第15話 釧路湿原


 道中、白石がマムシに噛まれる騒ぎがあったものの、杉元一行は釧路湿原へ辿り着いた。広大な湿原にはタンチョウヅルが何羽もいる。白い羽毛に覆われ、一部には黒い羽が混ざり、頭頂部は鮮やかな赤色の鳥類だ。
 遠くで餌を探すタンチョウヅルを眺めながら、白石と尾形は座っていた。お腹空いたねと白石が話しかけるも、尾形は何も言わない。
 そもそも釧路方面に来た理由は、刺青の囚人の捜索のためである。加えて、近辺にアイヌのコタンがあるのでそこで情報収集してはどうだと小夜子が提案したのもある。彼女は以前この辺りにあるアイヌのコタンを訪れたことがあるというのだ。
 白石が気まずい空気を感じていると小夜子が戻ってきた。長さの異なる木の枝を抱えた彼女は、後頭部の怪我も右手の火傷もすっかり癒えている。

「あっ、小夜子ちゃんおかえり!」

 尾形と二人きりの気まずい雰囲気に我慢の限界が来た白石は、両手を振って小夜子に満面の笑みを向ける。これから食事をするため、彼女は簡易的な囲炉裏を組み立てる長い木の枝と、焚き火用の短い木の枝を調達してきたのだ。最初は白石も同行すると言ったのだが、マムシに咬まれて大変だったから休んでいてと言われたので尾形と一緒に待機となっていたわけである。
 少し遅れて、食事用の獲物の捕獲に向かっていた杉元とアシパも戻って来た。杉元は捕獲したタンチョウヅルを両手でしっかりと抱えている。
 羽をむしって下処理を済ませたタンチョウヅルは、いつものようにオハウとなって調理される。食事をしていると、江戸時代では関東にも鶴が飛来して徳川の将軍も鶴の汁を食べていた話があることを白石が教えてくれた。ただ、それも数が減っていき、関東では鶴は見られなくなったという。
 杉元はタンチョウヅルの肉を食べたが、何とも言えない表情を見せた。泥くさいような、ムッとする変なにおいがするのだ。
 今までなら獲物を捕獲すると真っ先にアシパが喜んでいたのだが今回は違っていた。罠でタンチョウヅルを捕獲した際、アシパの表情に喜色はなく、眉を寄せて渋そうな顔をしていたことを杉元は思い出す。彼女が嬉しそうにしていなかったのはこの独特な風味を知っていたからなのだが、せっかく捕獲したのだから食べようと言ったのは杉元なので、こうして調理したわけである。
 肉と相性の良いギョウジャニンニクなどを入れても消えないこの泥臭さに、杉元はようやくアシパの言葉と表情に納得した。
 しかし、命を頂いた以上、口に合わないからといって捨ててはいけない。全員で完食したあと、アシパはふと頭に浮かんだ言葉を杉元へ向ける。

「そういえば、杉元はどうして金塊が欲しいんだ?」

 アシパの問いに、杉元は金塊を求める理由をまだ言ってなかったことを思い出す。

「戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れていって、目の治療を受けさせてやりたいんだ」

 親友であり日露戦争で戦死した寅次の妻・梅子は目の病気を患っている。次第に視力を失っていくというもので、子供の成長が見られないなんて不憫で仕方ない。だから彼女のために金塊を求めるのだ。

「『惚れた女のため』ってのは、その未亡人のことか?」

 杉元と初めて出会った時、尾形は金塊が欲しい理由を聞いていた。惚れた女というのが親友の妻だと知ると、尾形は口の端を吊り上げて隣の杉元を見る。
 白石は初めて聞くようで「そうなの?」ときょとんとする。
 アシパは何も言わなかった。静かに、少し顔を伏せて何も言わない。
 杉元もそれ以上語ることはないのか、はたまた尾形には話したくないのか口を閉ざす。

「百之助君、あんまり詮索するのも……」

 居心地が良いとはいえない静けさの中、小夜子が控えめに尾形をたしなめる。今目指すべきは網走監獄であり、金塊探しの理由を深く詮索しなくても良いだろう。親友の妻の目の病気を治してあげたいという杉元の気持ちが知れただけで充分だ。

「フン! トリ! フン! チカ!」

 誰もが口を閉ざしていると突然アシパが立ち上がり、服の裾を捲り上げて大きく動き始めた。

「アシパさん、どうしたの?」

「サロルンリセ。釧路に伝わる鶴の舞だ」

 捲り上げた裾を鶴の羽のようにバサバサと動かすのは『ホパラタ』という。鶴はヒグマとはとても仲が悪く、羽をバサバサさせて喧嘩をするので、ヒグマに遭遇したらホパタラすると逃げていくといわれている。

