第23話 網走到着


 小夜子が廃旅館へ土方達を案内すると、彼らは躊躇することなく中に入っていった。

「お嬢、また会ったな」

 牛山が自慢の怪力で外から戸をこじ開けるとアシパと遭遇した。彼女は「チンポ先生」と目を輝かせているので、心の師匠から救世主へと昇級したかもしれない。

「よくここがわかったな?」

「外にいる犬っころだ」

 土方達は硫黄山や屈斜路湖周辺に都丹が潜伏していた情報を掴んでおり、夜明け前にこの近辺で唯一営業している温泉旅館に到着したばかりであった。すぐ近くで全裸の白石とチカパシと遭遇して状況説明を受けた土方は、チカパシの隣に佇むリュウに目を付けた。嗅覚の優れている犬ならば、都丹の捜索に役立つと考えたのである。

 小夜子は土方の話を聞きつつ、採取したノコギリソウの葉を揉んで杉元の傷口に塗っていく。

「大丈夫ですか? 杉元さん」

「ああ。それより小夜子さんの傷は?」

「牛山さんがハンカチを巻いて下さったので平気です」

 自分の方が負傷の度合いが大きいのに小夜子を気にかけているあたり、やはり杉元は優しい。彼を心配させないためにも、小夜子は笑顔を見せる。

 都丹の処遇は我々に任せて欲しい。そう申し出たのは永倉だった。おそらく網走監獄の典獄・犬童と張り合うために都丹の聴覚が必要なのだろう。
 杉元としては都丹の入れ墨を写させてくれれば良いのだが、近くのアイヌの村にはアシパの親戚がいる。襲撃を受けるかもしれないと不安がっていたため、彼らを安心させるためにも殺して皮をひん剥いてくれると安心だけど、と冗談交じりに笑った。
 そんな相棒の隣で、アシパは神妙な面持ちで都丹を見つめる。

「こんな暗いところで隠れて暮らして、悪さをするため外に出るのは夜になってから……これではいつまでたってもお前の人生は闇から抜け出せない」

「……参ったなこりゃ……」

 硫黄山での苦役から逃げ出した囚人は、闇夜に紛れて生きる道しか知らなかった。そんな生活を続けていては永遠に光の下に出てこられないぞと子供から諭すように言われては、都丹は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。

 土方が都丹の身を預かるという結果に落ち着いたため、杉元達は旅館へ戻ることにした。廃旅館の中ではぐれた尾形が外に出てきたあと、谷垣とキロランケともすぐに合流出来た。

「犬より役に立っとらんぞ、谷垣一等卒。秋田に帰れ」

 盗賊の襲撃を受けた際、素手の人間より勇ましく盗賊に飛びかかったリュウの方が優秀だなと包み隠すことなく尾形が言い放つ。武器を隠し持っていたのは尾形だけだったので、騒動のあとはきっと嫌味を言われるだろう。そう考えていた谷垣の予想は見事に的中した。

「百之助君、それ以上谷垣さんをいじめないの。谷垣さん、旅館に戻ったら手当てしますね」

 湖でインカマッを守る際、谷垣は臀部に銃弾を受けた。貫通したものの、きちんと処置をしないと傷が悪化してしまう。

「ああ、頼む」

 武器を隠し持たなかった失態を責める尾形は、まるで軍に戻ったような雰囲気を放っていた。彼の言葉に間違いはないので谷垣は言い返すことなく叱責を受けていたが、小夜子が尾形をなだめてかばってくれたので少しばかり緊張がやわらぐ。
 そんな優しさを見せた小夜子であったが、男性全員が全裸なのでますます目のやり場に困った。男性陣の後ろを歩こうかと思ったが、臀部を見つめるのも気まずい感情が生まれたため先頭を行くことにした。

「小夜子も怪我してるが大丈夫か?」

 谷垣に肩を貸して歩くキロランケが、前方を行く小夜子の右足首に視線を送る。傷口が痛むのか、右足をかばうようなぎこちない歩き方をしてハンカチに赤い染みがじんわりと広がり始めた。歩き出したことで傷口が開いたようだ。

「これくらい平気ですよ」

 臀部に風穴が開いた谷垣に比べたら軽いもので、旅館に戻って処置すればすぐ治る傷だ。心配させないよう明るい口調でキロランケにそう返答すると、尾形が前に進み出た。

「小夜子、これ持ってろ」

 尾形は小銃を小夜子に持たせると、彼女の背中と膝裏に手を添えて抱き上げた。ふわりと浮かび上がる奇妙な感覚に驚いたが、それ以上に尾形の顔が間近にあることを意識して緊張してしまう。

