第17話 カムイホプニレ


 コタンに戻る頃には夕方となり、西の空は橙色へと染まっていた。
 湿原で解体されたヒグマは木を組み合わせた神輿のような物に頭付きの毛皮を載せられ、キラウ達にかつがれてコタンへ連れられる。

「オホホホホーイ!」

「オホホホホーイ!」

 この叫びはオココセといい、火の神様に熊が獲れたことを知らせる意味もあるとアシパが教えてくれた。
 出迎えた村長にキラウが事の成り行きを説明する。カムイを穢していたのは姉畑支遁という男で、檻に捕らえていた谷垣は無実であると聞いて村長はにこりと笑った。谷垣の誤解が解けた瞬間だった。

 やがて村長を始めとした村人達が集まり、カムイホプニレが始まった。『神の出発』という意味の儀式で、狩りによって獲った大人のヒグマを『送る』ものだ。外の檻で育てた飼い熊を送る盛大なイオマンテとは別の儀式である。
 このあと、ヒグマの頭は家の外のイナウがたくさんある祭壇に移動となった。木の削りかけのイナウは、人間からカムイへの贈り物だ。カムイはイナウをたくさんもっていると神の国で地位が高まる。貰ったイナウは金や銀のイナウに変化して財宝になるといわれているからだ。

 儀式がひととおり終わると宴会が始まった。
 酒を飲んで仲直りしようということで、村人がトノトというアイヌの酒を杉元達にふるまってくれた。これはヒエ、アワ、キビ──釧路方面なら馬鈴薯や麦などから作る酒である。

「杉元ニパ、お前強いな! 俺は喧嘩で負けたのはお前が初めてだ!」

 谷垣が檻に繋がれた際、杉元を殴った体格の良い強面の男が杉元の持つ器に酒を注ぐ。ついでに自分の娘を妻にどうだと勧めるので、杉元のことをかなり気に入ったようだ。

「疑って悪かった。もっと飲んでくれ、子熊ちゃん」

 キラウは谷垣に謝りつつ酒を勧める。彼も子熊ちゃん呼びを気に入ったのだろう。

「小夜子、久しぶりだな! あんたまだ旅してるんだろ? どうだ、俺の弟の妻にならねぇか?」

「まだ結婚の予定は考えてないですねぇ」

 小夜子は村の男から再会出来た喜びついでに縁談を持ちかけられたが、さらりとかわす。男もその弟も普段から明るく竹を割ったような性格で、好印象を持てる人物だ。小夜子がやんわりと断っても嫌な顔をせずにまた笑った。

「がっははは! また振られちまった!」

「はははっ、つれねぇなぁ!」

 男は飲め飲め、とトノトを器に注いでくるので小夜子はそれを味わうことにした。日本酒やビールとも異なる味で、その違いを舌でじっくり楽しむ。

 男達が酒で盛り上がる中、アシパは杉元の鼻に自分の掌を差し出す。

「え、蛇触ったの? 怖かった?」

「うん。くさくないか? いっぱい洗ったけど」

 特ににおいは感じられないと言うと、今度は尾形の鼻先に掌を突き出す。

「くさくないか?」

 尾形が顔を寄せてくんくん嗅ぐが、やはりにおいはない。

「尾形お前、誰も傷つけずに谷垣を逃がしたそうだな。杉元は凄く疑ってたし、私もちょっと不安だったけど見直したぞ」

「──谷垣源次郎は戦友だからな」

 口の端を吊り上げる尾形にもう一度掌を差し出すとくんくん嗅ぎ始めた。まるで猫のようだ。

 ところで小夜子はどこだと尾形が室内を見渡せば、村の男の肩に寄りかかって舟をこいでいた。酒を飲んで酔っ払ったのだろう。
 尾形は立ち上がって小夜子のところへ行き、男から引き剥がして立たせる。

「あ、ひゃうのすけくん」

 尾形の名を呼ぶが呂律が回らず、足取りもおぼつかない。酔った小夜子の手を引いた尾形は元の場所に戻り、隣に座らせる。背筋を伸ばして座っていたのは最初のうちで次第に尾形の方へ体が傾き、やがて肩に寄りかかると両目を閉じた。

