遥かなる雑賀の地へ
訪問者は突然やって来るものだ。
雑賀衆本拠地、雑賀荘。雑賀姉妹が住まう館。
戦のない時、当然ながら姉妹は戦装束ではなく着物姿である。
「姉様、新しくお着物を仕立てようと思うのですが、どちらの生地が好みですか?」
色と柄の違う二種類の反物を持った巴は、楽しそうに孫市に聞いてきた。
「そうだな……私はそちらが好きだな」
「あ、やっぱり。姉様ならこちらの生地を選ぶと思っていました」
姉の好みが予想と一致した巴は嬉しそうに笑い、選ばれた反物の生地の端を掴み、少し広げて孫市と重ねてみる。
「うん、姉様に似合っています」
巴は銃器だけでなく、裁縫や料理も得意であった。暇を見つけては孫市の着物を仕立てたり、館の女中達と一緒に料理を作っている。
館の主である孫市の妹なのだから、裁縫や料理などは女中に任せれば良い。それなのに自分から進んでやるのは、もはや巴の性分だと孫市は思うことにしていた。
「完成が楽しみだ」
孫市が笑った時、慌ただしい女中の声が聞こえてきた。
「お待ちくださいませ! 頭領や副頭領の許可なく上がられては……」
「No problem. 会ったら断りゃいいんだよ」
傍若無人な態度と異国語。訪問者が誰なのか、雑賀姉妹はすぐにわかった。
やがて襖を開けて部屋に入ってきたのは、
「Hey, 邪魔するぜ」
青を基調とした袴姿の男性だった。短い茶色の髪、整った顔立ち、そして何よりも特徴的なのが、右目を覆う眼帯。
「奥州の竜は随分礼儀がなってないな」
「今更だな」
少し呆れつつも面白そうに笑う孫市に、男はとくに悪いと感じてはおらず、むしろ開き直った態度で返答した。
「まさ……藤次郎殿!」
予想外の訪問者に巴が嬉しそうに男の名を呼んだ。
「政宗で構わねぇ。どうせここの館の奴らにゃバレてんだし」
奥州筆頭・伊達政宗。この戦国乱世でも名高い武将の一人である。袴姿のためお忍びで奥州を出たのだと判断し、巴は『政宗』ではなく『藤次郎』と呼んだのだ。
しかし、何度かこの姿で雑賀の地を訪れているため、既に彼の正体はこの館の住人には知れ渡っている。
「また抜け出してきたんだな」
「Yes, お忍びだからな。たまには息抜きも必要なんだよ」
「片倉には伝えたのか?」
「……ま、書き置きは残してきたから問題ないだろ」
孫市はため息をついた。国主とあろう者が側近に何も伝えずに政務を放り出し、奥州から遥か離れた雑賀の地まで来るとは。主がこんな放蕩者だと、側近の片倉小十郎も苦労なことだ。
孫市が説教を垂れるより先に、政宗は口を開いた。
「What? 反物なんか持ってどうしたんだ? 新しい着物でも仕立てんのか?」
「あ、はい。姉様のお着物を新しく仕立てるので、生地を選んでもらっていたんです」
「Hum……」
巴が持っている二つの反物。どちらの生地も女性的な色と柄である。政宗はしばし考え込み、一つ質問した。
「巴、他の反物はねぇのか?」
「ありますよ」
「OK. 早速見せてくれ」
政宗は巴の肩を抱き寄せると、孫市を見る。
「んじゃ孫市、またあとでな」
「仕方ないな。部屋を用意させておく」
来てしまった以上、敵でもない一国の主を追い返すわけにはいかない。それに、妹とは恋仲なのだ。可愛い妹のためにも、やはり政宗を迎え入れなければ。
仕方ないと言いつつも、孫市は政宗の滞在の許可を出した。
「Thanks. さ、行こうぜ巴」
「はい。姉様、またあとで」
弾んだ声で巴が言うと、政宗は彼女の肩を抱き寄せたまま部屋を出た。
* * *
孫市のいた部屋から少し離れた場所。主に着物や反物、装飾品の保管場所として使用されている部屋に、巴と政宗は来ていた。
「それで、反物がどうかしたんですか?」
「男物の青い色調の反物はあるか?」
「青ですか? 青なら……」
えーっと、と考えつつも、すぐに目当ての物を探し出した。
「こちらです」
「ほぉ、流石は雑賀。上等な生地だな」
傭兵と貿易で巨額の富を得ている雑賀衆だけあって、質の高い生地の反物などがずらりと揃っているのを目の当たりにした政宗は、感嘆の声を漏らした。
いくつもある反物の中で深みのある蒼い生地に目が止まり、それを手に取る。
「巴、この生地で俺の着物を作ってくれ」
「わかりました。では、あとで採寸させていただきますね」
政宗から反物を受け取ったあと、巴は姉と政宗のやり取りを思い出した。何となく浮かんだ疑問だったので、とくに深く考えずに政宗に尋ねる。
「そういえば、片倉殿にいつ頃戻られるかも書き残してきたんですか?」
突然側近の名を出された政宗は、わずかに眉を寄せた。しかし、孫市の選ばなかった反物をしまう巴はそれに気づかないまま話を進める。
「あまりご不在が長くなるとあちらも心配しますし、政務もたまってしまいますから……」
「Stop.」
政宗の制止の声がかかった。出会った当初は異国語なんてまったくわからなかったが、交流を深めるうちに政宗がよく使う簡単な言葉なら理解出来るようになった。
Stopと言われて、巴は言葉を止めたのだが、視線の先には不機嫌そうな表情があった。
「遠路はるばるやって来たってのに、嫌なこと思い出させるんじゃねぇよ。二人きりの時に他の男の名前を呼ぶのも駄目だ」
「も……申し訳ありません」
政宗の声は少し怒気を含み、言葉遣いも相まって、流石は筆頭として兵を率いる武将だけあって迫力はかなりのものだ。巴は慌てて頭を下げる。
すると、政宗は小さく舌打ちをすると巴に近寄り、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ま、政宗殿……」
「……Sorry. 抜け出した俺が悪いんだ。巴に当たるのは間違ってるよな」
困惑した様子の巴に、政宗は自嘲するように謝った。どうやら、先程の舌打ちは巴ではなく政宗自身に対するものだったようだ。
「だがな、今は二人きりの時間だ。側近だろうと、他の男の名前は出さないでくれ」
そっと巴の腰に左手を当て、顎に右手を添えて上を向かせる。
「Understand?」
「……いえす」
たどたどしい異国語で返答すれば、政宗は満足そうに口元を緩ませて唇を重ねた。ゆっくりと優しく角度を変えて。
やがて離れた政宗の形の良い口から、甘い言葉が紡がれた。
「I love you. My honey.」
2011/09/02