「へえ……でも、どうして急に踊ったの?」

「別に……鶴食べたから……」

 体全体を使って大きく動いたため、アシパの息は荒くなっていた。何の前触れもなく踊り出したのでどうしたんだと杉元が問うも、アシパは愛想笑いではぐらかすばかり。
 ぎこちない笑みと、ほんのり赤みを帯びた頬。深い青い瞳は杉元を見ようとしない。もしかして彼女は杉元に恋心を抱いているのだろうか。小夜子は初めて目にする態度のアシパに、お年頃で可愛らしいなと微笑む。
 尾形もアシパの変化に気付いて小さく笑い──彼女の背後のさらに遠方で動く人影を見つけた。

「……ん? こっちに誰か来るぞ」

 杉元達もそちらを見やれば、大人と子供が一人ずつ近づいてきている。大人は見覚えがある。占い師のインカマッだ。もう一人はアイヌの少年のようであった。

「あら? あれってインカマッさんと……チカパシ君じゃない?」

「本当だ……何でこんなところに?」

 小夜子とアシパは、見知った顔が釧路にいることに驚きを隠せないでいる。

「知ってる子?」

「アシパちゃんのコタンの子です」

 杉元が少年と知り合いなのかと聞けば、小夜子が説明した。アシパのコタンは小樽付近で、ここは釧路だ。そんな遠い距離をやって来たのかと杉元も驚く。

 インカマッとチカパシは杉元達のところまで辿り着くと、見知った顔に少しだけ胸を撫で下ろした。

「遠くからアシパが踊ってるの見えた。やっと見つけた!」

「私を捜していたのか?」

「谷垣ニパと小樽から捜しに来たんだけど、谷垣ニパが大変なことに!」

 アシパの祖母に世話になった恩を返すため、コタンに残っていた谷垣に何があったというのか。杉元達はインカマッに事情を聞いた。

「谷垣ニパは私達を巻き込みたくなくてはぐれました。谷垣ニパは昨日から追われています」

「誰に追われてる?」

 平穏ではない物言いにアシパが眉を顰める。

「このあたりで最近、家畜や野生の鹿を斬殺して粗末に扱う人間がいるらしく、『カムイを穢す人間がいる』と……怒った地元のアイヌは谷垣ニパが犯人だと誤解して殺気立っています」

「アシパさん、さっきのオス鹿……」

 インカマッの話を聞いて、杉元とアシパは少し前の光景が頭に浮かんだ。タンチョウヅルを捕獲する前、森の中を歩いていると若いオスのエゾシカが殺されていた。周囲には人間の足跡があり刃物でメッタ刺しにされ、死んで数時間は経っていると思われた。猟師なら獲物の毛皮をズタズタにして、夏なのに肉の処理を行わず何時間も離れることはしない。
 そこで杉元は、詐欺師の鈴川聖弘が言っていた囚人の話を思い出した。きっとその犯人が鈴川が話した人間かもしれない。

「よし、俺達で真犯人をとっ捕まえて、阿仁マタギを助けに行こう」


 インカマッの話によればこうだ。
 四日前、彼女達は地元のアイヌの男達と出会った。その際、谷垣が持っていた小銃を見て男の一人がその銃は二瓶鉄造の物ではないかと声をかけてきた。男は十年以上前、二瓶と一緒にヒグマを狩りに行き、二瓶の腕が良すぎてヒグマがこの土地からいなくなるかと思ったという。
 谷垣が持っていた銃はまさに二瓶の村田銃だった。銃床には七本の小さな傷が刻まれており、それでアイヌの男は二瓶の銃だとわかったらしい。持ち主であった二瓶は亡くなったため、谷垣が引き取ったというわけだ。

「あの出来事がその後、まさかあんな事態になるとは……」

「ハンッ! 占い師のくせにぇ?」

 苦い表情のインカマッを見て、占い師なのにそれを予見出来なかったのかとアシパが盛大に鼻で笑った。
 初対面の印象も良くなかったし、占いで白石をたきつけた経緯もあるので、アシパがインカマッに対して好意的な態度を取らないことは知っているが、ここはインカマッの話を聞くのが先だ。
 小夜子はアシパにやんわり注意すると、インカマッに話を続けるよう促す。

