第16話 小さな助っ人


 谷垣が捕まった一日目は、姉畑に繋がる手がかりは見つからなかった。早くも日没時間を迎え、姉畑捜索に向かった杉元、アシパ、小夜子は野宿をすることにした。
 食事を終えて簡易的な囲炉裏を囲んでいると、アシパがカムイと人間の結婚話について語り出す。

「カムイと人間が結婚するウエペケレはたくさんある」

 狼や熊と結婚した男の話や、カッコウと結婚した男の話はカムイと子供まで作っているとアシパが言うと、杉元と小夜子も似た話があると顔を見合わせる。

「和人の昔話にも同じようなやつがあるよね、小夜子さん」

「ええ、『鶴女房』ですよね」

 鶴女房とは、猟師の罠に引っかかった鶴を助けた男のもとに、一人の若い娘が訪れて共に暮らし始める話だ。女は生活の足しになるようにときらびやかな機織りを始め、その間は絶対に覗くなと告げていたが、男はその言いつけを破ってしまう。実は女は罠から助けた鶴で、正体を見られた鶴は途端に逃げていくという内容だ。

「どの話も動物と結婚する時は必ず人間に変身した姿で結婚する。やっぱり動物と結婚するのはいけないことだとみんなわかっているからだ。カムイはカムイ、人間は人間とウコチャヌしなきゃいけないんだ」

 他にも、悪い狐が悪知恵で人間と結婚しようとして正体が判明し殺される話もあるという。カムイと人間が良くない方法でウコチャヌしようとすると罰を受けるというわけだ。
 言い伝えのことを話していると襲いくる眠気には勝てず、アシパは早々に眠ってしまった。

 杉元と小夜子は焚き火を見つめる。聞こえるのはアシパの寝息と、薪として燃やしている木の枝がパチンとはぜる音だけ。
 しばらく二人は焚き火を見つめていた。
 心地よい静けさに心が穏やかになるようだと小夜子がぼんやり考えていると、杉元が小夜子の様子を伺うように話しかけてきた。

「なあ、小夜子さん……尾形の奴さ、谷垣のこと誤解してたんだ」

「え?」

 突然杉元の口から尾形の名前が出て小夜子は驚いた。相性が悪く嫌っている尾形のことを言い出すなんてどうしたんだろうと小夜子は杉元の言葉の続きを待つ。

「あいつ、第七師団を抜け出してきてるだろ? だから谷垣のことを追跡者だと思っていたらしいんだ」

 杉元としては尾形の肩を持つような感覚がして言おうか言うまいか迷ったが、小夜子のために打ち明けることにした。
 アシパの姉のような人物で、薬や毒にもなる植物に詳しい元医者の薬売り。怪我をすれば的確な処置を施し、食事の準備や後片付けも率先して行う働き者。
 悪い印象が見当たらない小夜子がどうやってあのコウモリ野郎と親しくなったのかが不思議でたまらないが、幼馴染みの関係に亀裂が入ったままでは彼女がかわいそうである。この助言は小夜子のためであり、決して尾形のためを思っているのではない。杉元は心の中で何度も繰り返した。

「そう……なんですか?」

 あんなに敵愾心を露わにしていたのは、谷垣のことを脱走兵となった己を捕えにきたのだと思っていたからだという。よく考えれば警戒心の強い尾形ならばありえることなのに、どうしてそれに気付かなかったのだろう。
 真相を知った小夜子の眉尻が徐々に下がっていった。

「どうしましょう……私ったら一方的に怒っちゃって……」

 尾形には尾形の事情があったのに、それを考慮せず表面的な態度だけを見て勝手に怒ってしまったことを後悔した。
 小夜子に事情を話さなかったのは言いたくなかったからなのか、それとも言うのが面倒だったのか。どちらにせよ、コタンに戻ったら尾形に謝らなければいけない。

「とりあえず、今は姉畑支遁を見つけて谷垣を助けよう」

 尾形に悪いことをしたとあたふたする小夜子は、杉元の言葉で少し落ち着きを取り戻した。
 そうだ、まずは谷垣を救出するために姉畑を捜すことに集中しなければいけない。そのためにも今夜は就寝して、明朝は早く起きて捜索を再開することにした。
 就寝間際、草をかきわける音が聞こえた気がしたが特に獣の襲撃もなく、無事に朝を迎えた。

