第24話 川岸
やがて網走監獄の塀の外から掘り続けた穴は、看守部長である門倉の宿舎と繋がった。門倉の父親は土方と共に戦った旧幕府軍で、息子である門倉も土方に協力するため、今回杉元達を手引きしたわけである。
網走監獄典獄・犬童四郎助によって、のっぺら坊は毎日独房を移動させられている。だが、門倉にはどこの監房へ移動させられるのか正確にわかるという。
監獄に侵入する日は新月と決まった。その日にのっぺら坊が移されるのは、第四舎第六六房だ。
次の新月になるまで、各自監獄を警戒しつつ作戦決行まで待つことになった。
杉元とアシ
リパは土方に買ってもらった双眼鏡で毎日監獄を見張り、
谷垣はアイヌ服に身を包んでチカパシと共に鮭の漁場へと向かい、
門倉はこれまでどおり無能な看守部長を演じ続け、
家永は若者の瑞々しい肉体を求めて夏太郎を捕らえ、
それを発見した牛山はまたかと呆れながらも家永をたしなめ、
尾形は木の上で監獄内を警戒し、
キロランケと小夜子は漁で獲った鮭の処理を行った。
「インカ
ラマッちゃんはさぁ、のっぺら坊はどっちなのか占ったことあるの?」
各々が決行日までを待つ間、白石はチセにいるインカ
ラマッに占いを頼むことにした。
網走監獄にいるのっぺら坊は、果たしてアシ
リパの父親なのか、偽者なのか。旅の間、ずっと考えていたことを思い切ってインカ
ラマッに尋ねた。
「何度もやりました」
「何度もやっちゃったんだ……」
「ずっと出ていたのが『いいえ』……つまり、のっぺら坊はアシ
リパちゃんの父親ではないとで出ていたのですが、最近はどんどん『はい』が追い上げています」
「今んとこどっちが優勢?」
「この間やったのでちょうど……千回中、五百回目の『はい』が出ました」
「じゃあ最後にもう一回占ってくれる?」
白石に頼まれたインカ
ラマッは、シラッキカムイの下顎の骨を頭の上に置き、ゆっくりと頭を下げる。
小さな白い骨が、静かに落ちていく。
占いの結果は現在、綺麗に二分されている。もしこの千一回目の占いで結果が出てしまえば──
そこまで思い浮かべた白石は、顎の骨が落下する直前に咄嗟に右手を差し出して受け止めた。
「白石さん?」
占いの結果を求めるということは迷いがあるからだ。一行は既に網走監獄に辿り着き、決行日に備えて準備を進めている。ここで結果が出てしまえば迷いは確かなものになる。
「やっぱやめよう……迷いはいらねぇ。俺達は確かめに行くだけだ」
白石はインカ
ラマッと初めて出会った頃、アシ
リパが占いについて語っていたことを思い出した。「占いというのは判断に迷った時に必要なものだ。私達のこの旅に迷いなんかない」と。
当時は競馬に夢中で占いに熱を上げていたが、今なら当時のアシ
リパの言葉がよくわかるな、と白石は心の中で呟いた。
* * *
新月の夜が訪れた。
大人数で監獄へ乗り込むわけにはいかないので、数人ごとに組み分けることとなった。その人数や役割は次のとおりである。
小夜子、インカ
ラマッ、チカパシ、永倉、家永はコタンで待機。
尾形は山に隠れ、何かあれば狙撃で援護。
谷垣と夏太郎は監獄側の川岸に用意した逃走用の丸木舟で待機。
キロランケ、牛山、土方は門倉の宿舎で待機。
杉元とアシ
リパと白石は囚人達のいる舎房へ侵入。
そして──監獄の敷地内はどこも消灯され、相手が目視出来ないほどの真っ暗闇となっている。その暗闇を突っ切り、舎房へ近付く役割は都丹庵士だ。
コタンで待機といっても、のんきに過ごしているわけにもいかない。小夜子は薬箱を開け、もしも負傷者が出た時のために薬草や手荷物に不足はないか今一度確認を行った。
作戦決行までにコタン周辺で薬草を採取していたし、道具の手入れも怠らなかった。あとは負傷者が出なければ良い。
そんなことを考えてながらふとチセの中を見渡した。アシ
リパの親戚以外にいるのは、何やら話し込んでいる家永と永倉だけ。チカパシは外に繋いでいるリュウのところへ行っており、インカ
ラマッの姿だけが見当たらない。
そういえば、インカ
ラマッはアシ
