第21話 過去と覚悟


 のぼせてはいないが少し湯船につかりすぎた、と小夜子は火照る肌を手でパタパタあおぐ。
 部屋に戻って夕食までゆっくりしていよう。そう決めて部屋に戻ると、何故か尾形が床に寝転がっていた。完全にくつろいでいる。

「……何してるの? 百之助君の部屋、ここじゃないよね?」

「白石の野郎がうるさいからこっちに来た」

 旅館での部屋割りは次のとおりだ。男性陣は人数が多いため大部屋、アシパとインカマッは同室、そして小夜子は小さな個室となっている。
 小夜子だけ一人部屋になった理由は、薬箱の中身を広げて整理をしたいからである。一人だけわがままを通すようなことになったため小夜子は自分の財布から宿泊代を出した。杉元やキロランケからは気にすることはないと言われたが、こればかりは譲れなかった。
 割り当てられた部屋はこじんまりとしており、大人二人が宿泊するにはいささか狭い。寝具は一人分しかないため、就寝時は大部屋に戻ってもらわないといけない。

「というか、どうやって中に入ったの……!?」

 入浴前、確かに施錠して鍵も脱衣所に持って行き、今もまた開錠したので鍵はこの手に持っている。どうやって入室したのだろうかと小夜子が怪しんでいると、起き上がった尾形が自分の隣の畳を叩いた。こっちに来て座れという意味らしい。
 このまま突っ立っているわけにもいかないので、ひとまず小夜子は尾形の隣に腰をおろす。

「ふ……湯上りってのもそそるな」

 湯船につかって温まった肌はほんのりと上気している。髪はまだ乾ききっておらず、濡れ羽色と表現するに相応しい艶やかさだ。
 小夜子の桜色の唇に、尾形は自分のそれを重ねた。柔らかな唇を何度か啄んで堪能したあと、そのまま首筋へと口付けていき、温泉で火照った柔肌を舌先でなぞる。

「……っ」

 ぞくりとした感覚が小夜子の背筋を走る。
 尾形の舌が首筋を這い、耳たぶをやわやわと食む。ふっ、と耳に吹きかけられた吐息の感覚に耐え切れず、小夜子は小さく声を上げて尾形から逃れようと後退する──が、それを待っていたといわんばかりに尾形が小夜子の肩をそっと押し倒して仰向けにさせた。

「こっ……こういうの……好きな人と、するものじゃ……」

「そうだな。だから小夜子をその相手に選んだ。俺じゃ不満か?」

「そんな、わけ……」

 尾形の言葉を否定しかけて、気付いた。
 好きな相手と行う行為だということは否定せず、小夜子をその相手に選んだと確かに言った。それでは尾形が小夜子のことを恋愛対象として見ている意味ではないだろうか。
 五秒くらいかけてそう結論を出すと小夜子の目が泳ぎ出した。まっすぐ尾形の目を見つめていたが、たった今生まれた羞恥心で尾形を直視出来なくなった。

「どうした?」

「今の……私のこと、す……好きって意味かな、って……」

「何だ、ようやく理解したのか」

 鈍いにもほどがある、と尾形は小さく笑った。
 子供の頃、いつも一緒に遊んでいた小夜子が引っ越して尾形一人になると寂しさを感じた。毎日に面白味がなくなり、その気持ちが恋心だと自覚したのはいつだったかはもう覚えていない。

「い……言わないとわからないわよ!」

 尾形は大人になっても無口で無表情なところは昔から変わらない。旅の仲間と協調性を築くこともないので、反感を買うこともしばしばある。
 だが、大雪山で小夜子を慰めてくれた時は心が安らぎ、周囲の警戒で連れ出してくれる時は信頼されているのだと思うと嬉しい。

「それで、俺を拒絶しないってことは小夜子も同じってことだな」

「……ええ、百之助君のことが好きよ!」

 小夜子は尾形と両想いだということが判明して安心した。しかし、尾形に見透かされているようで複雑な感情が先立って素直に頷くことに抵抗を感じてしまい、気恥ずかしさから起き上がって尾形から目をそらす。
 ある程度は察することは出来るが、告白の言葉くらい言ったらどうだ。いくら無口でも、こういう時は言葉で伝えてほしい。まったくもって呆れた幼馴染みだ。