「重い」

「なっ……!」

 小夜子は、自分から断りもなく抱き上げたくせに重いとは失礼な男だと抗議の声をあげた。確かに小夜子へ手渡された三八式歩兵銃に比べたらはるかに重いが、何もはっきり言わなくてもいいだろう。

「冗談だ。それよりも暴れるな、放り投げるぞ」

「そ、それはやだ」

 放り投げるなんて乱暴なことはしないと思う──が、もしかしたら尾形ならやりかねないと思う部分もある。小夜子はおとなしく彼の首にしがみつくことを選んだ。
 最初からそうしておけばいいんだよと尾形が少し嬉しそうに呟く背後にいる男達は、尾形の背中を見てしばし言葉を失った。明るい場所でやっと見える程度の薄さだが、いくつもの小さな鬱血痕──まるで情事の最中に女性が抱きついて爪を立てたり、引っかいたような跡があるのだから。
 尾形と小夜子は幼馴染みで親しい間柄であることは知っているが、ここ最近になってさらに親密さが増しているのではないかと密かに気になっていた。
 もしかしてこの二人も恋仲になっているのだろうか。非常に気になるが、聞くのが怖いので杉元達は閉口することにした。

 * * *

 硫黄山より北西方面にある北見に寄った一行は、写真館にて撮影会をすることになった。
 どうして急に写真を撮るのかとキロランケが問えば、アシパの写真を祖母に送ってやりたいのだと杉元が答えた。
 ──本当は、インカマッとキロランケの正体を探るための撮影会である。
 鶴見中尉の仕組んだことで片付けば良いのだが、もし何かを企んでいて、不測の事態が起こってからでは遅い。そうならないよう調査しておこうというのが、杉元と土方の話し合った結果だった。
 それに、撮影を行う写真師の田本という男は土方の古い知り合いで融通も利くため、素性が判明することはない。

 写真機の前に立ち、六秒間動かなければ写真が撮影出来るという。一人だけで撮ったり、二人で撮ったりと各々好きなように撮影を始めた。
 小夜子は一緒に撮ろうと尾形に撮影を勧めたが嫌がったので、結局一人で撮影することになった。

「ねえ鳴海さん、ドレスを貸してくださるそうよ。お化粧もしましょう」

 早めに撮影を終わらせた家永が小夜子に声をかけた。どうやら貸衣装もあり、土方の連れということで今回特別に無料で貸し出してくれるらしい。
 最初は遠慮したものの、家永が上機嫌で勧めてくるので首を縦に降った。本音を言えば、家永のドレス姿に憧れと興味があったからである。

「さてさて、どのドレスが似合うかしら」

 撮影部屋とは別の部屋に行けば、ずらりと並べられた貸衣装があった。値踏みするかのように家永がじっくり見比べ、それを小夜子は着替えを手伝いますとついてきたインカマッと二人で眺める。
 どんなドレスを選んでくれるだろう。小夜子は楽しみに待っていたが、あることを思い出した。家永の体つきは華奢で美しく化粧を施しているので忘れがちだが男だ。洋装に慣れていない小夜子にとって家永の存在はありがたいが、このままでは家永に肌を晒すことになる。

「あなたに似合いそうなドレスをいくつか選んできたわ」

 家永の性別を失念しかけていた小夜子の元に、当の本人が色や装飾の異なるドレスを三着選び抜いて戻ってきた。すべて装飾などは異なるものの、派手すぎない色合いで洋装に不慣れな小夜子でも抵抗なく着飾れそうなドレスだ。

「そうですね……じゃあ、これを」

 好みの色合いのドレスを選ぶと、小夜子は恥ずかしいのだと理由をつけて着替えの間だけ後ろを向いてもらうことにした。家永だけ部屋の外に追い出すのは簡単だが、化粧も手伝うと申し出てくれた相手を追い出すのは気の毒だと思ったからである。

「インカマッさんも何か衣装着れば良かったのに」

「いえいえ、私のことはお構いなく」

 せっかくの機会なのにと小夜子が言ったものの、インカマッはゆるりと首を横に振った。
 ドレスに着替え終わったあとは家永が化粧を施すことになった。おしろいを塗り、紅をさすと家永は感嘆の声をあげる。

「まあ……鳴海さん美人だから化粧したらもっと綺麗になると思っていたけど、想像以上だわ」

 小夜子はおそるおそる鏡を見た。
 確かに自分が映っているのだが、化粧をしているおかげで自分ではないようだ。顔の傷は髪でしっかり隠れているし、長袖のドレスを選んだので傷を見られる心配もない。後頭部の高い位置にまとめ上げた髪には派手すぎない花の飾りが添えられ、華やかさが増している。