 それから森の中で一人の和人の男に出会った。彼はナタで木を切り倒そうとしていたが、どうやら違ったらしい。木にはクマゲラによる楕円形の穴が掘られていて、彼はそれを真似しようとしたという。
 男は北海道の動植物を調査している学者の姉畑支遁と名乗った。生き物に詳しく、チカパシがとても懐いたので谷垣とインカマッは油断した。
 その日は姉畑と一緒に野宿をしたのだが、翌朝、姉畑に谷垣の持っていた村田銃と弾薬を持ち去られてしまった。おそらくその銃が野生動物へと向けられ、新たな犠牲を生み出したのだ。

「チッ……銃から離れるなとあれほど……」

 常に小銃を手元に置いて警戒を怠らない尾形にしてみれば初歩的な失態である。ここにいない谷垣へ舌打ちをした。

「囚人に学者がいるってのは聞いたことがある。あちこちで家畜を殺して回って、牧場主に見つかって大怪我させて捕まったとか」

 監獄にいた頃、学者の囚人の話を聞いたなと白石が言った。鹿がむごたらしく殺されたというのなら、きっとその囚人が真犯人だろう。

「鈴川聖弘から聞いた情報と一致するぜ。そいつが入れ墨脱獄囚二十四人の一人だ」

 真犯人は二瓶の村田銃を持っている。それを目印に、杉元達は手分けして捜すことになった。

 * * *

 はぐれたら釧路の街で落ち合おう。アシパの言葉に頷いたあと、尾形は小夜子を連れて森の中へ入って行った。

「百之助君、谷垣さんも第七師団って聞いたんだけど、もしかして顔見知り?」

「ああ……谷垣を知っているのか?」

「アシパちゃんのコタンに寄った時、毒矢の傷の手当てをしたの。私、谷垣さんが動物をむごたらしく殺す人とは思えないわ」

 アシパのコタンでという言葉に、尾形は数ヶ月前の光景を思い出す。
 鶴見中尉を裏切った玉井伍長らを返り討ちにしたであろう谷垣を始末するため、尾形は二階堂を連れて谷垣を狙っていた。その時、行商の格好をした人間が家の中に入るのを見かけた。
 そうか、あの時家に入った人間は小夜子だったのかと尾形は納得した。

「……ま、あいつを見つければわかる」

 ダァァァン、と銃声が響いた。それほど距離は離れていない。
 尾形は銃声が聞こえてきた方向を探り、すぐさまそちらへ向かう。小夜子も彼のあとを追ってしばらく歩けば、小銃を持った数人のアイヌの男に囲まれた谷垣を発見した。
 濡れ衣だと主張する谷垣に、一人が小銃で殴りかかる。殺してやる、と殺気立っている。
 すぐに止めなければと小夜子が焦りを見せた時、尾形が小銃を空に向けて発砲した。谷垣やアイヌの男達が何事かといっせいに振り向く。

「久しぶりだな、谷垣一等卒」

「尾形上等兵!」

「……小夜子?」

 谷垣はかつての仲間だった尾形に、アイヌの男達は小夜子に驚いた表情になる。
 ああ、やはり彼らだ。小夜子は見知ったアイヌの男達に安堵し、少しだけ緊張がやわらいだ。

「みなさん、お久しぶりです」

「小夜子、この男はあんたの知り合いか?」

「はい。彼は犯人ではありません」

 一人の男が小夜子に話しかけてきたので頷いた。何とかして谷垣の嫌疑を晴らしてやりたい。
 その一方で、尾形は谷垣を見据えている。

「谷垣、貴様は小樽にいたはずだ。何をしにここへ来た? 鶴見中尉の命令で俺を追って来たのか?」

「俺はとっくに下りた! 軍にもあんたにも関わる気はない。世話になった婆ちゃんのもとに孫娘を無事帰す……それが俺の『役目』だ」

 谷垣は尾形をまっすぐ見据え、釧路まで来た理由を述べた。
 小夜子は短い期間しか接していなかったが、谷垣が嘘をつく人間ではないということは自信を持って言える。正直さを体現した男、とでも言えば良いのだろうか。それに彼はマタギなので動物を惨殺するわけがない。

「頼めよ、『助けて下さい尾形上等兵殿』と」

 尾形は第七師団を無断で抜け出してきた。谷垣は脱走兵となった自分を追いかけてきたに違いない。そう思いながら小銃のボルトを操作して空の薬莢を排出し、次の弾をすぐ撃てるようにする。
 小夜子は軍での二人の関係について知るよしもない。だが、尾形は場を収めようともせず、事の次第によっては谷垣やアイヌの男達を撃つのではないか。剣呑な雰囲気に小夜子にも緊張感が走る。

