第4話 かんざし


 日高の浜辺。
 アシパは太い木の枝を勢いよく振り下ろし、一頭のアザラシを仕留めた。今から食べるためだ。
 アザラシのことをトッカリという。トッカリとは『海の周りを移動する』という意味で、ここ日高にはアザラシが襟裳岬を回り、稀にやってくるためそう呼ばれている。
 日高ではアザラシはそんなに獲れないため、鹿と同じくカムイとして扱わない。しかし、もっと北の樺太では生活と密接な生き物なので、ヒグマと同じくらい重要な海の神様として大事にしている。キロランケがそう説明すると杉元は感心した。
 そうしている間にもアシパは捕獲したアザラシを解体していく。普段から狩猟を行っているので手際は良い。小夜子もアザラシの解体作業を手伝っており、アシリパに劣らず鮮やかだ。

「小夜子さんも捌くの上手だね」

「アシパちゃんに教わりました。教え方が上手なんです」

「小夜子は飲み込みが早い。一度教えただけですぐ理解する」

 物覚えの良い姉だと、アシパはまるでに自分のことのように誇らしげに言う。
 解体されたアザラシの肉を見ると、牛などの家畜と比べて黒いことを知って杉元は驚いた。

「アザラシの肉は血の臭いが強いけど、しっかり煮込むことで血が抜けて美味しくなる。肝臓も肺も煮込んで食べるんだ」

 丸い鍋でアザラシの肉や内臓を煮込む間、アシパは荷物をごそごそと探ったのち、絶望した顔をした。どうやら去年採って干しておいたニリンソウがないことに衝撃を受けているらしい。
 肉料理に入れると肉の味を何倍にするだけでなく、お互いの味を引き立てるものだ。こんな時にないなんて、とひどく落ち込む。
 ニリンソウがないので塩ゆでしただけの鍋になったが、臭みもなく魚と牛肉の中間みたいな味で柔らかくて美味しかった。


 杉元達は食事を終えると海から離れ、川沿いを上流に向かう。そちらへ行けば大伯母がいるコタンがあるので、今夜はそこに泊まることになった。

「ところで白石、札幌の遊女から仕入れた囚人の情報だが……どんな外見か聞いたのか? 心当たりはあるのか?」

 キロランケが尋ねると、白石は当時のことを思い返しながら答えた。本当は遊女ではなく、ホテルが爆発して負傷した家永から聞いたのだが、そこは伏せておくことにする。

「雑居房の入れ替えは時々あったし、刺青の囚人全員が同じ房にいたわけじゃねぇ。とにかく札幌のかわいこちゃんが言うには……その男は日高へ行って、ダンという名のアメリカ人に会うと言っていたらしいぜ」

 * * *

 上流に向かって進めばコタンに辿り着いた。ここにはアシパの祖母の姉がいる。海でアザラシが獲れたので良い土産になったと杉元は頬を緩ませた。
 アシパは大伯母と顔を合わせると、『ウルイルイェ』という挨拶を交わす。これは久しぶりに会った時にする女性の挨拶で、しゃがんで抱き合い、髪や肩や手をさすり合うものだ。
 小夜子がウルイルイェのことを雑記帳に書いていると、杉元が先程獲ったアザラシの肉と皮を大伯母に差し出した。喜んでくれるだろうと思ったのだが、彼女はポロポロと涙を流し始めた。
 一体どうしたのだろう。心配になったアシパは、チセの中で話を聞くことにした。

 アシパの祖母の家には、母親から代々譲り受けてきた大切な宝物があった。何頭もの上質なアザラシの皮を使って作られた手の込んだ衣服で、大伯母の娘が結婚した時にも譲った。しかし、酒と博打の癖がある義理の息子がその服をたったの三十円で人に売り、どこかへ逃げてしまったという。
 自分の祖母の家に伝わっていたものなら、自分にとっても大切なものだ。アシパはアザラシ皮の服を買い戻してくると大伯母に約束した。

「って、アシパちゃんそんなお金あるのぉ?」

 首を傾げた白石に、アシパはこくりと頷いた。実は先日の苫小牧の競馬場で一枚だけ当たっており、五円が三十七円になったことを、アシパは白石に黙っていたのだ。
 義理の息子はアザラシの衣服を誰に売ったのだと聞けば、大伯母はこう答えた。近くで牧場を経営するエディー・ダンというアメリカ人だ、と。

 * * *

 杉元一行は早速、エディー・ダンの牧場へ向かった。
 彼の家は洋風建築で、通された部屋は応接室だった。座り心地の良い椅子に丁寧な刺繍のテーブルクロス、壁際には重厚感のある調度品に様々な絵画やミニチュアが飾られている。
 小夜子が住んでいた家もまあまあ良い作りで絵を飾ったりもしていたが、こんなに多くはなかった。くるりと部屋を見回して珍しがっている小夜子に気を良くしたのか、ダンが話しかけてきた。