 早速撮影しましょうと家永に手を引かれて撮影部屋に戻れば、ちょうど杉元とアシパの撮影が終わったところだった。

「おお! 小夜子、綺麗だな!」

 小夜子が戻ってきたことにアシパいち早く気付いた。

「うっひょ〜! 小夜子ちゃんすっげぇ綺麗だぜ!」

 真っ先に駆け寄ってきたのは白石だった。鼻の下を伸ばし、小夜子の手を取ってデレデレしている。そんな今にも詰め寄って小夜子を押し倒しそうな勢いの白石を、杉元がすぐさま引きはがす。

「おいこら白石、離れろ! でも、本当に綺麗だよ、小夜子さん」

「ありがとうございます。ドレスなんて初めてなので緊張します」

 衣装だけでなく、履物も洋装で揃えてあるため踵が少し高い。目線を下に向け、慣れない履物で床まであるドレスの裾をうっかり踏まないよう慎重に歩き、写真機の前に置かれた椅子に腰かける。
 撮影しようとした時、杉元達から離れて壁にもたれかかる尾形と目が合った。物静かな彼は遠くから小夜子を見つめ、普段とは異なる装いにほんの少し目を細め、口元もわずかに緩めている。
 尾形から声をかけることはなかったがその表情を向けられただけで小夜子は嬉しく、彼へ微笑み返し、写真撮影を行った。

 ちなみに最後の写真撮影の被写体となったのは谷垣だった──が、何故か彼だけは褌姿で撮影が行われた。

 * * *

 北見を出たあとは、最終目的地である網走監獄へと辿り着いた。
 敷地内には監視の櫓が五箇所あり、見張りや巡回の看守がたくさんいる。
 ここは周囲三方を山に囲まれている。その山にも見張り小屋が二十箇所あり、看守は全員ロシア製のモシン・ナガンで武装している。他にも小屋の中にはマキシム機関銃もあり、まるで戦争にでも備えているかのような装備だ。土方によれば、彼が脱獄する前より厳重になっているという。
 これほどまでに山側の警備が厳重になっている理由は、囚人の舎房が山側にあるためだと白石が言い添えた。脱獄する囚人の心理として、看守達がいる建物の前を危険をおかして通ろうと考える囚人はまずいない。すぐにでも山に身を隠したいから、山側の警備を強くしているのだ。
 それに加えて、監獄側はのっぺら坊を奪いに来る連中──杉元や土方らも警戒している。

「とすればやはり侵入経路は、警備の手薄な網走川に面した堀しかねぇ」

 過去に網走監獄を脱獄した経験のある白石が地図を指さした。そこだけ川に面した場所で、侵入するならここしかないという。

「この計画は今しか出来ねぇぜ。鮭が獲れる今だからこそな」

 白石が提案する侵入計画は次の通りだ。
 まずは谷垣、キロランケ、土方がアイヌの格好をして舟で監獄の対岸から網走川を渡り、監獄の塀の外にクチャという仮小屋を作る。この小屋は鮭の漁をしている風を装い、監獄の敷地内へ通じるトンネルを掘るための偽装である。
 キロランケは日露戦争では工兵だった。二〇三高地でロシアの堡塁を破壊するためにトンネルを掘った経験があるので、トンネル掘りの指揮は彼に任せる。
 また、掘り出した土は一箇所に捨てると監獄側に怪しまれるので舟に積み、鮭を獲っている合間に川のあちこちに少しずつ流す。

「白石……やっぱすげぇや、脱帽だ」

「ッピュウ☆」

 網走監獄侵入大作戦の計画を聞いた杉元が言葉通りに軍帽を脱ぐと、白石が得意満面の笑みになる。

「脱獄王……やっぱりお前を網走まで連れてきて正解だった」

「ピュウ☆」

 アシパも見直したぞと言えば、白石はまたしても得意満面な様子だ。
 今までぞんざいな扱いを受けてきた白石だが、褒めてもらえて上機嫌になり、尾形にも同じような表情を向ける。だが、彼は無表情のままで白石を褒め称えるようなことはしなかった。

 男達が監獄への侵入経路を作っている間、アシパや小夜子らは網走近郊のコタンで過ごすことにした。ここにもアシパの祖母の妹がいるので、彼女のチセで世話になることとなった。
 監獄の塀の外で獲れた鮭は幾分か賄賂として看守へ渡るが、それ以外はコタンに運ばれる。大叔母の家族だけでなく杉元達が滞在するので、獲れた鮭はそのままみんなの食料となるわけだ。
 足の怪我がすっかり癒えた小夜子はアシパの大叔母に挨拶すると、刺繍を教わったり家事を手伝ったりした。手先が器用で鮭を捌くのも手際が良いため、大叔母からたいそう褒められた。

