第27話 記憶と足跡


 トドという海獣が群れを成して陸の上に何匹もいる。その生き物を遠目に見つつ、小夜子は雑記帳にトドの姿を絵に描いていた。凹凸の少ない顔は海に潜れば水の抵抗が少ないように出来ており、人間でいえば両手両足の部位が魚のヒレのようで、水中で活動するのに適した体をしている。
 野太く短い鳴き声を発している群れの一頭の頭部に銃弾が撃ち込まれた。

「む?」

 トドに銃弾を撃ち込んだのは尾形だ。額の真ん中に命中したが斃れることなく逃げ出し、その直後、周囲にいたトドはいっせいに海の中へ逃げ込んだ。

「手負いがそっちへ逃げたぞ、アシパ!」

「おらぁっ!!」

 キロランケの言葉を待っていましたと言わんばかりに、アシパが二股に分かれた銛を両手で担ぎ、手負いとなったトドめがけて打ち込んだ。

「夏場に樺太の北で繁殖したトドはこの時期、越冬するために北海道へ南下する。このトドも北海道へ行く途中だったのかもな」

 人間よりもはるかに大きなトドの体を仰向けにさせると、キロランケはアシパや小夜子と共に早速解体作業に取りかかる。胸から尾ヒレまでを刃物で切り開けば、まだ暖かい内臓が外気に晒されたことで湯気が立つ。

「私達はエタペと呼んでいる。エタペは小樽でも獲れる」

 厳しい寒さを乗り切るため、トドの皮下脂肪は分厚い。アシパは脂身を切り取ると、尾形と白石に差し出した。トドの脂身は珍味といわれている。
 一口で食べるには少し大きい脂身を、尾形と白石は何度も何度も咀嚼する。そのたびにヌチャヌチャという音が聞こえてくる。

「ヒンナか?」

「…………」

「ものすごくくさい脂身だ」

 尾形は無言で飲み込み、白石は慣れない味に眉をしかめながら素直な感想を述べた。

「頭に命中したはずなのに斃せなかった」

 たいていの獣は頭を撃ち抜けばその場で斃れるのに、このトドは斃れることはなく、弾が命中しても動いていた。尾形が感じた疑問を口にすると、アシパがトドを捌きながら答えた。

「コンコンエタペと呼んでる大きなトドは、鉄砲で撃つ時に目か耳を狙えと言われている。ヒグマと同じで、頭の骨が分厚いからだ」

 樺太の西海岸に住むアイヌは、トドをヒグマと同じくらい重要なカムイとして考えている。キムンカムイとエタペはどちらも強いカムイなので、喧嘩をする物語がたくさんあるのだとアシパが説明した。

「へえ、アシパちゃん、今度その物語教えてちょうだい」

「まかせろ小夜子、いろいろ話してやる。まあ、今度強い奴を倒す時は頭を狙わないことだ──う゛ぇあっ!」

「アシパちゃん脂身食べ過ぎ〜」

 珍味を目の前にした食いしん坊のアシパは、自分も味わおうと脂身を口に入れた。弾力のある独特な食感と味わいに、口のまわりを脂まみれにしながら満足そうにごくりと飲み込んだ。

 脂身や肉や内臓などを解体処理したあとは大きな皮が残った。長さは大人数人分もあるそれは綺麗に剥がされ、広げられている。
 トドの皮は渦巻き状に細く切り裂くことで、長い長い革紐を作ることが可能である。丈夫で長いトドの革紐は『トラ』と呼ばれ、家具などのさまざまなものを縛るのに便利なのだ。アシパがそう説明すれば、白石は無駄にしないんだねと感心した。
 また、トドの油は調味料としても使い道がある。ウバユリの鱗茎やヒシの実を混ぜたご飯に入れると美味しく食べられるのだ。

「この樺太アイヌのおっちゃんが、トドの皮を何かと交換してくれるってよ。トドの肉も内臓も全部買い取ってくれるところを知ってるそうだ」

 樺太アイヌの男性と話していたキロランケが、現金を調達出来そうな情報を得たという。
 まさに着の身着のまま樺太へやって来たので、いかんせん現金がない。そのためトドを捕獲して解体し、現金を得るための手段を探していたのだ。
 小遣いをくれるじいちゃんもいないしな、と白石は土方歳三に思いを馳せた。杉元やアシパ達といて楽しいことには違いないのだが、金銭面を考えれば土方一派に身を寄せる方が良い。