「小夜子さん、お酒は飲めるけど弱いみたいだな」

 杉元が器に残ったトノトを一口飲み、尾形に話しかけた。

「札幌でビールを飲んだ時も早々に酔い潰れてたよ」

 その時はキロランケに支えてもらってホテルに戻ったっけ、と杉元が苦笑する。
 尾形は自分の知らない一面を知っている杉元をねめつけるが、杉元本人はトノトを味わっているので気付かない。
 ずる、と肩に寄りかかっていた小夜子の重みの感覚が変化した。彼女の頭の位置がずるずると下がっていき、あぐらをかいている太腿を枕代わりにして本格的に眠ってしまった。
 村の男に寄りかかるなんて無防備にも程がある。だが、こうして膝枕状態で眠ることは先程の男にはしなかった。気心の知れた幼馴染みだからなのかと思えば、杉元への嫉みなんてちっぽけなものだ。尾形は優越感を抱きながら、小夜子が風邪をひかないよう自分の外套を布団代わりにかけた。

 なごやかな雰囲気の中、アシパ、と真面目な雰囲気で声をかけてきたのはキラウに絡まれて酒を飲まされていた谷垣だった。アシパは彼にも掌のにおいを嗅いでもらおうとしたのだが断られ、大事な話があると告げられた。

「俺はフチのことを伝えに小樽から追ってきた」

 外はすっかり暗くなっている。村の男達は酔い潰れていびきをかいて眠り、小夜子は尾形の膝枕で寝息を立てている。
 谷垣はアシパの祖母が見た夢のことを話すと、杉元達はしばし無言になった。特にアシパは口を真一文字に結び、生まれた時から面倒を見てくれた祖母に思いを馳せる。

「婆ちゃんが『二度と孫と会えなくなる夢を見た』って……たかが夢だろ? 手紙でも送っておけよ」

「夢というのはカムイが私達に何かを伝えたくて見せるものと強く信じられてきた。私は信じなくても、フチは古い考え方のアイヌだから……」

 祖母を安心させるために手紙を送ればいい。尾形はそう言ったが、アシパは小さく頭を振ってアイヌにとっての夢占いについて次のように話した。
 フチは昔、ある夢を見たという。自分の娘のまわりに熊がたくさん集まっており、それは『送っている』夢だった。そのあとすぐに娘──アシパの母親は病気で亡くなった。この経験があるからこそ、フチはなおさら夢占いを信じているのだ。

「アシパさん、一度帰ろうか? 顔を見せりゃ『孫娘とは二度と会えない』ってフチが見た予言は無効だろ?」

 杉元はアシパが祖母を大切に思っていることを知っている。一緒に暮らす肉親を安心させてあげたい気持ちを我慢しなくてもいいことを伝えるが、アシパはその言葉をはねのけた。

「子供扱いするな、杉元! 私にはどうしても知りたいことがある。知るべきことを知って、自分の未来のために前に進むんだ!」

 金塊探しの旅に出ると決めた時、いずれこのようなことになるのではないかと思っていた。それを承知で網走を目指すのだ。杉元の心遣いは嬉しいが、今は未来のために前進あるのみ──

 * * *

 早朝、小夜子は目を覚ました。まだ眠たい目を開けて天井を見上げると尾形の寝顔があったので一発で目が覚める。尾形は壁に寄りかかった状態で眠っており、あぐらをかいている彼の脚を枕にして寝ていたと理解し、すぐに飛び起きた。肩までかけられていた尾形の外套がはらりと落ちる。
 そういえば昨夜はカムイホプニレのあと男達と宴会になり、トノトを飲んで盛り上がった気がする。チセの中で村の男達や杉元、アシパ、谷垣が寝転がっているのがその証拠だろう。まだ誰も起きていない。
 二日酔いをするほどの量は飲めないので胃もたれや吐き気はないが、少し気分を落ち着かせたい。外套をそっと尾形にかけると、皆を起こさないよう静かに外に出た。