リパの父親に恋心を抱いていた。その本人がすぐ目の前で捕えられているかもしれないのだ。再会したい気持ちが大きく働いて単身乗り込んでしまうのではないか。
そんなまさかと一度は否定したものの、万が一ということもある。小夜子は薬箱を持つと、チセの外にいるチカパシのところへ向かった。彼はおやすみ前の挨拶ついでに少し遊んでいる。
「チカパシ君、インカ
ラマッさん見なかった?」
「んー……少し前に用足しに出たけど、まだ戻ってきてないよ」
夜遅い時間で、まだ幼いチカパシは少し眠そうな声で答えてくれた。周りの大人達が監獄潜入作戦を進めている中、自分だけ寝るわけにもいかないと思ったのかもしれない。リュウと遊んで眠気を堪えている節がある。
「そう……ちょっとこの近く探してくるから、チカパシ君は先に寝てなさい。リュウ、何かあったらこの子を頼むわね」
潜入作戦はすぐには終わらないので、無理に起きている必要はない。チカパシに就寝するように言えば、彼は眠い目をこすりながら頷いた。
また、チカパシの相棒としていつも一緒にいるリュウを撫でると、「任せろ」とでも言うかのような黒い瞳で小夜子を見上げた。人間の言葉を完全に理解しているわけはないのに、何とも頼もしい相棒だろう。
チセに戻るチカパシを見送ったのち、小夜子は川へ向かった。のっぺら坊との再会が目的ならば丸太舟に乗るしかない。間に合って、と念じながら足早に川へ向かえば、暗闇で動く影が視界に入る。改めて目をこらせば、今まさに丸太舟に乗り込もうとしているインカ
ラマッだった。
「インカ
ラマッさん」
「っ……小夜子さん?」
呼びかけられてビクリと一瞬硬直したインカ
ラマッであったが、声の主が小夜子だとわかると安堵の息を漏らす。
「今から監獄へ行くんですか?」
「はい」
「アシ
リパちゃんのお父さんに会いに、ですか?」
「確かに、ウイルクと再会出来る期待があります。ですが、愛しい人に会いたいというものではありません」
きっと小夜子は監獄に向かう自分を引き留めにきたのだろう。そう察したインカ
ラマッは思っていることを正直に話すことにした。
インカ
ラマッはウイルクと別れる際、『北海道の東で私は死ぬ』という占いが出たという。それが先日、盲目の盗賊に襲われて屈斜路湖で溺れたあの時だ。やはり占いのとおりに死ぬ運命にあると感じ、抗うことなく受け入れようとした時、谷垣がその占いを覆したのである。
運命は変えられる──そう思い直した。
そしてここ網走監獄ではウイルクに再会出来る期待がある。だが、それは愛しい人に会いたいというものではなく、過去に囚われて旅をしていた自分にケリをつけたいからである。
「私は谷垣ニ
シパと未来へ進みたいと思っています。……正直、金塊なんてどうでもいいんです」
最初は谷垣を利用するために近付き、家族のふりをして旅を続けてきた。アシ
リパを追うための割り切った関係だったが次第に谷垣に惹かれ、今は占いの結果を覆した彼を愛している。
止めても無駄ですよ、とインカ
ラマッは切れ長の目で小夜子を見据える。アイヌとしてではなく、一人の女として愛する男を選ぶのだ。
「もしかしたら監獄に乗り込むんじゃないかと思っていましたが、そのつもりはなさそうで安心しました」
そういうことなら手を貸します、と小夜子は丸太舟に乗り移る。
てっきり反対されて村に連れ戻されると思っていたインカ
ラマッは小夜子の言動に呆気に取られて面食らい、一瞬言葉を失う。
「え……いいんですか? 私、作戦や金塊よりも谷垣ニ
シパを優先しようとしているんですよ?」
「好きな人の安全を願うのは当たり前です」
「あ、あのそれに……鶴見中尉とも繋がっていたんですよ?」
インカ
ラマッの口から鶴見中尉という言葉が出ると、小夜子は一瞬だけ表情が硬くなった。温泉旅館で尾形から聞いた名前で、実父である花沢中将の自刃を装う手引きをした者だ。
日露戦争を生き残った第七師団の情報将校であり、金塊争奪戦で最も警戒すべき相手。そのような者と通じていたことに小夜子は驚くが、谷垣の身を案じているインカ