 二日目は雨で、夕方まで降り続いた。三人は一日中歩き続けたが姉畑支遁どころか、彼の足跡すら見つけられずに早くも三日目を迎えた。

「やばいぞ……最終日なのにまったく見つけられねぇ……」

 姉畑がヒグマ相手に銃を使ってくれたら銃声でおおよその位置が掴めるかもしれないのに、と杉元がわずかな期待を込めて呟くが、そう簡単に望みどおりの出来事が起こるわけがない。

「姉畑さんは学者です。銃を使うより動物の習性を利用する方が確実なのでしょう。銃声で動物は逃げて近寄らなくなりますから」

 動物に近寄りたいのであれば銃は極力使わないはずだと小夜子が言うと、杉元は納得する。

「そうだよなぁ……ひとまずコタンに戻って谷垣を逃がして時間稼ぎをするしかないな」

「谷垣は尾形が助けてくれる」

「あんなの一番信じちゃ駄目な奴だよ……」

 アシパは尾形を信じているようだが、杉元はどう考えても信用できない相手なので渋い顔になる。
 そんな杉元の近くでガサガサと物音がした。生い茂る草の葉先が蠢き、だんだん杉元達の方へ近付いてくる。

「まただ……ずっと俺達をつけてる奴だ」

 杉元が小銃を構えて物音がする方へ銃口を向ける。
 やがて姿を現したのは一頭の犬だった。柴犬のような薄茶色の巻いた尻尾だが柴犬ではなく、口を開けて垂らしている舌はまだら模様。首輪をしているので野良でもない、とそこまで考えて杉元は思い出した。

「リュウだ!」

 悪夢の熊撃ち・二瓶鉄造の猟犬が何故ここにいるのだろう。谷垣達と一緒に小樽から来たのだろうか。だが、それならチカパシが何か言うはずだ。

「もしかしてリュウ、お前まさか……谷垣が持って行った二瓶の忘れ形見をずっと追いかけて……」

 ハッとして杉元は口元を手で覆う。
 二瓶に忠実だった猟犬は主人を失い、唯一残された村田銃を追って北海道をあちこち彷徨って釧路に辿り着いたのではないかと思うと目頭が熱くなってきた。何と主人思いの忠犬なのだろう。

「リュウお前、何て健気なイ痛デデデデッ!」

 感激した杉元が手を差し出すと、リュウは容赦なく唸り声をあげながら噛みついた。杉元は二瓶と敵対したので、リュウも杉元を主人の仇だとしっかり覚えていたのだ。

「痛ぇなクソ犬! あっち行けよ!」

「あらら……杉元さん、お手柔らかにお願いしますね」

 杉元は噛みつかれた痛みで反射的にリュウを叩き、小夜子は叩かれて杉元から離れたリュウをそっと撫でてなだめた。小夜子とは初対面であり敵対した経験もないため噛みつくこともなく、リュウは目を細めておとなしく撫でられる感覚を味わう。
 態度がまったく異なるリュウに杉元は歯ぎしりをするが小夜子が隣にいるので怒鳴ることも出来ず、矛先を収めるしかない。

「待て、杉元。リュウが姉畑を見つけてくれるはずだ!」

 リュウは優秀な猟犬だ。においを追ってもらえれば姉畑を捜し出せるかもしれない。そう考えたアシパは首輪に紐を繋いで先頭を歩き始めた。
 向かった先は、最初に杉元とアシパが若いオス鹿の死骸を見つけた場所だ。
 リュウは二瓶の銃を追えるわけではなく、二瓶の銃を持った谷垣のにおいを追って来たのだ。自分が知っている姉畑の痕跡はここだけなのでやって来た。ただ、雨が降ってしまったのでにおいが残っているかどうかは不明だ。

「間に合うか厳しいな……」

 残り時間は既に半日を切っている。人間にはわからないにおいを追うことが出来るリュウが加わったとはいえ、少ない時間で姉畑まで辿り着けるのだろうか。

「ぎりぎりまで粘ってみよう。いざとなったら尾形が……」

「……アシパさん、もし俺が谷垣みたいな状況になったら、尾形にだけは託さないでくれよ?」

 尾形の幼馴染みで親しく接している小夜子には悪いが、やはりあの男を信用することが出来ない。
 すると、アシパは杉元を見上げてまっすぐ見据えた。

「杉元に何かあったら、私が必ず助ける」

「ほんとにぃ? 頼むぜ、アシパさん」

「信じろ杉元。何があろうと私は──」

 地面のにおいをかぎ続けていたリュウが突然動き出した。同時に紐を持っているアシパが引きずられていく。

「おお? リュウが何かに反応したようだぜ!」

「もしかして姉畑さんのにおいがあったのかしら?」

 杉元と小夜子は顔を見合わせると、すぐにリュウのあとを追いかけた。

 * * *

 同じ頃、コタンではキラウが二つの大きい椀に食べ物をよそっていた。プで待機している尾形と、檻に捕えている谷垣に届けるものだ。
 他の男に尾形と谷垣の見張りを頼んでいたのだが、さぼって眠りこけていた。