「お嬢さん、行商人にしては随分と若いね。薬を売っているのかね?」

「はい。もしダンさんのようなご立派な旦那様が取引して頂けるとありがたいですねぇ」

「ははは、抜け目のないお嬢さんだ」

 若いのにしっかりしている、とダンは上機嫌で笑い声をあげた。
 杉元達が椅子に腰をおろしたあとアシパが事情を一通り話したが、残念ながら色よい返事は返ってこなかった。

「日本へ来て二十五年になる。珍しい物が好きでね。アイヌの物も集めているんだ。あの服も気に入っている」

「事情は話したはずだ。そっちが払った三十円は返す」

「三十円? 百円じゃなかったかなぁ?」

 相手が子供だから足元を見ているのだろうか。随分と舐められたものだ。

「ダンさんよ、戦争ってどういう時に起こるか知ってるかい? 舐めた要求を吹っ掛けられて交渉が決裂した時だ」

 まさに一触即発。
 緊張が高まる中、先に口を開いたのはダンだった。

「モンスターを斃して欲しい。うちの馬が何頭も襲われている。従業員もモンスターを恐れて退治する人間がいない。そいつの死体を持ってくれば服を三十円で返そう」

「いいからさっさと返せよ、おっさん」

 お金を返すから服を渡せと杉元が凄んだ時、バタバタと駆け込んでくる足音が響いた。猟銃を抱えている男で、この牧場の従業員だ。

「エディーさん、また出ました! たった今、馬の悲鳴が!」

 従業員はダンを筆頭に杉元達を現場に案内した。地面には血痕が残っており、森の方へ続いている。立ち並ぶ木々の間にちらりと見えたのは、馬を背負って二本足で歩く赤毛のヒグマだった。
 既に距離が開いているため、アシパの弓矢では届かない。すぐに杉元が銃を構えて照準を合わせる。杉元の邪魔になるので白石が後ろに飛びのいたのだが、アシパを尻で押し倒してしまった。
 杉元の撃った弾はヒグマの足元をかすめた程度にとどまり、ヒグマは驚いて逃げてしまった。

 ダンによれば、ヒグマは馬の首を折るなどして完全には殺さずに前足を両肩に背負い、馬に自分の後ろ足で歩かせることで運ぶ獲物の重量を半分にする。あのヒグマはそうやって森の奥へ連れて行き、食べるという。

「頭が良くてもヒグマはヒグマだ。この取り引き、受けてやる。あいつを斃したらアザラシの服を返してもらうぞ」

 未知の怪物などではない。ヒグマが相手とわかれば勝機はある。
 アシパはそう確信してダンに取り引きに応じると宣言すると、ダンが赤毛のヒグマの爪を取り出した。去年の秋に銃で指ごと吹き飛ばしたものだ。
 しかし、今のヒグマが残した足跡には足の指が全部あった。去年の夏には片目を撃ち抜いたのに、それでも先週襲ってきたヒグマには両目があった。
 だからダンは、指を吹き飛ばそうが目を撃ち抜こうが元通りになっているので、あの赤毛のヒグマを不死身のモンスターと呼んでいるのだという。
 斃せるものなら斃してこいと告げると、ダンは小夜子の手首を掴む。

「……あの……?」

「あんた達が無事モンスターの死体を持ってくるまで、お嬢さんは私の元にいてもらおうか」

 ダンのところにいてもらうということは彼の家で待つことだと、小夜子はすぐに理解した。

「ああ!? てめぇ、小夜子さんを人質にするつもりかよ!?」

「彼女は薬売りで戦う手段はない。モンスター退治に同行して怪我でもしたらどうする? 無事にモンスターを斃せばいいだけのことだ。それとも斃す自信がないのかね?」

「杉元さん、大丈夫です。いざとなれば薬もありますし、いろいろ使い方もありますから」

 杉元は頭に血が上ってダンに凄むが、そのダンは怯むことなく杉元を睨み返して小夜子の手を引いて歩き始めた。彼女を取り戻そうと踏み出そうとしたところをキロランケが引き留める。

「おいキロランケ、どういうつもりだ!」

 杉元は先程、ダンに三倍以上の金額を吹っ掛けられたので普段より頭に血がのぼっている。

「落ち着けって。小夜子も馬鹿じゃない。薬だよ、薬」

「あ?」

「薬は適量使えば便利だが、過剰に摂取すれば毒にもなるってことだ」

 どれをどう使えば薬になるのか、はたまた毒になるのか。元医者で薬売りの小夜子が知らないわけがない。身の危険を感じれば持っている薬を使って逃げるだろうと説明すれば、ようやく杉元は落ち着きを取り戻す。