「──そういえば、体にも傷跡があると言っていたな?」

 尾形の言葉に、心の中で愚痴をこぼしていた小夜子の顔がわずかに強張った。そうだ、傷跡が残っていると告げていたことを釧路の浜辺で告げていた。あの時は深く考えることなく口に出したので失念していたが、彼はしっかり覚えていたようだ。
 ちらりと尾形へ視線を向けると、じっと小夜子を見つめていた。とぼけたりごまかしたりは出来そうにない。覚悟を決めて見せるしかない。そう決心した小夜子は衣服の左側の衿をめくった。

「……!」

 晒された左の肩や腕には刃物による傷跡が見えて、尾形がわずかに目を見開く。ちょっとした擦り傷程度なら気にならないだろうが、想像以上にはっきり跡が残っていたのだから無理もない。

 尾形との間に沈黙が流れた。普段であれば何ともないのに、この時ばかりは落ち着かない。
 身だしなみは整えているが美しく着飾ることもなく、傷跡の残る肌である。抱きたい男なんているわけがないのだ。もしかしたら尾形が初めての相手になるのではと、ほんの少しだけ期待したがこれ以上は間が持たない。
 小夜子は衿を直すと、明るい口調で尾形に話しかけた。

「あはは……やっぱり傷があると嫌だよね。ごめんね、驚かせちゃって。今見たのは忘れてちょうだい。──さてと、薬箱の中身を広げるから大部屋に戻ってくれる?」

 小夜子は尾形に背を向けると、薬箱の整理をするから部屋を出てほしいと告げた。
 大部屋には賑やかな白石がいるので尾形にとっては居心地が良いとは言えないだろうが、この狭い部屋に居座られても薬の整理が出来ない。

「……小夜子」

「夕飯までもう少し時間あるんだし、先にお風呂入ったらどう?」

「おい──」

「洗い場も湯船も広いから、杉元さん達と一緒に入ってもゆっくり出来るわよ」

 尾形が声をかけようにも小夜子が遮ってしまうので会話が成り立たない。というよりも会話をしないよう意図的に遮っているように感じられる。
 これでは埒が明かない。尾形は小夜子の肩を掴み、ぐいと正面を向かせた。彼女の表情は驚きの中に困惑の色が混ざっていたが、すぐに苦笑へと変わる。

「何勝手に話を終わらせようとしてんだよ」

「こんな体、抱きたいって人いないでしょう? 百之助君と両想いだとわかったのは嬉しいけど、私のことは諦めて他にいい人を捜してちょうだい。……女を抱きたいなら遊女の方がいいかもね」

 小夜子は困った感じで苦笑している。笑顔で取り繕い、ごまかしているように見えたのでそれが気に食わなかった。尾形に背を向けて薬箱に手を伸ばそうとした小夜子の手首を掴み、再び正面を向かせる。

「笑ってごまかすな。俺の話を聞かずに逃げるんじゃねぇ」

 ただ単に性欲を満たすだけなら遊郭に行けば良い。遊女なら男の悦ぶ声や仕草で愉しませてくれるだろうが、小夜子には肉欲だけを求めているわけではない。
 大人の女性となった小夜子を目で追い、行動を共にしているうちに誰にも渡したくないと思えてきた。
 片目が見えず傷跡があるから女としての魅力はないと本人は言うが、尾形にはそうは感じられない。例え両目が見えなくとも、傷だらけであろうとも、この女を他の男に渡したくはない。

「他の女を追うつもりはない。それに、誰が遊女の方がいいと言った」

「だって体に傷がなくて綺麗だし……い、色気あるし……」

 各地を渡り歩く行商姿の女より、化粧をして蠱惑的な仕草で誘う遊女の方が魅力を感じるだろう。私にはないものばかりだと小夜子が気後れして反論すると尾形がじっと見つめてきた。まるで品定めされている気分だ。

「……まあ、遊女みたいな色気はないな」

 相変わらず容赦ないな、この男。
 幼馴染みだと思って遠慮の欠片もない尾形の言葉に、小夜子が小さく息を吐く。こうもはっきり言われては逆に清々しいくらいだ。

「それでも俺は小夜子がいい。小夜子だから抱きたいんだ。傷跡があるから嫌だなんて一言も言ってねぇだろ」

 直接的な言葉に小夜子は恥ずかしさのあまり頬を染める。
 色恋沙汰に慣れていない小夜子の反応を楽しみつつも、尾形は『好き』という気持ちはあれど『愛情』がどういうものかわからなかった。小夜子に向けるこの感情が果たして愛なのか、それともただの恋なのか。

