第25話 さらなる北へ


 新月の暗闇が明るくなった。空を見上げればゆっくりと落ちて行く光の球がある。日露戦争でも使われた照明弾だ。やはり網走川を遡上してきた駆逐艦には第七師団が乗り込み、監獄に突入してきたのだ。
 監獄側の人間はもちろん、第七師団とも鉢合わせにならないよう、谷垣は村田銃を、牛山と夏太郎は拳銃を持ち、警戒しながら職員宿舎から正門の方へ向かう。そうやって周囲を警戒する男達の後ろを小夜子とインカマッが歩いている。

「インカマッさん、体は大丈夫ですか?」

「ええ、平気です」

 瓦礫の下敷きになって痛む箇所はないか小夜子が尋ねると、インカマッは問題はないと答えた。瓦礫に押しつぶされて少しばかり痛みはあるものの歩行に支障はなく、骨折している箇所もない。
 暗くて顔色ははっきりしないが、インカマッの立ち姿や表情にも異常は見られないので小夜子は胸を撫で下ろした。

 やがて大きな煉瓦造りの建物──正門が見えてきた。その門扉のそばに大小二つの影が動いたのを確認した。白石とアシパだ。どうやら、杉元とキロランケがのっぺら坊を連れて来るのでここで待つよう指示されたらしい。
 七人で待機しているとキロランケがやって来た。だが、杉元とのっぺら坊の姿は見当たらない。

「杉元は?」

「舎房からは抜け出したが、一人で教誨堂へ行った。『のっぺら坊を連れて来る。アシパに必ず会わせる』と」

 アシパの緊張した問いかけにキロランケがそう答えた。
 舎房の床下にいた杉元を助けた際、キロランケはアシパから預かったマキリを杉元に渡した。それは父親が作り、娘に贈られたもので、見せればのっぺら坊が本当に父親かどうかわかるというアシパの機転によるものだった。
 キロランケは杉元からの伝言を告げたあと、夏太郎には土方と犬童も教誨堂にいるらしいとも告げた。すると夏太郎は助太刀しないとと言って急いで教誨堂の方へ走っていき、彼のあとを牛山が追いかけた。
 杉元と合流したいがためアシパも土方組の二人を追いかけようと足を踏み出したが、キロランケに頭をがっしり掴まれて阻止される。

「お前は行ったら駄目だ」

「でも……」

 アシパがキロランケに捕まっている横で、インカマッは近くの壁にハシゴが設置されているのを見つけた。これを使って屋上にのぼれば、杉元とのっぺら坊を見つけられるかもしれない。

「インカマッ!?」

 突然ハシゴをのぼり始めたインカマッに驚いた谷垣は何をしているのかと質問を投げかけると、彼女は上を見上げたまま答える。

「屋根の雪下ろし用のハシゴです。高いところから見渡せるかもしれません」

 地上にいては杉元とのっぺら坊の所在がわからない。屋根の上からであれば見つけやすいはずだ。そう思い、インカマッは早くも屋根にのぼり、周囲を見渡す。いくつもの照明弾のおかげで明るく照らされ、建物や木がはっきり見える。
 正門の一番近くに建っている建物の向こう側に、二人の人影が見えた。一人は軍帽を被り、もう一人は赤い囚人服を着ている。杉元とのっぺら坊だ。

「アシパちゃん、上に来てください! のっぺら坊と杉元ニパがいます!」

 屋根の上からインカマッの声が聞こえると、アシパはすぐさまハシゴをのぼり始めた。続いてキロランケも屋根の上に向かう。

「とうとうのっぺら坊が見つかったのか……」

「あの顔とご対面、か……」

 谷垣と白石がしみじみと呟いた。
 小樽のコタンを出て何か月も経過した。道中、いろいろな騒動に巻き込まれもしたが無事に目的地の網走監獄まで辿り着き、いよいよ父親と対面するのか。皮を剥ぎ取られた不気味な顔だが、アシパなら決意した瞳で父親の姿をしっかり見据えるだろう。

「これで暗号解読が一気に進みますね」

 金塊の在り処を示す入れ墨を彫った張本人がいるのだ。あとは第七師団に注意しつつのっぺら坊を護衛し、すみやかに監獄から撤退するだけである。
 小夜子の言葉に白石も谷垣も小さく笑った。

 ──シュパァァァ!