ラマッの気持ちに嘘はないはずだ。
「とにかく、今は過ぎたことをあれこれ言うつもりはありません。塀の外までなら大丈夫でしょうし、一緒に行きますよ」
自分の気持ちや考えを交わし合った二人は改めて似た者同士だと笑い合い、丸太舟に乗って対岸の網走監獄へと向かった。
* * *
突如、カンカンカンという鐘の音が響き渡った。吹き付ける風にかき消されることなく、警鐘を打ち鳴らす音は続く。潜入した杉元達が見つかったものと思われるが、幸いにも塀の外にまで看守が駆けつけることはなかった。
川の対岸に辿り着いた小夜子とインカ
ラマッは騒がしくなった監獄内に意識を向けつつ、ランタンに灯りをともして谷垣と夏太郎の待機する場所に向かう。
「インカ
ラマッ!? それに鳴海さんもどうしてここに?」
村で待機しているはずの二人が何故川を渡って来たのだろう、と困惑する谷垣の腕をインカ
ラマッが掴み、この場から立ち去るよう引っ張る。
「谷垣ニ
シパ、今すぐここから逃げて下さい。ここにいたら巻き込まれてしまう」
鳴り響く警鐘に緊張しつつ、インカ
ラマッは谷垣の腕を掴む。これからどんな状況になるのかを知っている身としては、すぐにでも想い人の安全を優先させたいのだが、事情を知らない谷垣は困惑し、この場を動こうとはしなかった。
「逃げる? 何を言っているんだ? どうしてここに来たかは知らんが、今すぐ鳴海さんと村に戻るんだ」
「そうですよ。ここは危ないですって」
谷垣だけでなく夏太郎も村に戻るよう促してくるが、インカ
ラマッはもちろん小夜子も従うことはなかった。
ふと、小夜子の視界の端に灯りが灯る。そちらに視線を向ければ、対岸の川沿いに松明と思われる灯りが川下から川上へと灯るのが見えた。
自分達の作戦の中には対岸に灯りを灯すというものはない。では、これはおそらくインカ
ラマッが情報を流していた相手が到着したものと思われる。
「谷垣ニ
シパから小樽へ偽名の電報が届くと、私は彼らに教えていました」
「……インカ
ラマッ、お前、何を……」
──ドン! ドドン!
突然、けたたましい爆発音が複数聞こえてきた。それは網走川にかかる対岸を繋ぐ唯一の橋が等間隔で爆破された音で、轟音と振動が小夜子達のいる場所にまで届く。
橋が破壊されて煙がおさまると、数隻の小型の艦艇が下流の方から遡上して来た。
駆逐艦だ。吃水(船体が沈む深さ)が1.5mしかないため河川でも航行可能である。対岸に等間隔で灯っている灯りは松明で、駆逐艦の誘導灯の役割を担っていた。
網走監獄まで来たということは第七師団だろう。駆逐艦を利用しているということは、海軍と手を組んだのだろうか。
谷垣は急転する状況に飲み込まれないよう、インカ
ラマッの言葉と現状を照らし合わせ、『彼ら』について問いただす。
「今日までずっと鶴見中尉と内通していたということか、インカ
ラマッ!」
「杉元さん達は失敗しました。こうなった今、のっぺら坊とアシ
リパちゃんを無事にここから連れ出せるのは鶴見中尉だけです」
「でも、そしたらアイヌの金塊は第七師団に渡るが、お前はそれでいいのか?」
「金塊なんて誰が手に入れようが、私にも谷垣ニ
シパにも関係のない話でしょう」
インカ
ラマッにとって最も優先すべきはウイルク、アシ
リパ、そして谷垣の身の安全であるという。それが叶うならば、杉元や土方達を囮にして第七師団を呼びよせる手段も講じていたのか。
一見おしとやかで協力的な姿勢を見せていたインカ
ラマッが、実は金塊などどうでも良いと言いきったことに谷垣は動揺を隠しきれなかった。
(女というのは恐ろしい……)
かつて軍人からマタギの魂を取り戻すきっかけとなった悪夢の熊撃ち・二瓶鉄造の言葉を思い出した。
「おい、でかいのが来たぞ!」
夏太郎が川下──爆破された橋の方を凝視する。小夜子達もそちらを見れば、遡上してきた駆逐艦が近くまで接近し、兵装である40口径7.6cm砲一門と、40口径5.7cm砲五門のうち三門を網走監獄へ向けている。