「……とは言っても、俺は愛情がどんなものかわからねぇ。愛のない親が交わって出来た子供だからな」

「……百之助君の、ご両親は……」

「陸軍中将と浅草の芸者だ」

「茨城にいた頃、お父様の姿がないから何か事情があるとは思っていたけど……」

 尾形の母親が芸者だったことは、ある程度事情を知っていた両親から聞いている。なるほど、陸軍中将と芸者では身分が違いすぎる。

「詳しく知らない私が言う筋合いはないでしょう……それでも、私は百之助君が生まれてくれて良かったって思ってる」

「……どうして」

「だって、生まれてなかったら出会えてなかったのよ。それに、身分や血筋でその人の価値が決まるわけじゃないわ」

 立派な地位にいる人間でも、性格が歪んでいたり人徳がなければ尊敬するに値しない。逆に、貧しくても志を高く持ち、出自に負い目を感じることなく前向きに暮らしていく人間の方が素晴らしい。

「だから、ご両親の身分の差はどうであれ、私は百之助君が生まれてきてくれて感謝してるわ」

 小夜子はにこりと笑った。彼女は尾形のことを一人の人間として見てくれている。元第七師団長の妾の息子ではなく、ただ一人の男として。

 ──彼女になら話しても良いだろうか。詳しく知らないというのであれば詳細を聞かせてやろう。

「……俺がこれから話すことについて小夜子は俺のことを軽蔑するだろう。俺から離れていくのも無理はないと思っている」

 それでも聞いて欲しいと前置きすると尾形は両親と弟のことについて話し始めた。


 尾形の母親は浅草の芸者で、軍人の父親の妾であった。
 その父親は当時、近衛歩兵第1聯隊長陸軍中佐の花沢幸次郎。天皇に直結する軍隊のため、世間体を考えれば芸者とその子供は疎ましく感じたのだろう。本妻との間に男児が生まれると、父親は母親の元へ来ることはなくなったと祖父母から聞いた。そのため、母親と共に茨城の実家へ連れ戻されたのだという。
 実家に戻ってから母親はよくあんこう鍋を作ってくれた。庶民的な鍋で、あんこうが獲れる冬は毎日作っていた。そのあんこう鍋を父親が美味しいと言い、また食べに来てくれると信じていた母親は──頭がおかしくなっていた。
 いつしか尾形は祖父の古い銃を持ち出して鳥を撃った。鳥があれば母親はあんこう鍋を作らないと思ったのだが、いくら鳥を撃っても母親はあんこう鍋を作ることをやめなかった。
 父親を想うばかりで目を向けられなかったことを子供心に感じていたある日、祖父母が外出した際にあんこう鍋に殺鼠剤を入れて母親に食べさせた。少しでも母に対する愛情が残っていれば、父は葬式に来てくれるだろう。母は最後に愛した人に会えるだろう。そういう期待を込めてのものだったが、結局父親は来なかった。

 愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものだ。仮に父親に愛情があれば母親を見捨てることはなかっただろう。どんなに立派な地位の父親でも、愛情のない親が交わって出来る子供は、何かが欠けた人間に育つのだろうか。

 本妻との間に生まれた息子が高潔な人物だったことがその証拠だと言って小夜子に告げた名は花沢勇作。陸軍少尉で尾形の異母弟である。
 規律が緩むからと何度注意しても、部下の尾形を『兄様』と呼んでいた。一人っ子育ちでずっと兄弟が欲しかったのだと言い、まとわりついてくるのだ。その屈託のない笑顔にこう思った。
 ──ああ、これが両親から祝福されて生まれた子供なのだ、と。
 その異母弟も、二〇三高地で尾形が後頭部を撃ち抜いた。彼に対する妬みでも、父を苦しませたい気持ちとも少し違う。
 ただ一つ確かめてみたかったのだ。勇作の戦死を聞いた時、父は無視し続けた妾の息子が急に愛おしくなったのではないか。
 ──俺にも祝福された道があったのではないか。
 そして、戦後日本に戻ってからは鶴見中尉の手引きで、第七師団長であり中将となった父親を自刃に偽装して殺害した。


