ、なさ……っ取り逃、て、っ」

言葉が不恰好に途切れて、報告できない。早く報告しなければいけないのに。捕まえられなかったと、詫びねばならないのに。彼が一番、悲しいはずなのに。リアルからの、小さい時からの悪友を失って、悲しいのは彼なのに。彼は泣かない。椿だけが、みじめに、涙を零している。不意にギルベルトが動いた。コートを脱いで、椿に被せた。泣き顔を見られたくないだろうという、優しい配慮だった。

「ごめん、なさい……っ」

彼のコートを被って、俯いて。とぼとぼ歩く姿は、きっとみっともない。でも、涙が止まらない。

「ごめ、なさ……っ」
「……わかってるよ」

こんな嗚咽、聞くのも辛いだろうに。なのに、ギルベルトの声は優しかった。泣くなと、宥めるような――そんな声で、言うのだ。わかってるよ、と。
フランシスの家に戻るのかと思いきや、ギルベルトは転移門に向かった。

「あの、何処に行くんですか?」
「アーサーを《軍》に押し付けてきた」
「え……どう、して」

思わず問いかけて、椿ははっと息を呑んだ。フランシスが死んだ今、彼の家はもう彼の家ではない。誰でも立ち入り可能な、《モデルハウス》になっているのだ。アーサーを一人で残すには、あまりにも危険すぎる。ギルベルトは椿があの人影を追い掛けている間に、アーサーを《軍》に預けて戻ってきたのだ。目の前でフランシスが、悪友が死んだのに。冷静を通り越して冷酷なのでは、と思うほど的確な判断だ。

そこに静かな怒りを感じ、椿は唇を引き絞った。《圏内PK》の手口もわからないまま、第二の被害者が出てしまった。それも、一人目と同じようにすぐ目の前で。三人目が出る前に、なんとしても解決せねばならない。何か、何か無いのか。ハッティは、我々が目で見たものだけが真実だと言った。その意味は何だ。真実とは何だ。見たもの、――フランシスの装備を見た時、椿は何か違和感を感じた。

「……違和感……」

フランシスの装備だけではない。それに似た違和感は、ずっと前にも何処かで感じていた。装備――アントーニョの鎧も嫌に目立った。HAOには肩凝りや筋肉痛がない。装備可能な重量内ならば、どんな格好をしていても問題はない。しかし、大抵の人間はラフな格好で食事を摂る。食事時くらい気楽な格好でないと、気分的に疲れてしまう。
フランシスの話が本当なら、アントーニョのステータスは筋力値に偏っていたはずだ。敏捷値を装備で補いたいくらいだろうに、なぜあんなに重そうな鎧を着ていたのか。考えても考えても、訳が分からない。それでも、この違和感が解決の糸口になりそうな気がする。椿は考えながら、ギルベルトの背を追った。


フランシスと会ったのはいつだったか。確か、四十二層の迷宮区に行こうと思い、食料を買いに行った時だった。食事なんて腹が膨れればいいと思い、安い黒パンと水にしようとした。しかし、NPCショップに行こうとしたまさにその瞬間、彼が声をかけてきた。

そこのパン屋より向こうのチーズ屋さんに行ってご覧、と。お兄さんおススメなんだよ、とウインクして去って行った。変な人だと思いつつ、椿はそのチーズ屋に行きバケットサンドを購入した。頬が落ちるのではと思うほど、美味しかった。このつまらないデジタルな世界に、こんなに美味しいものがあったのかと思うほどだった。

それから、椿はそのチーズ屋に通いつめた。そのバケットサンドを食べるたび、色褪せて見えた世界が、少しずつ色づくように思えたのだ。そうして通うようになると、切欠になった男ともよく会うようになった。会計の間に少し話すだけの、関係だった。

ある時、椿は彼に名前を尋ねた。知らなかったのだ。彼はとても悲しそうな顔をして、名前を教えてくれた。そして、椿は彼が《攻略組》のメンバーであることに気付いた。四十二層のボス攻略戦において、議長が彼の名前を呼んだ時に、初めて。椿は気付いた。《攻略組》に誰がいるのか、少しも知ろうとしなかった自分に。モンスターと同じ有象無象と見做し、その名前すら覚えようとしなかった。

だから、彼はあの時あんな顔をした。一層の時から同じ戦線に居たのに、存在すら認識されていなかったことを悲しんで。なんて悪いことをしてしまったのだろう。そう思っても、どう謝ればいいのか、椿にはわからなかった。詫びの品として《永久保存トリンケット》というアイテムを用意したが、何と言って渡せばいいのか判らなかった。レアアイテムで人の心を買おうとしているようで、渡していいのかも判らなかった。

そうして悩んでいるうちに、そのアイテムを無くしてしまった。おそらく、手の中で転がしながら考えている内に、どこかの店で落としたのだろう。結局、椿は謝らず、そのチーズ屋に通うことをやめた。そうして、世界は色褪せ。椿の心には、罪悪感だけが残った。
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