つまり、砲撃で監獄の壁を破壊して内部に侵入しようとしていた。
「トンネルに逃げろ! 急げ!」
谷垣はすぐさまトンネルに逃げ込むため、小夜子達をクチャに押し込む。ここにいれば砲撃の巻き添えになり、怪我だけでは済まない。
駆逐艦から撃ての号令が発せられた直後、砲撃が監獄の壁に着弾し、煉瓦が崩れ落ちる。その一部がクチャに直撃し、同時にトンネル入口付近が崩落した。
轟く砲撃と崩落の衝撃を背中に感じつつ、小夜子達は急いでトンネル内を走り、出口となっている門倉の宿舎を目指した。ところが宿舎は砲撃を受けて落下した煉瓦で半壊しており、すんなりと脱出することは出来なかった。
「崩れるぞ、外に出ろ!」
夏太郎は崩れかけた戸に駆け寄り、人ひとりが通れる程度の隙間を確保するため瓦礫を取り除く。少しでも力になればと小夜子も夏太郎と一緒に瓦礫を除去する。
そうしている間にも宿舎の崩壊は止まらず、近くでまたしても崩れ落ちた。
「インカ
ラマッ、どこだ!?」
谷垣がインカ
ラマッの姿が見えないことに気付いた。つい先ほどまでいたはずなのに、と焦って周囲を見回す。
「谷垣ニ
シパ……」
弱々しい声が聞こえてそちらを見れば、崩落した瓦礫の下敷きになっているインカ
ラマッを発見した。そこに追い打ちをかけるかのように天井がへこみ、煉瓦の塊が落ちてくる。
「逃げてください!」
このままでは谷垣も巻き添えになってしまう。動けない自分を助けるために、彼を犠牲にしてはいけない。
インカ
ラマッはすぐさま逃げるよう叫ぶが、谷垣は素直に引き下がることはしなかった。
「こんなところで死なせない!」
谷垣はインカ
ラマッの上に横たわる瓦礫に手をかけ、持ち上げる。歯を食いしばって力むと胸のボタンが弾け飛び、インカ
ラマッのちょうど眉間にペチンと張り付いた。
血管が浮き出るほどの力を込めて瓦礫を持ち上げると、少しだけ隙間が出来た。インカ
ラマッはすぐさま瓦礫の下から抜け出す。
崩れかけた戸から脱した小夜子と夏太郎が後ろを振り向くと、落下した煉瓦の衝撃と重量により屋根が崩れ落ちた。谷垣はインカ
ラマッを支えて脱出しようとするが屋根の崩壊する方が速く、今度は二人で瓦礫の下敷きになる──と思ったが、背広の巨体によりそれは防がれた。
「牛山!」
まさか牛山が助けに来てくれるとは思ってもいなかった谷垣は、驚いて目を丸くする。
「早くどきな」
牛山の一助により、谷垣とインカ
ラマッは瓦礫の下から抜け出すことが出来た。
しかし、いくら牛山が怪力で頑丈とはいえ、家屋の瓦礫に加えて煉瓦の塊の重量を支えている彼の顔には脂汗が浮かんでいる。
「牛山さん、あなたも早くこっちへ!」
「お前ら……幸せになるんだぜ」
普段は強面の牛山が穏やかに笑った。夕食時にはまだ微妙な関係であった谷垣とインカ
ラマッであったが、やはり二人の間には確実な絆があるようだと察し、牛山なりの祝いの言葉を贈った。
「そんな……牛山さん!」
すぐに助けに行こうとした夏太郎を谷垣が止めた。ここで近寄っては夏太郎までもが犠牲になってしまう。
青ざめた顔の夏太郎の目の前で、重い音を響かせながら瓦礫が崩れ落ちた。誰もが牛山が生き埋めになってしまったと思ったものの、その絶望感はすぐさま打ち消されることとなった。
「どっこいしょ!」
瓦礫を屋根ごと投げ飛ばすかのように、怪力を駆使した牛山の巨体が再び現れた。背広についた汚れをパンパンと払いのける。
「ふう、背広が汚れたぜ」
涼しい顔で背広の汚れを落とす牛山を見て、谷垣とインカ
ラマッは開いた口がふさがらなかった。あの場面で幸せになれと言われたら牛山の犠牲を覚悟したのに、彼は難なく瓦礫を投げ飛ばしたのだから無理もない。
「『不敗』の通り名は伊達じゃありませんね」
「牛山さんすげー!」
谷垣とインカ
ラマッを瓦礫の崩落から救い、自身も瓦礫の下から生還した牛山を小夜子は安心感の笑みを浮かべ、夏太郎は称賛した。
2021/07/07
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