「小夜子ちゃ──」

「おい白石、小夜子にねだるんじゃないぞ!」

 白石がにこにことした笑顔で小夜子に声をかけようとした時、アシパがすかさず割り込んできた。優しい小夜子なら、現地のお金は持っていなくても金銭的価値のあるものを恵んでくれるとでも思ったのだろうがそうはさせない。
 子供にすらヒモとしての思考を先読みされていることに、白石は悲しそうに眉尻を下げた。あしながおじいさんが恋しい。

 * * *

 アシパ一行は、トドの肉や内臓を買い取ってくれるという施設を訪れた。『樺太養狐株式會社飼育場』という看板が掲げられている。
 狐の飼育場を経営している男性によれば、狐は何でも食べるのだという。魚は安いが、さすがにそればかりでは栄養が偏ってしまうため、飼料には牛や鯨などを混ぜるのだ。もちろんトド肉の持ち込みも大歓迎である。
 飼育場にいる狐はどれも黒い毛皮のものばかりであることにアシパが気付いた。シトゥンペカムイと呼ばれる黒狐は、アイヌにとっては善い神様と信じられている。
 経営者曰く、黒い毛に白い差し毛が入っていると銀狐と呼ばれ、その毛皮は高級品として売れる。外国から輸入した狐で、樺太は寒いので良質の毛が出来るのだ。

「黒い毛が立派だわ」

 小夜子は金網越しに見る黒狐や銀狐を、雑記帳に絵として描き残していく。北海道で見かけるキタキツネとは全く異なる外見に興味を惹かれ、鉛筆を素早く動かす。

「このあたりに樺太アイヌの村があったはずだが知らないか?」

 キロランケが昔のことを尋ねると、経営者はもちろん知っていると頷いた。

「ああ、ここだよ。二十年か三十年前にはアイヌの村があったらしいけど、この飼育場を建てる頃には何もなかったな」

 ずっとこの地で狐の飼育を営んできた男の言葉に、キロランケは伏せ目がちに黙り込む。それに気付いたアシパはどうしたのかと尋ねる。

「誰か知り合いがいたのか?」

「ここにはお前の父親……ウイルクの生まれた村があった。ウイルクの母親も、そのまた両親も」

「みんなどこへ行ったんだ?」

「日本とロシア。二つの国の間ですり潰されて消えてしまった」

 キロランケは静かに語り出した。
 昔の樺太は、日本とロシアどちらの国のものではなかった。それが三十年前、千島を日本領にする代わりに、樺太全島をロシア領にする条約が結ばれた。樺太にいた和人は急遽撤退することになったのだが、漁業で付き合いの深かった南部沿岸に点在して生活している樺太アイヌに、日露どちらの国籍を選択するか決断を求めたのだ。
 移住を決めたアイヌの希望者は八百四十一名。南樺太全域では当時、約二千名の樺太アイヌがいたといわれている。ウイルクの村にいた大半のアイヌも和人の船に乗り、北海道へ移住していった。
 ただ、母親は樺太アイヌであったが父親がポーランド系だったためウイルクは船には乗れず、両親と共に樺太に残ることになった。
 しかし、北海道へ移住した樺太アイヌの間で伝染病が流行り、半数近くが亡くなってしまった。その後、生き残ったアイヌは樺太に帰還したが、自分の村には誰一人戻ってこなかったとウイルクはキロランケに話していた。