 尾形が語り終えると、室内に静寂が訪れた。
 小夜子は俯いて黙り込む。子供でありながら殺鼠剤で母親を殺し、戦地では味方である異母弟を射殺し、戦後は自刃を装って父親をも手にかけたのだから無理もない。
 静かに両の手を握り締めているのは、家族を手にかけた尾形への怒りをつのらせているからなのか、それとも恐怖を抑え込んでいるからなのか。
 どちらにしろ彼女の心は離れてしまった。当然だなと自嘲して部屋を出て行こうと立ち上がると、小夜子が呼び止めた。

「百之助君は……愛情が欲しかったの……?」

「……!」

 身内を手にかけるなど狂気の沙汰ではない。そんな罵詈雑言が浴びせられるかと思いきや、まったく予想外の言葉が出てきて面食らった。

 父親に捨てられ、子供に向けられるはずの母親の愛情も父親にばかり向けられていた。
 軍に入れば両親から愛された異母弟と出会い、兄を慕うその姿は輝いて見えただろう。一方で両親からの愛情を知らずに育った尾形にとってその光は強すぎたのだ。
 そして、父親に親としての情が少しでもあったのなら、彼の現状も違っていたかもしれない。

 愛情のない親が交わって出来る子供は、何かが欠けた人間に育つのだろうか──尾形の言葉が小夜子の心に重くのしかかる。
 ──愛情がどのようなものかわからないという彼に、私は何をしてあげられるだろう。
 尾形が家族を手にかけた事実は許されることではない。だが、愛情がわからないゆえに、その愛情を求めていた彼の気持ちも理解出来る。もしも父親が尾形母子を少しでも気にかけてさえいれば、あるいは──
 そう考えながらも、母親が茨城に連れ戻されず、そのまま東京に残っていたら彼と会うこともなかったのだと思うと非常に複雑な思いだ。
 小夜子は立ち上がり、尾形の背中に抱きついた。

「ねえ、夕張で再会して嬉しかったって言ったこと覚えてる? あの時、もう少し生きてみようかなって思ったのよ。百之助君と再会していなければ、金塊探しの旅を見届けたあと……どこかで行き倒れる以外に、毒で死ぬことも考えていたわ」

 薬売りなので薬草はもちろん、毒草についても知っている。自生している毒草を使って命を絶つことも考えていたのだと告げると尾形が振り向いた。感情の起伏に乏しい表情が、今は驚きに満ちている。
 普段から明るく振る舞い、白石からは女神のような存在だと讃えられる小夜子が自害を考えていたとは尾形でも予想外だった。

 小夜子と共に死ぬというのも悪くはない──ふと、そんな考えが尾形の頭をよぎる。しかし、今はまだ死ぬべき時ではないという思いもある。それなら小夜子が先に命を絶ってしまわぬよう、生への執着心を与えておかねばならない。
 尾形は小夜子と向き合い、まっすぐ見上げてくる彼女の頬に手を添えた。親指で緩やかに頬を撫でると小夜子はそっと目を伏せる。男性らしい骨張った大きな手の感触と、じんわりと頬に伝わる体温が心地良い。

「小夜子」

 尾形が名前を呼ぶと、小夜子は再び彼をまっすぐ見上げる。

「生きるのを諦めたって言うならその命、俺に寄越せよ」

「──ええ、百之助君のためならいくらでも差し上げましょう」

 これまで惰性で生きていた小夜子に、生への灯火が再び灯った瞬間だった。
 幼馴染みと再会し、想いを打ち明け、受け入れてくれた彼のために出来ることなら何でもしよう。彼が助かるのなら私の命は惜しくない。

「本当にいいのか? 俺のような人間は地獄に落ちるだろうが、それでもいいんだな?」

 皮肉を込めた笑みで再確認する尾形を、しかし小夜子は怯むことなく真正面から受け止めて頷いた。

「あなたと一緒ならどこへでも。地獄に落ちる覚悟は出来ているわ」

 既に覚悟を決めている相手に、これ以上訊くのも無粋か。尾形は小夜子の決意が変わらないと知ると彼女の背中に手を回し、耳元に口を寄せる。

「傷跡なんか気にならないくらいの体験をさせてやるよ」

 尾形がそう耳打ちすれば小夜子は顔を赤くしてうつむかせ、こくりとうなずいた。


2021/01/11

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