 銃声が響き渡った。そのあと、すぐさま二発目の銃声も聞こえてきた。

「な、何だぁ?」

 銃声に驚いた白石がキョロキョロしていると、屋根の上からアシパの絶叫が地上に届いた。杉元の名を叫んでいる。
 小夜子が谷垣と顔を合わせていると、アシパを肩に担いだキロランケが屋根から下りてきた。

「離して! すぐそこにいるんだぞ!」

「駄目だ! 二人を撃った奴が近くにいる!」

 アシパは涙で頬を濡らし、キロランケは暴れるアシパを必死に押え込んでいる。先程とは全く異なる様相とキロランケの言葉に、小夜子は血の気が引いていくのを感じていた。

「何があったんですか、キロランケさん」

「杉元とのっぺら坊が撃たれた。あれはもう助からない」

 不死身の異名を持つ杉元が撃たれて死んだ。
 キロランケから告げられた内容に、小夜子だけではなく白石も青ざめた。

「俺が行ってくる。白石はアシパから離れずに予備の舟で待ってろ」

 もし杉元が死んだという話が本当だとしても、杉元をそのままにはしておけない。谷垣はそう決心すると、村田銃を持ち直して駆け出した。

「谷垣ニパ! 行っちゃ駄目です! あなたも撃たれます!」

 やや遅れて地上に戻ってきたインカマッが慌てて呼び止める。

「杉元には釧路で借りがある」

 だが、谷垣の決意は固かった。釧路でヒグマを穢した濡れ衣を着せられた時、杉元が姉畑支遁を捜索して誤解を解くことに貢献してくれた。あの時の借りを今こそ返す時だ。
 谷垣はインカマッを振り返ることなく、杉元とのっぺら坊の場所へ向かった。

「俺達は一足先に舟に行こう」

 谷垣も言っていたように、いつでも逃げ出せるように舟まで向かおうとキロランケが促すと、

「待ちなさい!」

 インカマッが制止の声を発した。普段の柔らかでおしとやかな雰囲気からは想像出来ないほど、その声には敵愾心が込められていた。彼女がまっすぐ見つめて指差し睨む先にいるのはキロランケだ。

「あなた、さっき屋根の上から──」

「アシパを連れて行け! この女は危険だ!」

 インカマッの言葉を遮り、キロランケは白石と小夜子にアシパを連れて先に行くよう指示を出す。
 小夜子は逡巡した。互いに似た者同士だと意気投合したインカマッのことを、キロランケは危険な女だという。インカマッが何か言いたげな様子であることは明白だが、それ以上に緊迫したキロランケの言葉により逃走を促された。

「ほら小夜子ちゃん、早く!」

 キロランケからアシパを託された白石は、立ち止まった小夜子の手を引いた。

「信じないでアシパちゃん! キロランケはさっき──」

 必死にアシパに向かって叫ぶインカマッの声が次第に遠ざかって行く。
 木々を通り抜けた先には二艘の舟が用意されていた。最初の予定では谷垣と夏太郎が待機していた場所の舟を使う手はずになっていたが、万が一の時を考えてこの場所にも舟を用意していたのだ。

「たぶんこれだぜ、予備の舟って。ここでみんなを待とう」

 白石は、監獄側にも第七師団にも舟が見つかっていないことに胸を撫で下ろす。
 小夜子とアシパも一息ついていると後方からキロランケが走ってきた。だが彼一人だけで、インカマッの姿が見当たらない。

