起床アラーム
深夜も深夜だったため、サディクに勧められるまま椿とギルベルトは《テュルク》の宮殿に泊まることにした。宮殿にはいくつか客室があり、椿は適当に一部屋借りた。ピンクのポニー印の衣類をアイテム欄に入れ、寝間着に使っているリネンのワンピースに着替える。
ふかふかのベッドにダイブすると、焚き染められたお香がふわりと鼻を掠めた。布団にくるまると同時に眠気が沸き起こり、椿はうとうとしながら驚いた。悪夢が始まったときから、椿は眠気を感じたことがなかった。しかし、今はただ眠くて眠くて敵わない。椿は些か戸惑いつつも、睡魔に身を委ねた。


「遅ぇ」
「……すみません」

明らかに不機嫌なギルベルトに、椿は深く頭を下げた。勢い寝入ることができたのはとてもよかった。夜ごと見てきた悪夢もなく、すっかり熟睡できたのだから。ただ、あまりに熟睡して、寝過ごしたのはいただけなかった。
目が覚めたら九時半で、椿は思わず「学校が!」と叫んでしまった。勿論HAOに学校はない。視界の端にフレンドメッセージ通知が点滅しており、開いてみれば十数通もあった。ギルベルトとサディクから安否を問うメッセージが来ていたのだ。慌てて着替えて扉を開けると、扉の外には怒ったギルベルトが仁王立ちしていた。そして冒頭に戻る(今ここ)。

「お前起床アラームつけてないのかよ」
「すみません……今まで起きられないことがなかったので」
「だからってこの緊急事態に寝坊するか?ったく、坊っちゃんじゃあるまいし」

怒りと呆れが入り交じった視線に耐えきれず、椿は俯いた。ギルベルトからしてみたら、今回の事件は親友を殺された事件でもあるのだ。もしかしたら昨晩、ギルベルトは客室で泣いていたかもしれない。なのに、その心を慮るどころか、椿はぐーすか寝ていたのだ。その上寝坊したとなれば、ギルベルトが怒るのも尤もである。
自分の行動がいかに考えなしで失礼なものかを思い知り、椿は悄然と項垂れた。その様子を見たギルベルトは、がしがしと髪を掻きむしった。

「まあ、反省してるならいい。だが次はないからな」
「……すみません。もう二度とこんな真似はしません」
「よし!じゃあ顔上げろ」

言われるままに、椿は恐る恐るギルベルトを見上げた。さっきまでの怒りはどこへやら、ギルベルトはいつもの不敵な笑みを浮かべている。

「おはよう、椿」
「え?」
「お前なあ……朝に顔を付き合わせたら、挨拶くらいしろよ」

言われて、椿ははっと我に返った。ソロプレイが長いと、挨拶の習慣なんて忘れてしまうのだ。

「あああすみません!おはようございます、ギルベルトさん」

椿が慌てて挨拶を返すと、彼はぱっと破顔して頷いた。

「よし!じゃあ朝飯食うぞ!」
「まだ食べてなかったのですか?」
「おう。サディクも食堂で待ってるから、早く行こうぜ」

いつの間に名前で呼ぶほど親しくなったか。疑問に思ったが、椿は何も言わず食堂に向かった。この宮殿の食堂はアーケード内のフードコートも兼ねており、調理場と食事空間が一体になっている。朝ご飯を食べに来た客もいて、食堂はそこそこ混んでいた。

「おうおう、遅かったじゃねぇか!寝坊でもしたのか?」
「サディクさん」

声の聞こえた方を見れば、調理場に赤いエプロンをつけたサディクがお玉を片手に立っていた。

「すみません、起床アラームを付け忘れていました」
「まあ寝坊ならいいんだがよ。それで、お二人さんは何を食うんでぇ?」
「え、お前が作んのか?」

エプロン姿に驚くギルベルトに、サディクは不思議そうに首を傾げた。

「なんか変かい?」
「いや、変じゃねぇけど」
「ギルベルトさん、サディクさんの料理はすごく美味しいんですよ。特にバクラヴァとムサカは絶品です、食べたら病み付きになること請け合いです」
「なにお前が誇らしげにしてんだ」

我がことのように誇らしげに言う椿に、ギルベルトは容赦なくチョップを入れた。ともあれ、彼女が美味しい物に目がない事は、フランシスから聞いている。彼女がおいしいと言うのだから、味は期待できそうだ。

「それじゃ、俺ムサカとケバブで」
「私はビョレクとバクラバ、あとチャイをお願いします」
「まいどあり!そこいらに座って待っててくんな!」

注文を受けて、サディクがすぐさま調理に取り掛かる。近くで空いている席を捜し、ギルベルトと椿は卓を挟んで座った。

「それで、今日はどうします?」
「まずは『始まりの街』に行く。生命の碑で生死を確認しないことには、シャルル・ヴァロワっつー奴の捜索も始まらねぇからな」

生命の碑というのは、全プレイヤーの名前が刻まれた大きな黒曜石のことだ。プレイヤーが死んだ時、その碑に刻まれた名前に横線が刻まれ、横に死亡時刻と原因が現れる。その碑は『始まりの街』の中心部、《軍》の本拠地であるシェーンブルン宮殿の地下にあり、一般プレイヤーも自由に見る事ができる。もっとも、碑のある部屋は嘆きと沈鬱な雰囲気に包まれており、用が無ければふつうは行かない。

「あの、ギルベルトさん。碑の確認は私が行きますので、フランシスさんの様子を見に行ってください」
「あ?何でだよ」
「その、昨日の様子では心配でして……」

言葉を濁す椿に、ギルベルトは訝しげな顔をした。確かに昨日のフランシスは茫然自失といった体だった。しかし、特に進展もないのに顔を見に行っても、二人してどんより沈むだけだ。それに、犯人が昨日の広場での話を聞いていたとしたら、捜査をしている椿が次のターゲットになりかねない。

「駄目だ。オレンジの連中は圏内PKの捜査をしてる俺らを狙ってるかも知れねぇ、単独行動は危険過ぎる」
「で、ではサディクさんが一緒ならばどうですか?」
「俺?俺がどうしたってんでい」

ちょうど料理を運んできたサディクは、いきなり話を振られてきょとんとした。

「サディクさんは剣の腕も一流です。例え相手がオレンジでも、大丈夫です」
「けどよ、サディクだってリーダーなら忙しい身だろ?今日空いてんのか?」

ギルベルトと椿に視線を向けられ、サディクは思わず一歩引いた。ギルベルトの怪訝そうな表情はともかく、椿に縋るような眼差しを向けられたのは初めてだ。これほどに椿が必死になるからには、何か理由があるに違いない。真剣な眼差しからそう推察し、サディクは今日の予定を鑑みた。

「今日は特に予定もねぇし、『始まりの街』なら直ぐだ。一緒に行くぜい」
「ありがとうございます、サディクさん」

見るからにほっとした様子の椿に、サディクは笑んだ。あの日以来、つと笑わなくなった椿のことを、サディクはずっと心配していた。だから、比べようもないほど多彩になった椿の感情表現が、サディクには嬉しかった。

「そうと決まればやるこたぁ一つよ。さあ、たんと食ってってくんなぁ!」

大盛りに盛った料理をギルベルトと椿の前に並べ、サディクは声を弾ませた。
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