「おい寝るな。ちゃんと見張ってろ」

 食事を運ぶ途中、キラウは横になって寝ている男に一蹴り入れたあと、プに向かう。

「おい食え、兵隊さん」

 キラウが食事を差し出したが反応がない。
 フードを目深にかぶって外套で体全体を覆い、小銃も布にくるんでじっとしている。まったく動く様子がないことを奇妙に思って外套を掴んで引っ張れば、中に尾形はいなかった。重しを入れた編みかごを、座った人間の形になるよういくつか組み合わせていたのだ。次いで子熊の檻を見やれば、捕えていた谷垣もいなくなっていた。
 尾形と谷垣は、いつの間にか逃げ出していた。

 * * *

 コタンを離れた尾形と谷垣は湿原に向かって走っていた。湿地で足元が安定しないので走りづらく、二人とも少しばかり息が上がっている。

「杉元達を信じて待っても良かったのに……」

「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」

「逃げれば罪を認めるようなものだ」

「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」

 尾形がそう言うと谷垣は閉口した。確かに、あまり時間が経てば村人の監視の目も厳しくなる。

「ところで、鳴海さんと知り合いだったのか?」

「……幼馴染みだ」

 尾形と小夜子に再会した際、小夜子は尾形と親しいようだった。ずっと気になっていたことを谷垣が尋ねれば、尾形は少し黙り込んで返答した。単に知り合いだと頷けば良かったが、彼女との関係を追加で尋ねられるのも面倒だ。そう思い至った尾形が幼馴染みだと短く言えば、谷垣はそれ以上の質問をしてくることはなかった。
 二人はひとまず杉元達と合流するため、湿原を走ることに専念した。

 * * *

「見てみろ杉元。リュウがいいもの見つけたぞ!」

「嬉しそうだね、ウンコかい?」

「ウンコじゃないぞ、見てみろ!」

「ウンコじゃない? どうしたの?」

「ヒグマのウンコだ!」

「ウンコじゃん! ウンコじゃん!」

「ウンコだ杉元……ウンコだ」

 リュウに引っ張られながらついて行った先で見つけたのはヒグマの糞だった。
 杉元とアシパがとても楽しそうにはしゃぐ一方、小夜子はやや困惑しながらも笑みを浮かべる。父親が亡くなってからめっきり笑顔が減ったと聞いていたアシパが、こんなに喜んで表情をころころ変化させている。杉元と一緒にいるのが本当に楽しいのだろう。

 ひとしきり騒いだあと、アシパは普段の調子を取り戻した。
 おそらく今朝排泄された糞だという。誰かが糞の上で暴れまわった跡があるので姉畑支遁で間違いないだろう。
 飲まず食わずで冬ごもりしていたい春のヒグマより、たくさん食べて体力を取り戻した夏のヒグマはとても強い。馬の首も一撃でへし折ってしまうほどのヒグマから姉畑支遁を守らないといけないのだと思うと、杉元は短いため息をつく。

「何て無謀な馬鹿野郎だ。ヒグマとなんてヤレるわけがない……絶対に不可能だ!」

「アフッ! アフッ!」

 ずっとにおいを嗅いでいたリュウが走り出した。力強く反応しているので、これは姉畑を見つけたのではないか。杉元と小夜子は姉畑であってくれと願いつつ、リュウを追う。
 草むらをかき分けてリュウが目指したその先には、大きな一頭のヒグマが眼鏡をかけた男にのしかかっていた。
 姉畑支遁だ。彼の手には村田銃が握られている。それを取り返さんとばかりにリュウは躊躇うことなく一直線にスリングめがけて噛みついてくわえるが、姉畑も簡単には手放さなかった。

「リュウ離れろ! 矢に当たる!」

 ヒグマと対峙し、リュウが村田銃を取り返そうとするので振り払おうとするが上手くいかない。アシパはヒグマに矢先を向けるが、姉畑とリュウが動き回るので射ることが出来ない。

 ──ズドンッ!