「あれ、インカマッちゃんは?」

「どうして俺達の動きが第七師団に筒抜けだったかわかるだろ? あの女しかいねぇんだぞ、連れて行くわけにはいかん」

 白石の疑問にキロランケが答えた。その表情は厳しく、第七師団と繋がりのあったインカマッはやはり信用出来ない女狐だと言いたげであった。
 確かにインカマッは鶴見中尉と繋がりを持ち、第七師団が網走監獄に乱入する原因となった。しかし、それはアシパとウイルクを助けたいがために選んだ手段であることを小夜子は知っている。

 ふと、白石はキロランケの腰を見て違和感を覚えた。マキリが鞘だけになっているのだ。マキリとは狩猟などに用いられる小型の刃物で、アイヌにとっては欠かすことの出来ない物のはずなのに、何故鞘だけになっているのか。
 森の奥からこちらに向かって来る足音が聞こえてきた。足早に、しかし極力大きな音を立てないようにして姿を現したのは尾形だった。

「舟を出せ、逃げるぞ」

「百之助君!」

 一人だけ網走監獄の敷地外で待機していた尾形の無事がわかると、小夜子は張り詰めた緊張がほどけていく気がした。状況としてはまだまだ気を緩めてはいけないので表情を崩すことはしなかったが、尾形がそばにいるだけで小夜子にとっては心強い存在であった。

「谷垣源次郎は鶴見中尉達に捕まった」

「アチャと杉元は……!?」

 アシパが藁にもすがるような思いで尾形に問う。遠く離れたところから二人が撃たれた様子は目撃したが、まだ死んだとは決まっていない。二人とも頭を射抜かれたが、きっと運よく弾がそれて助かっているはずだ。
 ほんのわずかな希望を胸に抱くアシパの表情を見下ろしながら、尾形は静かにこう告げた。

「近付いて確認したが、二人とも死んでいた」

 アシパは悲痛な叫び声を上げながら倒れ込み、それを白石が咄嗟に受け止める。
 淡々とした尾形の言葉に小夜子も言葉を失い、力なくその場にへたり込んだ。刺青人皮の暗号解読の最重要人物であるウイルクと、今まで幾度も負傷しつつも驚異的な回復力を見せて仲間を守ってきた杉元が死んだなんて。

「早く舟に乗り込むぞ」

 まず一番最初に動いたのはキロランケだった。すぐに出発出来るよう手早く準備を進める。あまりのんびりしていると第七師団に発見されてしまうので、急いで舟に乗って網走を離れなければならない。

「ほ……ほら、アシパちゃん、立って」

「小夜子も舟に乗るんだ」

 白石はアシパを、尾形は小夜子を支えるようにして舟に乗り込む。
 かくして五人は網走を離れ、北の方角へ向けて舟を進めた。


 夜が明け、遠くに海鳥の飛ぶ姿が目に入ってきた。そのままそちらに向かえば港が見え、北海道よりもさらに北の大地が近付いてきた。
 樺太だ。
 これでようやく揺れのない地面に足をつけていられると白石は内心喜んだ。

「この地で乗り換えるぞ。しっかりしろ、元気を出すんだ」

 尾形は後ろを振り返り、アシパを見た。ウイルクと杉元を失った彼女は意気消沈し、網走を出てから一言も喋っていなかった。
 その隣には小夜子が座り、アシパの肩を抱き寄せるようにして小さな体を支えている。小夜子の表情も暗く、無言のアシパを心配そうに見つめている。

「行こう、アシパ」

 尾形がさらにもう一言告げれば、アシパはようやく顔を上げた。
 動きたい気分ではないが、ここでじっとしていても埒が明かないことはアシパもわかっている。足に力を入れて立ち上がり、まずは樺太の地を踏みしめた。

 穏やかな海にはたくさんの舟が浮かび、海鳥の鳴き声が心地良く耳に入ってくる。
 潮風が緩やかに肌を撫ぜる感触を感じつつ、小夜子は近くの丸太にアシパを座らせた。網走監獄での出来事に加え、ずっと海の上にいたのだ。しばらく休息させてあげたい。
 白石も一緒についてきて座り込むと、舟の上では聞けなかった疑問をアシパに投げかけた。