「日本とロシアの勝手な都合で翻弄された結果がこれだ。北海道のアイヌもいずれこうなる」

 神妙な面持ちで話を聞いていたアシパに、キロランケはふっと表情を緩めた。

「だが、光はある。ウイルクはその光をお前の中に見ていたんだ」

「じゃあ、どうしてアチャはアイヌを裏切って殺した? 何故アイヌの金塊を奪って、アイヌの私に金塊を託そうとしたんだ!?」

「その答えはこの樺太の旅の中で見つかるはずだ。お前の知らない父親の足跡を辿って行けば必ず……」


 アシパや小夜子、白石が養狐場をいろいろ見ている一方、尾形とキロランケは彼女らから少し離れると静かに言葉を交わす。

「のっぺら坊がウイルクであることは確認した。ウイルクは娘でなければ解けない暗号を残したということは、今アシパの頭の中には暗号を解く鍵があるはず……でいいな?」

 尾形は重要事項について再確認するためキロランケに尋ねれば、小さいながらも確かにこくりと頷いた。

「刺青人皮が全て集められても、あの娘さえこちらの手の中にあれば誰にも金塊は見つけられない。そして、今のうちにその鍵を聞き出しておけばもっと有利になる」

 暗号を解読するためそうキロランケに口添えしたものの、今度はあっさりと首を縦に振ることはしなかった。

「本人は心当たりがないそうだが……」

「思いつかんのか、それとも知らないふりをしているのか……何なら小夜子に頼んでみるか?」

 姉のように慕っている小夜子ならば、あっさりと教えてしまうのではないだろうか。尾形はそう考えたものの、しかしキロランケはまたしても頷くことはなかった。

「いや、無理に聞き出すのはいい手じゃねえ。小夜子が相手でもそう簡単に教えるとは思えない。確かな情報を引き出すには不信感を与えては駄目だ」

 いくら子供とはいえアシパは賢い。小夜子に協力を仰いで聞き出しても、すんなりと教えてくれるとは考えにくい。こちらからは鍵について尋ねることはしてはいけないと釘を刺す。

「この樺太が彼女を成長させれば、アシパの方から俺達に鍵を教えてくれるはずだ」

 * * *

「何だろう、あれ……初めて見る」

 雪の降り積もった森の中で、一頭の獣を発見した。
 一見すると鹿のようであったが、まるで狐のような大きな耳と、鹿にはない牙が露出している姿は鹿ではない。ややずんぐりとした体躯は北海道では見たことのない獣だ。
 それはジャコウジカで、樺太アイヌの間ではオポカイと呼ばれている。牙があるのでオスだとキロランケが付け加えると、尾形が三八式歩兵銃を構えて引き金を引いた。

「ジャコウジカは美味いのか?」

「いや、肉は美味くないし毛皮も弱いから売り物にならねえ。ただ、オスはチンポとヘソの間に『麝香腺』という分泌液を出す部分があってな。こうやって周りの毛皮ごと腹の中にある麝香嚢を切り取るんだ。嗅いでみるか?」

 切り取った麝香嚢をつまんでアシパの顔の前に差し出せば、においを嗅いだ途端、思いきり顔をしかめて叫んだ。

「くっさい!! オシッコとアチャのワキのにおい!!」

 キロランケは尾形にも同じようににおいを嗅がせてみると、口を半開きにして身動きが止まった。

 切り取った麝香嚢は余分な毛を焼いて乾燥させると、中の透明な粘液が黒い粉になる。それは麝香と呼ばれ、漢方として高く売れるのだ。麝香を薄めると、香水として異性を惹きつける効果があるといわれている。

「乾燥させた麝香は強烈なにおいは薄れていい香りになるのよ、アシパちゃん」

「……こんなにくさいのに……?」

 小夜子が麝香について説明を付け加えるが、不快なにおいしか嗅いだことのないアシパは信じられないと顔をしかめた。

「まあ、俺は香水なんぞなくても女が寄ってくるけどな」

「ふぉーう☆ 全身が麝香っ!」

 確かにキロランケは顔立ちも体格も良く、落ち着いた低い声の色男である。香水を使わなくても女性の方から寄ってくるのだとキロランケが胸元を少し開いておどけてみせれば、白石がはやしたてた。

「ジャコウジカは決まった寝床を持たない習性だから、樺太では季節労働者を『ジャコジカ』と呼ぶんだ。アシパの父・ウイルクと俺も、若い頃、樺太を放浪していたから『ジャコジカ』と呼ばれたもんさ」

「アチャが……?」

 自分が生まれる前の父親の話に、アシパはキロランケに大きな青い目を向け、聞き漏らすまいと彼の次の発言を待つ。

「そういや、ウイルクが初めて獲ったのもジャコウジカだったって話してくれたな。その場でホホチリを切り落としたんだと……」

「ホホチリって何だ?」

「聞いてないのか? 小さなガラス玉を繋げた三角の飾りさ。男の子は前髪につける。そして一人で獲物を斃せたら切り取るんだ」

 キロランケが自身の額に人差し指で三角形をなぞると、アシパは小さい頃の朧げな記憶の中から三角形の飾りに関する記憶が蘇った。父親が飾りを取り出すとアシパの額に寄せ、これは自分がつけていたものだと告げた。もう少し大きくなったら狩りに行くので、それまで前髪に結んでおくように言われたのだ。

 ホホチリの特徴を聞いた小夜子は雑記帳に絵を描いてみせた。小さな丸を直線に連ね、三辺を繋げたものだ。それをキロランケに見せれば、まさにそれだと頷いた。

「あ……あれがホホチリか。アチャが私につけてくれた。男がつけるものだったのか。ジャコウジカのおかげで私の知らないアチャに会えた気がする。それに、忘れていたアチャとのことも一つ思い出せた」