 咄嗟のことで姉畑は発砲してしまい、ヒグマを射るため弓矢を構えていたアシパのこめかみを村田銃の弾がかすめる。その拍子に矢をつがえていた右手が放れ、矢がどこかへ飛んでいってしまい、湿地特有の不安定な足場に体勢を崩したアシパはすぐ横の池に落ちた。彼女を助けようと手を伸ばした杉元も池に落ちてしまった。

「ぶはっ……深いぞ、この池」

「ヤチマナコだ!」

 湿原の泥炭の下には無数の川が流れており、水の動きで泥炭が剥がれ落ち、穴が開いて水面をのぞかせる。小さな水面の下は壺型に3〜4mも深くなっているところもあり、夏は水草類で水面が隠れるため『湿原の落とし穴』とも呼ばれる。それがヤチマナコ(谷地眼)だ。

「アシパちゃん! 杉元さん!」

 小夜子は二人を助けたいが、不用意に近付くと自分もヤチマナコに落ちてしまう。
 何とか先に杉元が自力で這い上がってきた。ヒグマを見れば、姉畑はいつの間にかズボンを脱いでヒグマの腹にしがみついている。

「あいつ、いつの間にか下半身脱いでる! 何であんな馬鹿をヒグマから必死に守らなきゃいけないんだ!」

 杉元が姉畑への悪態をつきながら小銃を構えてヒグマを狙って引き金を引いた瞬間、バガン、と大きな音を立てた。

「うーわっ……壊れた!」

 銃を水中に落とした場合、銃身内の水をしっかり切ってから撃たなければ圧力が高まり、破損する危険がある。そのことをすっかり失念していた杉元は焦り、こちらに向かってくるヒグマへの反応がわずかに遅れた。

「杉元、ヒグマが襲って来るぞ! 小夜子もヤチマナコに飛び込め!」

 姉畑が腹の下に潜り込んでしまったので、ヒグマはひとまずは目についた杉元と小夜子めがけて走り出した。
 そこで杉元はアシパの鶴の舞を思い出した。服を捲り上げ、翼のように大きく広げる。鶴とヒグマは仲が悪く、こうすればヒグマは逃げるのだ、と。

「ホパラタだっ!」

 しかし、ヒグマは怯むことなく前足を振り上げて杉元に襲いかかる。

「ブオオッ」

「全然効かねぇ!」

 杉元はヒグマの一撃をかわし、ヤチマナコに飛び込む。
 小夜子は背負っていた薬箱を放り、杉元と同じようにヤチマナコに飛び込もうとしたが、寸でのところで踏みとどまってしまった。水深が深いため溺れてしまうのではないかとの恐怖が足を止めたのである。
 小夜子は、泳げなかった。

「小夜子さんっ! 早く!」

 しかし、ここにいてはヒグマに襲われてしまう。小夜子は意を決して一歩を踏み出し、ヤチマナコに飛び込んだ。
 アシパは二人とは別のヤチマナコにいる。弓でヒグマを倒そうとしたが、背負っていた矢筒の中の矢は全て毒が水に溶けてしまっており、ヒグマを倒せる手段を失っていた。

(小夜子さん!)

 小夜子は泳げず、こんなに深い場所に潜ったこともない。杉元は小夜子が沈んでしまわないよう手を彼女の体にまわして自分の方へ引き寄せれば、小夜子は必死に杉元にすがりつく。
 杉元のもう片方の手には銃剣が握られている。水面の上のヒグマを退けるにはこれで戦うしかないのか。水面から顔を出した瞬間、叩かれて首が折れるかもしれない。
 小夜子の口からゴポ、と苦しそうに空気の泡が出た。そろそろ杉元も限界だ。

「ぎいいぃぃッ……ウコチャヌ!!」

 アシパが絶叫しながら、ちょうど近くにいた一匹の蛇を掴んでヒグマに向けて投げつけた。ヒグマは蛇が大の苦手だが、アシパも苦手である。だが、杉元が窮地に陥ったら助けると約束したのだ。小夜子ともども助けるには蛇を投げる他ない、と決心したわけである。
 蛇がぽとりとヒグマのそばに落ちると、毛むくじゃらの巨体がびくりと跳ねて水面から離れた。
 ──今だ。
 杉元は小夜子と共に水面の上に顔を出して新しい空気を吸い込んだ。

「ぶはっ」

 一体何が起きたのかと地上を見れば、何と姉畑がヒグマの腰にしがみついて自身の性器をヒグマの中へ挿入していた。
 杉元も小夜子も、ちょうど追いついた尾形と谷垣も、追いかけてきたキラウや村人も、目の前の光景に言葉を失った。