「なあ、アシパちゃん……誰が杉元達を撃ったのか門の上から見えたのかい?」

 アシパが力なくふるふると首を横に振ったのを見た白石は、離れた場所にいる尾形とキロランケをちらりと見る。白石の視線の先にいる人物を察知した小夜子も、そちらへ視線を送った。
 杉元とウイルクの頭を確実に撃ち抜けるほどの手練れの狙撃手について、白石も小夜子もただ一人しか知らない。仮にその予想が当たっていたとしても、二人を殺す必要はないはずだ。
 今は同行する仲間を疑っている場合ではないか、と白石は小さく息をついて視線を戻すと、小夜子がこちらを見つめていることに気付く。その表情は不安や困惑などの感情が入り乱れ、やや青ざめているようにも見える。
 杉元や白石から見れば尾形は心の内が読めないコウモリ野郎であっても、小夜子にとっては幼馴染みであり、きっと恋人でもある。そんな相手がまさか旅の仲間とアシパの父親を撃ち殺したのだと思うと、平常心でいられるわけがない。

「……白石、さん」

 小夜子の声はわずかに震えている。網走を出てからずっとアシパを気にかけていたことで気付かないふりが出来ていたが、陸に上がってアシパが落ち着き、白石の言葉と視線の動きによって目を反らしていた疑問が浮上したのだ。
 だが、白石は杉元とウイルクを撃った人物についての疑問に対する答えを先送りすることにした。今は疑心暗鬼になるより、協力し合って旅を続けるべきだ。

「ほ、ほらっ、そろそろお腹空かない? 喉も渇いたしビールでも飲みてえなぁ」

 へらへら笑ってお腹をさすってみれば、小夜子は一瞬きょとんとした表情を見せたのち苦笑した。

「もう……アルコールで喉を潤しちゃ駄目ですよ」

「えぇ〜、だめぇ?」

 ここで猜疑心を抱いたり意気消沈していてはいけない。こうなった以上、アシパを守り、彼女を北海道へ帰さなければ。それに、どんな結末になっても尾形と共に生きることを決めたのだ。
 決意を思い起こさせてくれた白石に、小夜子は心の中で感謝した。


「杉元まで撃つ必要があったのか?」

 一方、小夜子達と離れた場所にいるキロランケと尾形は静かに言葉を交わしていた。樺太に来る前から二人は結託し、アシパを樺太へ連れて行く計画を立てていたのだ。

「のっぺら坊が父親だと確認された直後に、杉元が何か言葉を交わした。金塊の在り処か、アシパしか知らない暗号を解く鍵か、あるいはアンタのことか……」

 見張り櫓の上から杉元達に照準を合わせた当時の光景を尾形は思い出す。二人は確かに何かを話していた。あまり長い時間ではなかったが、重要な情報を杉元に伝えていた可能性もある。だから尾形は予定にはなかった杉元への射撃を行った。

「ただ、杉元は撃たれる瞬間、咄嗟にのっぺら坊を盾にして体の中心を隠した。だから頭の端を引っかけるように撃ち抜くしかなかった。もう数発撃ち込んでおこうと思ったが、マタギの邪魔が入ってな」

 のっぺら坊が撃たれたあと、瞬時に盾として使ったのは戦争の経験によるものだ。気に入らない男だが、戦いの経験や強運さに関してはさすがとしか言いようがない。

「おまけに弾薬は三十年式の『不殺銃弾』だ。ひょっとしたら生きているかもしれんぞ。アシパも奪われて今頃、不死身の杉元は怒り狂ってるかもな」

 尾形は口の端を吊り上げるとキロランケに背中を向けた。『不死身』の二つ名をあなどってはいけない。あの男がそう簡単に死ぬわけなどないのだから。


2021/07/22

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