「ちょっと待って、百之助君」

「銃を捨てろ!」

 小夜子が制止するよう声をかけても、アイヌの男が尾形に向かって叫んでも、尾形は小銃を手放すことはしなかった。

「あんたの助ける方法なんて、この人達を皆殺しにする選択しか取らないだろう。手を出すな、ちゃんと話せばわかってくれる」

「皆殺し……?」

 谷垣の発した不穏な言葉に、アイヌの男が眉を寄せる。

「ははっ、遠慮するなって」

 尾形は笑った。純粋なものとも、緊張感を楽しんでいるものとも違う。淀んだ感情が這い出てくるような、いびつな笑みだ。

「鳴海さん、頼む。彼らと知り合いなら伝えてくれ。俺は何もしていないと」

「テッポ オスラ!」

 谷垣は小夜子に懇願し、アイヌの男は銃を捨てろと尾形に向けて銃を構える。

「俺に銃を向けるな。殺すぞ?」

 尾形は言葉で牽制するに留めることはしない。自分に銃口を向けたのだからと相手を敵とみなし、男と同じように銃を構えた。

「百之助君、待ちなさいって言ってるでしょ」

「小夜子はどいてろ。あいつが先に銃を向けたんだ」

 言っても聞かないので小夜子は尾形の小銃の銃口を掴み、自分の胸に当てる。これならきっと撃つことはしないはずだ。
 考えたとおり、尾形は引き金を引かなかった。それどころか、薄ら笑いを浮かべていた表情がわずかに強ばる。

「テッポ アマ ヤン」

 一触即発の場に、アイヌの老爺が現れて銃を下げろと言った。
 小夜子は彼のことも知っている。谷垣を取り囲んでいるアイヌの男達のコタンの村長だ。

「イランカラテ」

 小夜子は一言挨拶を述べて彼に歩み寄る。

「ネア オッカヨ アナ ネウカ ウェニ ソモ クキ」

 ──その男は何も悪いことをしていません。
 村長に訴えかけると少しだけ目尻に皺を寄せて微笑するが、すぐに険しい顔へ戻る。

「コタン オレネ チトゥラ ワ パイェアシ」

 村長は『村へ連れて行く』とだけ言った。
 小夜子と顔見知りであることと、谷垣の嫌疑の件とは別問題だということだろう。谷垣の無実を証明する証拠が何もないため、残念ながら小夜子の訴えは受け入れられなかった。

 * * *

 谷垣は捕えられ、コタンへ連行された。尾形と小夜子もアイヌの男達の後ろからついて行く。
 コタンに到着すると谷垣は両手を子熊の檻に繋がれた。村人達が周囲を取り囲み、彼の処遇について話し合いを始める。

「殺しては駄目だ!」

「でも、逃がせば同じことを繰り返す! 家畜を殺されれば俺達が飢える!」

「和人なんだから警察に連れて行け!」

 部外者の尾形と小夜子は、やや離れたプという高床式の貯蔵庫のあたりで様子を伺うことにした。

「話し合いというより喧嘩だな」

 プに腰かけた尾形が独りごちると、小夜子は眉を寄せて尾形を見上げる。

「まずは谷垣さんを助けることが先なのに、さっきの態度は感心しないわ」

「最短かつ確実な方法だ」

「それが駄目だって言ってるの。殺すのはもちろん、傷付けることも禁止よ」

「敵意を向けられちゃ応じるしかない」

 子供の頃の尾形はここまで攻撃性を露わにすることはなかったのに。戦争での経験が彼を変えてしまったのだろうか。
 小夜子は谷垣への誤解をとく方が先だと言うが、尾形は谷垣を助けるなら敵意を向けるアイヌを撃つと言い返す。これでは平行線を辿るばかりだ。小夜子は困惑し、眉間の皺が深くなる。

「もう……分からず屋……」

 意見が対立する尾形と小夜子のように、村人達の話し合いも勢いが増していく。警察に連れて行ってもたいした罪にはならないだろうから、自分達のやり方で谷垣を裁こうとまで言い始めた。
 アイヌの刑罰に死罪はなく、耳や鼻を削ぎ落とす方法があり、最も重いものに足の腱を切って追放するものがある。一人が耳と鼻を削いで足の腱を切ると言い出すと、他の村人達がそうしようと同意した。
 谷垣が話を聞いてくれと待ったをかけたちょうどその時、杉元が村人達をかきわけて谷垣の前に立った。谷垣が捕まったという知らせを聞いてコタンに来たのだ。

