伸びてきた前髪


 十神がやや邪魔くさそうに前髪を指で払った。

「…………」

 ふん、と鼻であしらう。だが、耳で拾うには小さすぎる声に織音は気付くことなく、本棚に並ぶ本を見つめる。
 十神と織音は図書室に来ていた。十神は何やら難しそうな内容の本を読み、織音は音楽関連の本を探している。
 図書室には二人以外誰もいない。十神は自ら進んで生徒の輪の中に加わって盛り上がるタイプではないし、織音は皆と壁を作ることなく話すが特にお喋りな性格でもないので、室内はとても静かだ。

 織音がようやく目当ての本を探し当て、十神の座っているテーブルまで戻る。そこで彼女は気付いた。耳にかけられた彼の前髪が、はらりと落ちてきたことに。

「白夜君、髪伸びてきたね」

 織音に話しかけられて十神が顔を上げた。その拍子に、また前髪がはらりと動く。

「……ああ」

 十神は、やはり面倒そうに前髪を払った。それを見た織音は、一つの質問をする。

「髪を切るのって、やっぱり専属スタイリストの人にやってもらうの?」

「当然だ。そこら辺にいるような者に切らせるわけがない」

 答えると、十神は再び本へ視線を戻す。
 それもそうか、と織音は納得した。庶民ですら自分の好みの美容師を指名するのだ。しかし、それには美容室に足を運ばなければならないが、御曹司ともなれば専属のスタイリストが付き、一声かければすぐさま十神の元を訪れるだろう。
 そんな彼の前髪は伸びてはいるが、後ろ側の髪はそれほど長くはなっていない。前髪をカットするだけでも彼はスタイリストを呼び寄せるのだろうか。
 そこで、織音は一つの提案を示した。

「ねえ、私が前髪切りましょうか?」

「……何?」

 わずかに怪訝そうな顔をした十神が織音を見上げる。

「スタイリストを呼べばいいだけのことだ」

「でも、前髪だけ切るのに呼ぶっていうのも……」

 前髪だけならすぐに切り終えるのだから、わざわざ呼んで手間をかけさせることはない。
 織音の家も裕福な家庭ではあるが、考え方はどちらかといえば庶民的だ。だからこんな提案をしてくるのだ。十神はそんな織音に小さく溜息をついた。

「スタイリストは仕事で呼ばれるんだ。そいつからその仕事を奪うというわけか?」

「あ……そっか、そうだよね……」

 先程までの浮かれた表情とは打って変わって、織音の眉尻は下がり、「ごめん」と弱々しく告げる。

「やっぱり白夜君は凄いなぁ。人の上に立つだけのことはある」

 十神はまだ高校生だが、会社を経営して成功を収めている。そんな経営手腕を持つ従兄妹を尊敬する一方、自分はただ楽器を演奏することしか出来ない織音は内心気落ちした。

「他にも気になる本があったから、それ持ってくるね」

 これ以上気落ちしてしまうと、十神に勘付かれてしまう。織音は手に持っている本をテーブルの上に置き、自分の気持ちを振り払うかのように十神に背を向けて再度本棚へ向かった。

「…………」

 従兄妹の背中を目で追っていた十神だったが、彼女が本棚の陰に隠れると、開いていた本を閉じて席を立った。
 おおかた、経営手腕を持つ自分との格差に気を落としているのだ。そう考えつつ織音の消えた方へ行けば、彼女はやはり意気消沈して本棚に背中を預けて顔を俯かせていた。

「俺とお前に差がありすぎるのが当然だということがわからんのか」

「……!」

 本を読んでいるはずの十神がすぐ近くにいることに驚いた織音の肩が大きく跳ねた。

「俺は昔からずっと帝王学を叩き込まれ、お前は十神の家の外で育ったんだ」

「それは、そうだけど……」

 頭ではわかっているが、心がなかなか現実を受け入れてくれない。織音は成長していくにつれて、そのもどかしさが膨らんでいくことを自覚していた。

「だが、俺でも出来ないものがある」

「……白夜君でも無理なことがあるの?」

「ああ。何かわかるか?」

 問いかけられて、織音は十神から視線を少しそらして考える。幼い頃から帝王学を学び、十神の家柄に押し潰されることなく努力し、会社経営やデイトレードを成功させている彼でも出来ないものとは何だろう。

「お前の得意なものだ」

「……私の?」

 織音は、自分の得意なものが楽器の演奏であると気付いたが、すぐに疑問符を浮かべる。

「演奏するだけなら、白夜君もその気になれば出来るじゃない」

「確かにな」

 否定するどころか、自信ありげに頷くのが彼らしい。

「演奏するだけなら俺にでも出来る……が、演奏者の心までは表現しきれん」

 演奏者の心。ただ楽器を弾くだけならばどんな人間にでも可能だが、心を込めて演奏し、その心情を聴き手に伝えることが出来るのは限られた者だけだ。

「自分を卑下するな。十神の家を出たとはいえ、血筋は同じだ。それに、楽器の最上の音色を引き出そうと努力していることは知っている。今度また卑下してみろ、盛大に罵ってやるからな」

「……うん」

 織音が小さく、けれどしっかり頷くと、十神は何も言わずに彼女の頭にポンと手を乗せた。それが昔から織音に対する十神の慰めの方法であった。

「仕方ない。織音がどうしてもと言うのなら、前髪を切らせてやってもいい」

 突然発せられた十神の言葉に、織音は驚いて目をぱちくりと瞬かせる。

「え、『どうしても』なんて一言も……」

「何だ、さっきまで切りたいと言っていただろう」

「『切りたい』じゃなくて『切ろうか?』って訊いただけよ」

「では、俺の前髪がこのまま伸びたら読書の邪魔になってしまい、すぐに読み終えてしまうような本に無駄な時間をかけてしまうな。そんな時間があれば、もっと読める本が──」

「わかったわよ、切ってあげるから!」

 そんなに切って欲しいのなら素直に言えばいいのに、と織音は少々面倒な性格の従兄妹に内心愚痴をこぼした。専属スタイリストの人の仕事を減らしてしまう。そう指摘されて、敢えてこちらが身を引いたのに釈然としない。
 十神の性格は重々承知しているが、たまに反撃したくなる時がある。織音は今その時だと思い、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

「そうだわ。ちょっと冬子ちゃんのところに行ってくる」

「……どうして根暗のところに?」

「ジェノサイダーに鋏借りてくるの」

「は……!?」

 思いもよらぬ人物の名前が出て、十神が珍しく動揺する。そんな彼の反応を見た織音は、反撃は成功だと小さく喜んだ。

「だって鋏がないと髪切れないでしょう」

 けろりとした表情で言い放つと、織音は図書室から出て行った。

「それはそうだが……って、こら待て! 何もあいつの鋏なんか使わなくても……!」

 寄宿舎へ向かう織音を追って、十神も図書室を飛び出した。殺人鬼として何人もの人間を手にかけてきた彼女の鋏なら切れ味は抜群だろう。しかし、わざわざジェノサイダーの鋏を借りずとも、校内にある普通の鋏で良いはずだ。

「冬子ちゃんでもジェノサイダーでも、白夜君のヘアカットに使うからって言ったら、きっと喜んで貸してくれるから安心して」

「いや、そういう問題ではないだろう!」

 二人は図書室を出た直後は歩行、しばらくすると早歩き、そして寄宿舎の入り口が見えてくると駆け足へと移り変わっていた。
 十神は走るには不向きなスーツを着用していることをやや後悔しながら、少し前を走る織音の背中を追いかけた。


Web拍手掲載期間
2013/09/19〜2013/11/10

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