「くそっ……何が何でもヒグマを仕留めてやる」

 * * *

「あのアイヌの少女もそうだが、君もたいしたものだ。人質を取った本人を前にしてよく言うよ」

 ダンの家に戻ると、彼は気分を悪くするでもなく小夜子の胆力っぷりに舌を巻いた。
 薬を取り扱う以上、その特性を熟知している。彼女がその気になれば薬を毒にして自分に盛るかもしれない。

「お互い様ですよ」

 ダンは小夜子を人質として、小夜子はダンを毒殺可能なのだと牽制し合ったが、どちらともなく小さく笑った。

「実はね、お嬢さんのかんざしが欲しいと思っていてね。玉や宝石の類はないようだが、素朴な木彫りに一目惚れしたんだ」

 小夜子は長い髪をかんざしでまとめている。店で売っているような華美な装具がついたわけでもなく、玉や宝石がつけられているわけでもない、花の木彫りのかんざしだ。何年も使い込まれており、素朴ながらも落ち着いた雰囲気が感じられる。

「華やかな飾りのかんざしは見たことはあるが、そのような素朴な木彫りのかんざしは初めて見た。そちらを頂けないだろうか。もちろん相応の金を支払おう」

「ごめんなさい。これはあげられないんです」

「どうしても? 三十円……いや、五十円支払うと言ってもかね?」

「はい」

 即答だった。いくら金額を増しても彼女は首を縦に振らないので、ダンはそうかと苦笑した。

「ダンさん、欲しいけど手に入らない気持ちはアシパちゃんも同じです。アザラシの服をどうか彼女に返してあげて下さい」

「……それは先程、取り引きを交わしただろう。彼らがヒグマを斃して戻ってきたらきちんと返すと」

 ダンがかんざしを欲した気持ちと、アシパがアザラシの服を欲した気持ちは同じものだと訴えたが失敗した。
 口約束ではあるものの、取り引きを交わしたのだ。これは守られなければならない、とダンは告げる。

「だが、私は君に危害を加えるつもりはない」

 こちらにおいでと案内されたのは、来客用の広い個室だった。ふかふかの一人がけのソファにローテーブルが置かれ、絵画などの調度品はおしゃれで目を奪われる。奥の方には寝室もあり、至れり尽くせりだ。

「君の仲間が戻ってくるまで、こちらで過ごすといい。人質扱いなので部屋に鍵はかけさせてもらうがね」

 何か用があればこれを鳴らしてくれ、とドアの近くに置いてあるハンドベルを指さした。それからダンは部屋から出て鍵をかけ、自室へ戻っていった。

「……このかんざしが欲しいなんて……」

 小夜子は静かになった部屋で木彫りのかんざしをはずして見つめた。素朴なこのかんざしを欲しいと言った人間はダンが初めてだ。
 これは売り物ではない。子供の頃、北海道に引っ越す前まで遊んでいたあの少年から貰ったものだ。
 女の子に贈るならどのようなものが良いか祖母に尋ね、自分で彫ったのだと聞いた。子供が作ったにしては随分綺麗な木彫りで、とても感動したことを今でもはっきりと覚えている。あまりに嬉しすぎて泣き出すと少年はどうしたらいいか困惑していた。
 うっかり折ったり紛失させたくなかったので大事にしまっていて、使い始めたのは数年前からだ。
 店で売られている華やかな飾りがついたものよりも、少年が作ってくれたこのかんざしの方が小夜子にはよほど輝いて見える。
 少年は今頃どうしているだろうか。祖父の銃を持ち出して鳥を撃っていたので、もしかしたら銃の腕前を生かせるということで日露戦争に向かった可能性もある。無事生きて日本に帰っていれば良いのだが、今となっては連絡先もわからないので彼の生存を願うばかりだ。

 ソファに腰かけ、ふうと息を吐き出す。
 髪で隠している顔の左側にそっと手を触れる。額や目尻のあたりには刃物の傷跡があり、薬草をつけたりもしたがなかなか消えてくれない。
 男性なら戦争帰りだとも言えるだろうが、女性の顔の傷はあらぬ噂を立てられることもある。余計な噂話を広められることがないように髪で左目を隠すことにした。左目自体、後天的な失明で見えないのだから髪で隠しても問題ない。
 まあ、しばらくは距離感が掴めないので苦労した。最近は慣れてきたが、それでも咄嗟の出来事で距離を誤ることがある。
 左目が見えないので医者の道は諦めて薬売りへと転身して数年経過したが、ぼちぼち食べていけている。
 いつまでこの暮らしを続けることが出来るのだろうかと不安になる時もある。誰かと結婚して家庭を築くのか──いや、片目が見えず傷跡の残る女と結婚する人なんていないだろう。
 きっと独り身のまま行商を続けてどこかで息絶えるのだ。
 将来を考えると不安だらけだが、今はアシリパと共に網走へ向かうと決めた。不安に負けてはいけない。