 アイヌにとって主食だった鮭はシペ(本当の食べ物)と呼ばれ、川に鮭が極端に少ない年は餓死する者が出たほど重要なものである。だからアイヌは鮭一匹を余すことなく利用するのだ。
 さて鮭を食べる準備だ、とアシパは鮭の頭の部分を切り離し、上顎の真ん中の氷頭という軟骨のある部分を切り取る。

「この部分を主に使う珍味な料理があるけど──杉元! 何かわかるか?」

「えええ〜? まさかまさか〜?」

 名指しで指名された杉元は嬉々とした表情でソワソワし始めた。アシパと出会って最初に味わったアイヌ料理が出てくるのだと期待する。

「チタタだ」

「はい出ましたチタタプ!」

「チタタとは本来、鮭のチタタのことを指すんだ」

「チタタプの中のチタタプ!」

「いてて! つねった!」

 本当のチタタが味わえるということで、杉元が興奮して思わず近くにいたキロランケの腋をつねる。

 それから、よく洗って血を抜いたエラと氷頭を叩き刻んでいく。チタタすればするほど美味しくなるのだ。
 まずは茨戸で土方一行に加わった夏太郎という青年がチタタをすることになった。初めてのことだろうということで、そばで杉元が指導する。
 さて次は誰の番だと一同が注目する中、チカパシがこれでチタタしてもいいかと言って持ってきたものは刀だった。つまり、土方歳三の愛刀・和泉守兼定である。
 土方はあぐらを組んだ足の上にチカパシを乗せると、彼と一緒に刻み始めた。

「チタタプ、チタタプ」

 いくら子供のお願いとはいえ、まさか新撰組の鬼の副長が愛刀でチタタするなんて。永倉は目の前の光景に「うわぁ」と冷や汗を流す。

「チカパシ君、良かったわね」

「すっごい楽しいよ! 小夜子もやってみなよ!」

 刀でチタタ出来てご機嫌になったチカパシが、小夜子もどうだと勧める。刀なんて持ったことがないので興味はあるが、いい大人がはしゃぐのも恥ずかしい。小夜子が逡巡しつつも断ろうとすると、それを察した土方から声をかけられた。

「お嬢さんもやってみるかね?」

「い……いいんですか?」

「構わんさ。別に減るものでもないだろう?」

 刀でチタタしてみたいと顔に出ていたのかと思うと気恥ずかしさもあるが、せっかく土方本人が勧めてきたので彼の言葉に甘えることにした。
 和泉守兼定の柄を持つ。刀は意外と重量を感じるので落とさないよう注意する。

「チタタ、チタタ

 土方歳三の愛刀でチタタしたなんて、小夜子は自分でも信じられないなと思いながら和泉守兼定を土方に返す。

「ありがとうございます、土方さん」

「お嬢さんのように美しい女性に手に取ってもらったんだ。刀も喜ぶ」

「まあ、お上手ですね」

 相手の喜ぶ言葉を即座に口に出せるなんて、さすがは人生経験豊富な男だ。お世辞でも美しいと言われて悪い気はしないので、小夜子はにこりと微笑んだ。

「…………」

 土方と談笑する小夜子を、尾形はただじっと見つめていた。
 今は網走監獄へ侵入するために手を組んでいるが、小夜子はずっと杉元と旅を続けてきたのでどちらかといえば土方は敵陣営だろう。それなのに愛想よく振る舞えるのは、争い事が苦手だという性分が影響しているからだろうか。
 そんなことを考えているとチタタの順番が尾形に回ってきた。とりあえず刻み始めるが、無言を貫いているためアシパが寄ってくる。

「尾形〜、みんなチタタ言ってるぞ? 本当のチタタでチタタ言わないならいつ言うんだ?」

 そう言っても尾形は口を開かない。

「みんなと気持ちをひとつにしておこうと思ったんだが……」

 相変わらず無言を貫いているので今回も駄目かとアシパが諦めて立ち上がった時だ。

「──チタタプ」

 小さな──本当に小さな声で尾形がチタタと呟いた。
 小声だったが確かに聞いたとアシパは喜び、杉元達に報告する。

「聞いたか? 今、尾形がチタタって──んも〜、聞いてなかったのか!?」

 杉元、谷垣、牛山はアシパの言葉であっても、あの尾形が言うわけないと疑いの眼差しを向けるのでアシパは歯がゆい思いになる。
 男達が駄目なら小夜子ならどうだ。きっとわかってくれる、と期待を込めた眼差しを小夜子へ向けた。しかし、小夜子は土方や家永と談笑していたのでこれには閉口せざるを得なかった。

