餡蜜


 古本屋『京極堂』に隣接する邸宅に、女性二人の談笑が響いていた。中禅寺薔子と中禅寺千鶴子のものである。

 先日、薔子がおかずとクッキーを作って兄夫婦を訪れた。それを喜んだ千鶴子が一緒にお菓子を作ろうと薔子と約束を交わしたので、今こうやって二人で製菓を楽しんでいる。

「小豆はこれくらいの甘さでちょうどいいかな」

「白玉茹で上がったわよ」

「寒天も固まったみたい」

「じゃあ、フルーツも一口サイズに切って……」

 普段から料理に慣れている薔子と千鶴子は、テンポ良く作業を進める。

「もうちょっとで完成ね、義姉さん」

「そうね」

 台所で女二人が笑い合っている頃、来訪者は突如として現れた。

 * * *

「やい馬鹿本屋。神が来てやったというのにその態度は関心しないな!」

 書斎の縁側に仁王立ちになり、左手は腰に当て、右手は人差し指をビシッと中禅寺に向けた榎木津が怒鳴る。だが中禅寺はまるで聞こえていないとでも云うかのように、座卓の上に開いた本を読み続けていた。
 何の変化も見せない中禅寺に榎木津は、むう、と小さく唸った。
 榎木津が中禅寺の元を訪れたのは単なる気まぐれである。探偵事務所にいても依頼はないし、和寅や益田がちょこまか動いて目障りだった。いつものように惰眠を貪っていても良かったが、何だか外に出たい気分になったので、こうして顔見知りの古本屋に顔を出したというわけだ。

 わざわざこの榎木津礼二郎が足を運んでやったのに、何故この男は仏頂面で本を読み続け、こちらを見ようともしないのか。面白くない。面白くないぞ。こんなに面白くないのなら、探偵事務所のあいつらでも引っ張ってくれば良かった。

 そこで榎木津はあることを思い出した。兄が面白くないのなら、妹のところへ行けば良いではないか。仏頂面で凶悪人相の兄とは似ても似つかない、小料理屋を営む可愛らしい双子の妹の片割れ。
 そうだ、彼女なら良い反応を見せてくれるに違いない。

「よし! 妹のところに行こう!」

 妹というのは敦子ではなく薔子のことだろう、と中禅寺は察して声をかける。

「……店に行っても薔子はいませんよ」

「何!? 何処かに出かけているのか!」

 行き先を聞いたが中禅寺は答えようとはしなかった。
 無言を貫くとはいい度胸だ。店にいないことを知っているということは、彼女の行き先を知っているのではないのだろうか。
 そう思った榎木津はじいっと目を凝らし、中善寺の記憶を視る。

「──何だ、ここに来ているのか。それならそうと早く言え」

 つまらんことで時間を取らせるな、と榎木津はふんと鼻を鳴らして書斎から出て廊下を大股で歩いていく。やがてすぐに台所が見えてきて、女性の話し声が聞こえてきた。

「しょうちゃんはここかな!」

「あら、榎木津さんいらっしゃい」

 台所で菓子を作っていたため、千鶴子は榎木津の訪問に気づかなかった。というより、榎木津が邸宅に上がったのは玄関からではなく中庭を通過して書斎から上がりこんだのだ。千鶴子が気づかないのは当然である。