 * * *

 気付いたら小夜子はソファでうたた寝をしていたようで、西の空はすっかり橙色に染まっていた。
 しまった、と眠気を振り払ったちょうどその時、玄関の方が騒がしくなる。

「小夜子さんはどこだ!」

 杉元の声だ。彼が戻ってきたということは、ヒグマを斃せたということだ。
 待て、落ち着け、とダンがなだめつつも鍵をはずすと勢いよくドアが開け放たれて杉元が飛び込んできた。元から傷のある顔だったが、さらに傷が増えている。

「大丈夫か小夜子さん! ひどいことされてないか!?」

「え、あ、だいじょぶ、です」

 覚醒しきれていない頭で一生懸命言葉を紡ぐが、たどたどしい言い方に寝ていたことが知られてしまった。

「あっれぇ? 小夜子ちゃんもしかして寝てたのぉ?」

 俺ら必死にヒグマ斃してたのにひどいなぁ。いじける白石にごめんなさいと謝れば、彼はきょとんと小夜子の顔を見つめる。

「髪おろしてるの初めて見た」

 言われてハッとして、すぐに髪をまとめあげる。左目は髪で隠れたままだったので傷跡は見られていないはずだ。少しドキドキしたが、何も指摘してこなかったので見られていないと結論を出す。

「何だ、随分待遇のいい人質だな」

「私は落ち着かない」

 来客用の個室の美しい内装にキロランケは心配するまでもなかったなと笑い、アシパは居心地悪そうに眉を寄せた。


 杉元達は再び客間に戻り、ヒグマ退治の顛末を小夜子に話した。
 傷を負わせても無傷で姿を現す赤毛のヒグマは、実は三頭いたという。指を吹き飛ばされた個体、目を撃ち抜かれた個体、そして無傷の個体だ。
 また、ヒグマだけではなく入れ墨の囚人とも遭遇した。若山輝一郎というヤクザの親分で、苫小牧の競馬場で八百長を失敗させたとしてキロランケを追っていた。上半身にヤクザの和彫りがあったので、暗号となる入れ墨は下半身に彫られていたという。

 アシパは約束どおり、アザラシの服を三十円で返してもらった。ダンがきっちり三十円あるか確認している間、彼女は部屋の壁に飾っているアイヌが使っていた道具を眺めていた。中でも目を引いたのは弓だった。

「この弓、誰が作ったんだろう。とても良い物だな」

「わかるかね? 日高の名高い老猟師から譲ってもらった弓だ。その猟師はその弓で遠く離れた走る鹿を何百頭も仕留めたそうだ」

 アシパが弓を持って構える。見ただけで逸品を見抜くとは、良い目を持っているとダンは感心した。

「赤毛と戦って弓が折れたそうだね。それは君に贈ろう」

 弓をアシパに贈るかわりに若山の入れ墨を剥ぐ理由を聞かせて欲しいと杉元に要求したが、知らない方がいいと断られた。
 一度は取り引きについて険悪な仲となったが、約束どおりアザラシの服を三十円で返してもらったので、杉元もこれ以上関係を悪化させるつもりはない。入れ墨に関わると命を失うと警告したのだが、それでもダンは教えたいことがあると鍵のついた箱を開け、一冊の本を取り出した。その表紙には人の顔らしきものがあった。
 ダンが言うには、ヒグマに殺された従業員がどこかで手に入れたもので買い取ったものだ。この本はいろいろな人間の手を渡ってきたそうだが、炭鉱の町・夕張にいる男が作ったらしい。泥棒が夕張のその家に侵入して盗んだのだが、そのあと泥棒はつまらない喧嘩で殺されてしまった。どこの家で本を盗んだのかまでは誰も知らないというのだ。

「そしてこの本にはもう一つ噂話がついている。泥棒が侵入した家にはヤクザのくりからもんもんではない、『奇妙な入れ墨の皮もあった』と……」

 杉元が手にした入れ墨の暗号は、後藤、白石も名前を知らない囚人、白石由竹、二瓶鉄造、辺見和雄、若山輝一郎の六人。鶴見中尉は少なくとも刺青人皮を一枚は持っているが、それから増えたのだろうか。

 思うことは山ほどあるが、次の目的地が夕張に決まったところで杉元達はコタンへ戻ることにした。


2020/02/09

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