「……何てこった……」

「信じられん……みんな見てるか?」

「ああ……」

 あまりの衝撃的な光景に、誰もが足を止めて棒立ちとなる。

「やりやがった! マジかよあの野郎! やりやがった……姉畑支遁すげぇ!!」

 小夜子をヤチマナコの淵の草に掴ませると、杉元はすぐさま這い上がってヒグマに向かう。

「杉元さん!?」

「丸腰で向かっていってどういうつもりだ!?」

 小夜子とアシパが慌てて呼びかけるが、杉元はかまわずヒグマに駆けていく。

「姉畑先生、もう充分だろ! ヒグマから離れろ!」

 何度呼びかけても姉畑は動こうとしない。どうも様子がおかしい。
 まさかとは思ったが──姉畑支遁は勃ったまま死んでいた。
 ヒグマが暴れたはずみで姉畑は湿地の草の上に落下し、既に死亡した姉畑の足をヒグマが前足で踏みつけて骨を折る。
 アシパがヤチマナコに飛び込めと叫ぶが、杉元はヒグマと対峙した。右の前足を振り上げて勢いよく杉元を叩き潰そうとしたが彼はかわし、代わりにヒグマの脇あたりに一本の矢が埋め込まれた。
 それは最初に、村田銃の銃弾がアシパのこめかみをかすめた拍子にどこかへ飛んでしまった毒矢だった。ヒグマのそばに落ちた矢を見つけた杉元は、それを拾いに行ったのだ。

「ガガガガガッ」

 ヒグマが泡を吹きながら杉元に襲いかかるが、杉元はすぐにヤチマナコに飛び込む。
 次第に毒が効いてきたヒグマは弱々しく歩き、やがて力なく倒れた。


 ヒグマの脅威が去ったので杉元はヤチマナコから這い上がり、小夜子を引っ張りあげた。
 今回の騒動の原因となった姉畑支遁は死亡した。死因は腹上死で、小夜子がその診断を下す。過度な興奮によって心筋梗塞や脳卒中を引き起こしてしまったのだ。
 毒矢で死んだヒグマは、アイヌの男達が早速毛皮を剥ぐ作業を始めている。

「ウコチャヌして力尽きるとは……蛙みたいな奴だったな。あのヒグマが人を殺してウェンカムイにならずに済んだのが唯一の救いだ」

 熊に殺された人間は熊に好かれて結婚相手として神の国へ貰われて行ったという話もある。アイヌに詳しければ知っていただろう、とアシパが神妙な面持ちで言った。

「決死の想いも恋は成就せず……ってわけか」

「おい杉元、この男を哀れむのか? やめろ! 姉畑が本当に動物を愛していたのなら、どうして最後に殺すんだ? 姉畑もどこかで動物とウコチャヌすることが良くないことだとわかっていた。あとになってその存在ごとなかったことにしようなど、本当に自分勝手な奴だ」

 アシパが眉を寄せて死んだヒグマを見つめながら言う。

「どうしてウコチャヌする前によく考えなかったのか……そうすれば殺さずに済んだのに。なあ杉元、そう思わないか?」

 同意を求められて杉元は思わず口から出そうになった言葉を飲み込んだ。これは言わない方がいい。子供であるアシパに悪影響を及ぼすかもしれないし、女性の小夜子もいるので配慮しなくてはいけない。
 それにもかかわらず、尾形が自分の頭を撫でながらこう言った。

「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」

「おい、やめろ!」

「ちょっと百之助君……!」

 女子供がいる前で何てことを言うんだと杉元は慌てふためく。
 小夜子は恥ずかしそうに抗議の声をあげ、相変わらず無表情な尾形の顔を遠慮がちに見上げた。

「……あの……百之助君の事情も知らずに勝手に怒って……ごめんなさい」

 追っ手を警戒していた尾形の心情を察することが出来ずにいたことを詫びると、尾形は特に怒っている様子もなく小夜子の頭に手を乗せて髪をわしゃわしゃと乱す。

「子熊ちゃんの監視が退屈すぎて死にそうだった」

 谷垣を子熊ちゃんと呼ぶのが気に入ったのだろうか。再会したリュウを撫でている谷垣をちらりと見る。
 その後、杉元は離れたところで姉畑の皮を剥がし、埋葬を済ませる。村が近いということでヒグマは解体され、送る儀式を行うこととなった。


2020/12/04

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