 全員がチタタしたあとは白子や砕いた焼き昆布を混ぜ、塩で味を調えれば鮭のチタタの完成だ。新鮮な鮭が手に入る今の時期しか食べられないものだ。
 他にも脂の乗った身を串焼きにしたものや、米とヒエを炊いたおかゆにイクラを入れたチポサヨ、塩煮して潰したジャガイモにイクラを混ぜたチポラタが出来上がれば、アイヌの鮭料理の完成だ。

「柔らかくて滑らかで生臭くなくて美味い……これが本当のチタタプか」

「獲れたてだから臭みがないんだ。ヒンナヒンナ」

 杉元とアシパは新鮮な鮭のチタタに舌鼓を打つ。

 小夜子は出来上がったばかりの料理を配膳していく。アシパの大叔母は小夜子も客人だから何もしなくて良いと断ったのだが、こんなに人数が多いと大変だということで率先して配膳を手伝った。
 全員に食事が行き渡ったことを確認した小夜子は、皆より少し遅れて食事を始めた。座る場所はもはや当たり前のように尾形の隣である。

「インカマッさんって言ったかね? あんた、いい人いるのかい?」

 牛山がすぐ近くにいるインカマッに声をかけた。その表情は雄々しく柔道に打ち込む時とは異なり、爽やかで紳士的なものだ。
 一方、インカマッは目を細めて何も答えなかった。彼女の隣の谷垣も無言でチポサヨを食べている。
 そんな二人を交互に見たチカパシは谷垣の持つチポサヨがまだ残る器を取り上げ、インカマッに差し出した。
 チカパシの行動に囲炉裏を挟んで反対側に座る小夜子は「まあ」と小さく声をあげ、隣でチポサヨを食べている尾形は小夜子の反応に気付いて横目で様子をうかがう。

「何のつもりだ、チカパシ」

 食べている最中に何をするんだとチカパシをたしなめるが、チカパシは悪戯をしているわけではない。そのことを、同じアイヌのアシパが説明した。

「女が男の家に行ってご飯を作り、男は半分食べた器を女に渡し、女が残りを食べたら婚姻が成立するんだ」

 つまり、アイヌにとっての求婚なのだと言えば杉元が感心する。
 小夜子はアイヌの風習を調べている。アイヌ風の求婚については知っているが実際に目の前で見たことがないので思わず声が漏れてしまったのだろう、と尾形は推測した。

「本当の家族になれば?」

 谷垣とインカマッとは旅の間、家族としてここまでやって来た。たとえ偽りの家族であっても、チカパシにとってはとても楽しく充実した旅路であった。
 それに、谷垣とインカマッが男女の関係になっていることも知っている。好きな二人が夫婦になってくれたらもっと良い、とチカパシは考えたのだ。

「いいねえ、おアツイぜ」

 夏太郎が囃し立てるが、インカマッは器を受け取らずにじっとしている。
 見かねた谷垣は器をチカパシに返してもらうと、残りのご飯を食べることなく器を置き、チセの外に出てしまった。

「おっと……まだ微妙な関係だったか」

 チカパシによる働きかけで谷垣とインカマッの関係が垣間見えたものの、まだ曖昧な時期かなと牛山は察した。

「…………」

 一同が谷垣とインカマッの関係に気を取られている間、尾形は無言でチポサヨの少し残る器を小夜子の前にそっと差し出し、空いた手で小夜子の持つ器を寄越せと目配せをしてきた。
 温泉旅館で求婚まがいの言葉を告げられたが、ここではっきりと求婚そのものの行為を行ったことに、小夜子は気恥ずかしいながらも満ち足りた気持ちになる。
 和人ではあるが、尾形はたった今聞いた話を実践してみたいと思ったのだろうか。女の器も交換する必要はないのに「早くしろ」と無言の圧力をかけてくる。それでも小夜子は器を交換することにした。
 小夜子が尾形の器に残るチポサヨを食べると彼は満足した様子で目を細め、小夜子の器のチポサヨをたいらげた。
 幸いにも他の者には気付かれていない。このやりとりは尾形と小夜子だけの秘密だ。

 その後、いつの間にか用足しに外に出ていた白石がふらりと戻ってきたかと思うと、谷垣の置いた器に残るチポサヨに手を付けた。

「こいつ谷垣ニパのご飯食べてる!」

 それはインカマッが食べるために残しているのに、とチカパシは白石の頭をぺちんと叩いた。


2021/05/04

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