 東の空が明るくなっている。夏なので寒くはないが、昼間よりも涼しいそよ風が肌を撫ぜて心地良い気分にさせてくれた。深呼吸をして背伸びすれば、眠気は完全に消え去った。
 チセを出る時に持ち出した巾着袋から櫛を取り出し、三つ編みをほどいて梳き始める。黒く艶のある髪を梳きながら、幼馴染みの髪を切るなという言葉を思い出した。新しいかんざしを挿す日が待ち遠しく、小さくはにかむ。

「男の膝枕でよく寝られるもんだな」

 突然背後から声をかけられて叫びそうになったが、何とか堪えて振り返れば尾形がチセから出てきていた。

「お……おはよ……」

 じっと尾形が見つめたまま小夜子に歩み寄ってくる。無言で迫るものだから妙な威圧感に圧され、小夜子は後ずさりをする。どうしたのと聞いても答えてくれない。
 やがて背中に木の幹が当たる。おまけに尾形が両手を幹に当てて檻に閉じ込めるようにしてきたので退路がない。
 尾形の顔が近付いてきたかと思うと、再び唇を重ねてきた。小夜子の唇の柔らかさを堪能するかのようにゆっくりと食む。まだこの行為に慣れていない小夜子はどうしたらいいのかわからず、尾形にされるがままだ。

「んっ……」

 くぐもった小夜子の声が漏れると、尾形は一度離れる。

「口、開けろよ」

「……え……?」

 小夜子は言葉の意味を理解出来ず小さく声が漏れたところを、尾形がすかさず唇を重ねて舌を絡めてきた。大雪山でもされた行為で、何だかゾクゾクする。体に上手く力が入らず、尾形の服にしがみついて必死に足を踏ん張った。

「っ……はぁ……」

「何だ、これくらいでもう根を上げるのか」

 尾形は男性経験のない小夜子がどんな反応を示すか楽しんでいる。
 こういうものはお互い好いた者同士でやるのではないだろうか。昔から無表情だった男だが、相変わらず何を考えているのかわからない男だ。
 ほくそ笑みながら見下ろす尾形に、小夜子はふつふつと怒りがわいてきた。されるがままは癪なのでちょっと仕返しをしよう。小夜子は尾形の髪を乱してやろうと彼の頭に両手を伸ばすが、それを察知したのか尾形がすかさず小夜子の耳元に口を寄せて息を吹きかける。やはり大雪山の時と同じく小夜子の肩がぴくりと跳ね、尾形は小さく笑う。

「小夜子は耳が弱いんだよなぁ」

 耳とゼロ距離で囁かれるゾクゾクとした感覚に耐え切れない。行き場を失った伸ばした手は尾形にしがみつくような形で首にまわされ、首元に顔をうずめる。
 それでも尾形は耳に息を吹きかけ、ぺろりと舌先で舐めてきた。

「やっ……ぁ、は……」

 小夜子の呼吸が少し荒くなり、切なげな声を出すので尾形は面白がって続けていた。しかし、これ以上やると歯止めがきかなくなりそうなのでここまでにしておこう。
 小夜子から顔を離し、呼吸を整えようとしている彼女の髪を見た。黒髪は朝日に照らされて艶やかに輝いている。『小夜子はかんざしを使いたいから髪を切りたくない』というアシパの言葉を思い出した。髪を一房手に取り、滑らかな手触りを楽しんだあと、一本のかんざしを小夜子に差し出した。

「ほら」

 新たなかんざしも木製だった。花の模様が彫られているが、前の模様とは少し異なっている。

「……また作ってくれたの?」

「暇な時間はあったからな」

 道中、たまに尾形がいなくなる時があった。その時に少しずつ作ってくれたのだろうか。それにこの三日間、谷垣の監視以外にやることもなかったので、その間に作業をしていたのかもしれない。
 何にせよ、こんなに早く貰えるとは思ってもいなかった。旅の最中、限られた道具を用いて短期間で仕上げたのだと思うと込み上げるものがある。

「いいの……?」

「いらんなら薪にする」

「い、いる!」

 ひょいとかんざしを高い位置に持ち上げれば、小夜子が慌てて手を伸ばす。尾形よりも背の低い彼女が届くはずもなく、取り返そうと精一杯背伸びをするのが何とも可愛らしい。
 あまり意地悪をしてもかわいそうかなと思い、尾形はかんざしを小夜子に手渡した。