 ホホチリを額につけるのは樺太アイヌの風習だったのか。
 父親との思い出が蘇ったアシパは嬉しそうに微笑み、キロランケは静かに頷いた。

「……そうか、良いことだ」

 * * *

 アシパ一行は敷香に到着した。ここまで道案内として樺太アイヌを雇い、犬ぞりのおかげでかなりの距離を移動することが出来た。しかし、引き換えとして手持ちのお金があっという間になくなってしまった。

「クロテンだっけ? また罠使って獲ればいいじゃん」

 イタチに似たカラフトクロテンを捕え、その毛皮を売ると高額で買い取ってくれたことを思い出した白石が提案すると、アシパは緩やかに首を横に振る。

「小川がもう凍ってしまったから、ホイヌは獲れにくくなる」

 ホイヌとはアイヌ語でテンのことである。
 水が嫌いなテンが丸太の上や川岸を通るため、アイヌは罠を仕掛ける。だが、川が凍ってしまうとテンは氷の上を渡るようになるので罠にかからなくなるのだ。
 アシパの説明に、そっかあ、と白石は残念そうに肩を落とした。

 雪が降り積もった森の中を一行は進んでいく。自然に生えている背の高い樹木とは異なる丸太が人為的に組まれ、その上には木の板を組み合わせたものが置かれていた。ちょうど人間が一人入りそうな箱だ。

「何だこれ?」

「それは棺だ。ウイルタ民族の天葬ってやつだな」

 アシパの疑問にキロランケが答えた。
 樺太には大きく分けて三つの少数民族が暮らしている。樺太アイヌ、ウイルタ民族、ニヴフ民族だ。
 樺太アイヌの生活圏は敷香あたりが北限で、これより北はウイルタやニヴフが暮らしている。木の上に棺を乗せて天葬を行うのはウイルタだけである。
 しかし、その文化も次第に消えつつある。その理由は、多くのウイルタが改宗させられ、土葬に変えられてしまった。神様が変われば生活も変わるのだ。

 ──ドォォン!

 キロランケが一通り説明を終えた頃、銃声が響き渡った。尾形が何かを撃ったらしい。

「尾形、何を撃った?」

「エゾシカだ」

「樺太にエゾシカはいねぇよ」

 尾形が撃った獣のところへ向かった。角と蹄は大きく、全体的に褐色だが首の部分の毛は白い。北海道のエゾシカに似ているが、よく見ると異なる獣であった。

「確かにユに似てるけど、こんなの初めて見る」

「トナカイだ」

 トナカイの首には首輪がつけられ、二股に分かれた太い木の棒がさげられていた。これは『ウラーチャーンガイニ』と呼ばれ、トナカイのすねに棒が当たり、痛みで遠くへ逃げないようにするための首輪であるとキロランケが説明してくれた。
 アシパは早速ウラーチャーンガイニを取り外すと白石の首にかけることにした。

「白石の首につけておけばいい」

「勝手に遊郭へ行けなくなるよう、チンポに当たる長さに調節しよう」

 アシパに続いてキロランケも乗り気で、木の棒がちょうど股間の部分に来るよう紐を調節をする。試しに白石が歩いてみれば効果は抜群で、揺れた木の棒が彼の股間を直撃した。

「あだだだっ! チンポガイニィ!」

 痛みで悶絶する白石を、尾形は冷ややかな視線を送る。あの男は何かしらアホな言動をしないと気が済まないのだろうか。

「あれじゃちょっと気の毒だわ」

 内股になり、体を小刻みに震えさせている白石を見て小夜子が苦笑すると、尾形は無言のまま小さく鼻を鳴らした。

「首輪してるってことは誰かが飼ってるトナカイなのかな?」

「近くにウイルタ民族がいるはずだ。彼らは夜に放牧して、日が昇ると飼トナカイを集める」

 キロランケがぐるりと辺りを見渡した時、離れたところで「ホーウ、ホーウ」という声が聞こえてきた。

「あーあ、知ーらない。尾形怒られる♪」

 首輪をしているのに撃つからこうなるんだ、と言わんばかりに白石はふざけるような声音で尾形の顔を覗き込む。

「謝ればいいさ。タバコあげたら喜ぶから」

 一行の中で最も年上で人生経験を積んでいるキロランケは、穏便に済ませる対処法を助言する。

「尾形、一緒に謝ってやるから心配するな」

「そうよ。わざとじゃないんだから正直に謝りましょう」

 アシパと小夜子は素直に謝れば大丈夫だと尾形の味方をする。
 各人の性格や本音がわかるようだ。尾形は無表情で髪を撫でつけながらそう感じずにはいられなかった。


2022/10/04

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