「何を作っているのかな? 白玉、寒天、フルーツ、餡子……」

 菓子の材料が揃い、いよいよ盛り付けに入る段階のようだ。これはそう、あれだ。

「餡蜜だな!」

「当たりです」

 薔子が頷くと、榎木津は餡子をぺろりと一口つまみ食いをする。

「あ、駄目ですよ榎木津さん。餡子が減っちゃいます。ちゃんと榎木津さんの分も作りますから」

「はっはっは! 一口だけだ、無粋なことは云ってはいけない!」

 それに減った分は中禅寺の分から差し引けばいいのだ、と高らかに笑う榎木津に、薔子は苦笑しながらこれ以上餡子を食べられないよう死守する。

 榎木津は、自分よりずっと背の低い薔子をからかいつつ材料をもう一度見やる。中禅寺、千鶴子、薔子、榎木津の四人分にしては分量が多い気がする。

「四人分にしては多くないか」

「おかわり用ですわ」

 にこやかに答えた千鶴子に、榎木津は成程と頷いた。

「義姉さん、ちょっと兄さんのところに行ってくるわ」

 薔子はそう云うと、小皿に餡子を少量取り分けてスプーンを添えて兄のいる書斎へと向かった。

「しょうちゃんは何故京極堂のところへ?」

「餡子を味見しに行ってもらっているんです。あの人が餡蜜が食べたいって言い出したから、甘さがちょうどいいか確認のために」

 先日、薔子がおかずとクッキーを持ってきた時のこと。薔子の次の休日に千鶴子とお菓子を作ることになった。洋菓子もいいし、和菓子もいい。
 何を作ろうか決めかねていた二人に中禅寺がぽつりと漏らしたのだ。餡蜜がいい、と。その一言で今日こうして餡蜜を作っているのだ。
 鶴の一声とはまさにこのことだと千鶴子は笑いながら云うと、榎木津はすぐに台所を出て廊下を足早に歩く。書斎に向かえば、ちょうど小皿を手にした中禅寺が餡子を味見しているところだった。

「うん、ちょうどいい甘さだ」

「良かった。じゃあ……」

「やい本馬鹿。お前の餡子は全て僕が頂くからな!」

 盛り付けてくるね、と続けようとした薔子を遮った榎木津は、先程と同じく座卓に向かう中禅寺を見下ろした。

「……は?」

 突然訪問して座卓に潜り込んで眠り、突然起きて会話に加わる男。それが榎木津礼二郎である。彼の突拍子もない言動には既に慣れているが、餡子を全て頂くというのは一体どういう訳なのだろうか。
 中禅寺が怪訝な表情で見上げれば、榎木津はふんと鼻を鳴らす。

「しょうちゃんが作ってくれた餡子なのだ。お前に与える分はない」

「榎木津さん、餡子がないとただの蜜になっちゃいます」

「それでいいのだ!」

「駄目ですよ。おかわりもありますから。ね?」

 おかわりもあるので、兄の餡子まで食べないでください。目で懇願すると榎木津はしばらく押し黙ったあと、わかったと了承した。

「ただし、僕の分は多めにね!」

「ふふ、わかりました」

 絶対だぞ、と念を押すと、薔子は中禅寺から小皿を受け取り、台所へ戻っていった。
 榎木津は餡蜜が完成するまでやることがないのでこのまま書斎に残り、座卓の定位置に潜り込み、寝ることにした。

「……榎さん」

 顔を右に向けて榎木津を見れば、すでに寝息を立てている。何もかもが突発的な男だ、と中禅寺は心の中で独りごちた。
 赤の他人ならともかく、普段より付き合いのある中禅寺や木場の言葉にはまるで従わないのに、薔子にはすんなり従った。榎木津は明らかに薔子に好意を抱いている、と中禅寺は確信していた。対する薔子が榎木津のことをどう思っているかは知らないが。
 もしも、もしもの話──
 嫁ぎ先としては、榎木津家は文句なしだ。何せ父親は元子爵で、今でも有力な財閥として名を轟かせているのだから。
 薔子と榎木津が交際することがなければいいのだが、と中禅寺は密かに願っている。それは榎木津の性格に難があるわけではない。
 いや、難がありすぎて心配なところはあるが。そう……単に、可愛い妹を余所へ行かせたくないだけだ。

 双子の姉の敦子は、時折自分とは距離を置くような素振りを見せることがある。一回りほど年が離れ、幼少時は離れて暮らしていたためそうなるのも仕方ないが、薔子は敦子より懐いていたように思える。

 シスコンと呼ばれても構わない。大切な妹が余所の男に嫁ぐのは、まだずっと先でいい。

 書斎で本を読む兄は、台所にいる妻と妹の談笑を聞きながら、ページをめくった。


2013/07/31
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