「ありがとう、百之助君」

 受け取ったかんざしを両手で包み込むようにして握って満面の笑みを向けられた。
 子供の頃より器用に彫れたとは思うが、店で売られている商品の優美さには劣る。そんな出来栄えでもこんなに喜んでくれるなんて、作り甲斐があったというものだと尾形は口の端を吊り上げた。
 小夜子は早速髪をまとめ、かんざしを挿した。尾形にかんざしが見えるよう、くるりと回る。

「どう? 似合う?」

「……ああ」

 静かに頷いただけだったが、小夜子はそれで充分だった。

 太陽がさらに昇り、杉元達がようやく起床した。いつまでもここに滞在しているわけにもいかないので、旅を再開するために準備を進める。
 白石、インカマッ、チカパシは釧路の街へ向かっただろう。姉畑の捜索で三日も経ったのだからきっと心配しているはずだ。早く彼らと合流しなければ。
 小夜子は一足早く準備を済ませると、杉元のところへ寄って一緒に小銃を覗き込んだ。

「銃、壊れてしまいましたね」

「ああ、修理に出さないと……」

 水に落ちた小銃を壊してしまった杉元に聞こえるよう、尾形がわざとらしく溜息をつく。

「銃身に水が入った状態で撃つとはな……軍隊で何を教わってきたのか……」

 盛大に皮肉を込めた言葉に杉元が反応し、尾形を睨み付ける。
 確かに銃の扱いにおいては尾形には劣るが、ヒグマを前にしたらお前だって同じことやるはずだ。そう文句を言いたいところだが、鼻であしらわれて嫌味を言われるだろうからぐっとこらえる。

「その最新式の小銃、俺が気球乗る時に第七師団から奪い取ったやつじゃん。返せよ」

「これは三八式歩兵銃だ。この表尺を見ろ。2400mまで目盛りがあるな? お前の三十年式は2000mまで。この銃から採用された尖頭弾の三八式実包なら2400m先にまで弾が届く」

「だから何だよ!」

「お前が使っても豚に真珠ってことだ」

 値打ちがわからない者に、価値があるものを与えても無駄である。つまり、銃の扱いが粗雑で射撃が苦手な杉元に、最新式の三八式歩兵銃を与えても使いこなせないという意味だということに杉元は憤慨した。

「まあまあ、人にはそれぞれ得意不得意がありますし……」

 苦笑しながらなだめる小夜子の言葉に、杉元は怒りをおさえる。
 言われてみれば確かにそうだ。銃の扱いや射撃に関しては尾形にはかなわないが、接近戦では彼よりも腕っぷしがたつと自負している。

「それもそうだな……小夜子さんは仲を取り持つのが得意だねぇ」

「争いごとが苦手なだけですよ」

 しみじみと言う杉元の言葉に小夜子は苦笑する。昔からそうなのだ。友人同士が喧嘩した時も小夜子が仲裁に入って仲直りの手助けをよくしていた。喧嘩した当人達も他の友人も、悪化した関係を続けるのも居心地が悪くなる。そのような空気は苦手なので、小夜子が率先して仲を取り持ってきた。

 各自準備を終えてチセの外に出れば、谷垣も既に準備を済ませていた。

「谷垣はこれからどうするんだ?」

「アシパを無事にフチのもとへ帰す。それが俺の役目だ」

 谷垣は義理堅い男だ。世話になったフチは孫娘が無事に戻ってきてくれることを願っている。恩義あるフチの願いをかなえたいため、杉元達に同行することを決めた。
 さて出発するかと一行が顔を見合わせていると、キラウがオハウをよそった椀を持ってきた。それは昨日、毒矢で死んだヒグマのオハウだった。

「出発前に食べていけ。昨日お前らに食べさせるのを忘れていた」

「悪いが急いでる! 世話になったぜキラウ! 達者でな!」

 狩猟で獲れただけなら良かったが、何せ姉畑支遁が恋して合体したヒグマだ。さすがに食欲がわかないと判断した杉元は、キラウに別れを告げてコタンを出発した。


2020/12/07

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