おすそわけ


 眩暈坂をワンピース姿の女性が上っていた。長く続く坂はまっすぐではなく、くねくねと曲がり、地面も平らにならされていない。決して楽に上れる坂ではないものの、ようやく上りきると突き当たるのでそこを左に向かう。
 すると見えてきたのは『京極堂』という古本屋。店先に『骨休め』の看板が椅子の上に立てられているのを確認した薔子は、嗚呼また休憩しているのか、と苦笑する。
 開け放たれている戸の向こう側の店内には、自由に歩ける空間は通路一本しかなく、それ以外は天井すれすれまで積み上げられた本の壁がそびえたっていた。
 しかし、薔子は店内に入ることはせず、そのまま店の裏手へ回る。縁側に面した部屋の座卓に向かって読書をしている人物がいる。その短い黒髪の和装の男に薔子は声をかけた。

「兄さん、また休憩してるの?」

「……何だ、薔子か」

 兄と呼ばれた男──中禅寺秋彦は顔を上げ、縁側に歩み寄ってきた妹へ顔を向けた。いつ見ても人相の良くない顔だと薔子は思う。兄の友人の一人である榎木津に兄の人相を表現させたら、きっと酷い言葉が羅列するに違いない。

 それにしても、相変わらず積極的に営業の姿勢を見せることのない店主だ。本は店だけでなく自宅にもあふれかえっている。ひょっとしたらいつか自宅が本で埋まってしまうのではないかと、薔子は密かに危惧している。

「千鶴子義姉さんいる?」

「買い物に行っている。先程出たばかりだから、しばらくは戻らないと思う」

「そっか……」

 眉尻を下げた薔子が包みを持っていることに気付いた中禅寺は用件を聞いてみた。

「千鶴子に何か用があったのか?」

「うん。おかず作ったからおすそわけ」

 小料理屋を営んでいる薔子の料理はとても美味しく、出不精の中禅寺も薔子の店には足を運ぶ。そんな薔子がわざわざおかずを持ってきてくれたのだから、このまま彼女を立たせたままでは悪い。

「まあ、上がるといい。お茶を淹れてくる」

 気を遣わなくてもいいのに、と云おうとしたが、中禅寺は自分の向かい側に座布団を敷くとさっさと台所へ行ってしまった。ここに立っていても仕方ないので、とりあえず縁側に上がって靴を揃えたあと、敷かれた座布団の上に座る。

 やがて盆を持って戻ってきた中禅寺は湯呑みを薔子に差し出した。

「ありがとう」

 茶を飲んで一息ついたあと、薔子は包みを開ける。中には二つのタッパーが重ねられていて、その上段のタッパーを兄に差し出す。

「クッキー作ってきたの。兄さんお菓子好きでしょ」

 タッパーの中に入っていたのは丸いクッキーだった。
今日は良い日だ。何かと面倒事を引き起こす探偵は来ないし、友人と自称する作家も来ないし、憑き物落としの依頼もない。朝から平穏で、大好きな本をゆったりとした時間の中で読んでいた中禅寺は本当に良い日だ、と思った。

「で、こっちは義姉さんに」

 下段のタッパーには煮物が入っていた。

「お前も忙しいのにすまないな」

「いいのいいの。さ、クッキーどうぞ」

 小料理屋『月見森』は薔子一人で切り盛りしている。料理の仕込みなどで忙しいはずなのに、それでも時間の合間を縫ってこうしてちょくちょく兄夫婦の元へおかずを持ってきてくれるのだ。おまけに今日は手作りクッキー付き。
 自分とは一回りほど年が離れているが、しっかり者の自慢の妹である。

 ──クッキー。
 甘い物の中で特に干菓子が好きな中禅寺とは反対に、榎木津が見たら思い切り顔をしかめそうだ。
 中禅寺はクッキーを一枚手に取り、かじった。バターの香りと砂糖の甘さがふわりと口の中に広がる。

「美味い。こんなに美味い物を嫌いだなんて、榎さんも変わってるな」

 そういえば、と薔子は記憶を辿る。兄の友人・榎木津は最中やクッキーといった水気のない菓子が嫌いだと聞いたことがある、と薔子は思い出した。
 榎木津は顔立ちがはっきりして見た目が西洋風なので、よくクッキーを出されることが多いのだそうだ。

「今日は洋服か。──嗚呼、定休日だったな」

 薔子の店での出で立ちは和服なのに、何故今日は洋服なのかと疑問に思ったが今日は定休日で、休日は大抵洋服を着ることを中禅寺は思い出した。

「これから予定がないなら、お前も一緒に夕食でもどうだ。千鶴子も喜ぶぞ」

 本当は妹と食事を取れる良い機会であるが、中禅寺は妻の名を挙げた。ただ誘っただけでは夫婦の時間を邪魔しては悪いと思った薔子が遠慮して帰ることが多いのだが、千鶴子の名を出せば帰らないことを中禅寺は知っていた。
 案の定、薔子は、

「そう? じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」

 あっさりと中禅寺の口車に乗せられた。

「店はちゃんと鍵かけてきたんだろうな? 窓の戸締りも忘れずに」

「全部チェックしてるわよ。もう、兄さんったら心配性なんだから」

「いくら店が同じ中野にあるって言ってもな、戸締りはしっかりしておかないと……」

「だから大丈夫だってば。あ、その本読みたい」

 次第に口煩くなってきた兄の小言を回避すべく、薔子は兄の後ろに積み上げられた大量の本へ視線を移し、適当に目に留まった一冊を抜き出した。
 重度の書痴である兄が好む分野は、宗教、民俗学、妖怪などなど。そんな兄を持ったせいか、薔子も同じ分野の本を読むのは昔から好きである。今もこうして兄を訪ねては、時間の許す限り本を読んだり、読み終えなければ借りることもあるくらいだ。

「全く……心配しているのにお前はすぐこれだ。誰に似たのやら」

「……兄さんも榎木津さん達の話聞きたくない時は本読んでるじゃない」

 腕を組んでため息をついた中禅寺に、人のことは云えない、と薔子が呟いた。
 そんなやりとりを交わしながらも、兄妹二人は座卓に向かい合った状態で各各読書を楽しんだ。

 一時間後程で千鶴子は戻ってきた。煮物とクッキーに大層喜んだ千鶴子は、時間のある時に一緒に菓子を作ることを薔子と約束するのだった。


2013/04/13
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