「杉元さん……良かった、来てくれた……!」

 小夜子は杉元の登場にホッと胸を撫で下ろした。
 アイヌにはアイヌの掟がある。いくら小夜子が顔見知りであっても村人ではないので彼らの怒りを鎮めることが出来なかったが、きっと杉元なら尾形より平和的に解決へ導いてくれるはずだ。

「お前もこの男の仲間か? どけ!」

 体格の立派な強面の男が杉元を睨み付けて殴った。

「まあまあ、落ち着きなって」

 杉元は静かな口調で男に話しかけるが、男は何度も杉元を殴りつけた。もっとやってしまえ、と周囲の村人がわきたつ。
 あまりにも無抵抗な杉元に、アシパは偽アイヌ騒動のことを思い出した。樺戸監獄の脱獄囚が皆殺しにされたあの光景を。

「杉元!」

 この村の人達も手にかけてしまうのではないかと危惧したアシパが呼びかけるが、杉元は何も言わずに彼女に待ってくれと制した。俺は大丈夫だからと言わんばかりに微笑み──そして男を勢いよく一発殴った。力のこもった一撃に、強面のアイヌの男は後ろによろめき、そのまま倒れて気を失った。
 これにはアシパも谷垣も小夜子も真顔になって言葉を失った。唯一、尾形だけが笑みを浮かべて手を叩く。

「犯人の名前は姉畑支遁。上半身に入れ墨がある男だ」

 言って、杉元は谷垣のシャツのボタンを弾けさせて胸元を露わにさせる。厚い胸板には入れ墨はなく、野性味を感じさせる胸毛が生えているだけだった。

「この谷垣源次郎は寝ている間に、犯人に村田銃を奪われたドジマタギだ!」

 杉元は谷垣のたくましい胸板に手を伸ばし、びっしり生える胸毛を一掴みして勢いよく引き抜き、手をゆるめて胸毛を手放す。毛が抜かれた痛みに谷垣は一瞬顔をしかめ、そよ風に乗った胸毛はアシパの顔へ流れ、鼻先をくすぐってくしゃみを引き起こした。

「俺達が必ず姉畑支遁を獲ってくる」

 杉元の提案に村人達は今一度話し合い、最終的な判断は村長が下した。その結果をキラウという男が杉元へ伝える。

「三日やる。三日以内に真犯人とやらをここへ連れて来い。それまでその男は預かる。村の者達にはその男への刑罰を待たせよう」

 ひとまず三日間の猶予を貰えたことに杉元達は安堵する。

「小夜子、すまないが村長が決めたことだ」

 いくら顔見知りの頼みでも、村長の決めたことには従わなければならない。小夜子の意見を聞き入れてやれなくて申し訳ないとキラウが謝るが、小夜子は首を横に振った。

「いえ、キラウさんは悪くありません。真犯人を捕まえますから待っていて下さい」

 小夜子がそう言うとキラウは村の男達のところへ戻り、彼と入れ替わるように杉元とアシパが寄ってきた。

「小夜子さんが来たコタンってここだったんだね」

「ええ。ちょうど一年前に来たことがあるんです」

 アシパのコタンを離れて遠くまで行ってみようと決めた時の目的地は釧路湿原だった。多くの動植物を見てみたいと思ったのがきっかけだ。

 設けられた期間内に姉畑支遁を見つけなければ谷垣に刑罰が下るので、のんびりしていられない。三人は檻の中に閉じ込められた谷垣に聞き込みを開始した。

「姉畑支遁と出会った夜に、奴が話していたことがある」

 インカマッとチカパシが眠りについたあと、谷垣は姉畑と動物について話していた。
 マタギをしていた谷垣がカモシカのことを話していた時のことだ。動物の調査をするなら熊に気を付けろと告げると、姉畑の目の色が変わった。力強く美しいヒグマのことをもっとよく知りたいという、当時の姉畑の言葉を谷垣が思い出して口に出すと、杉元が焦りの表情になる。

「それやばいやばい! ヒグマに恋しちゃったら……入れ墨ごと喰われちまうだろうが!」

「姉畑支遁がヒグマと出会う前に……ウコチャヌしようとする前に捕まえないと!」

 ウコチャヌというのは、動物のオスとメスが行う交尾のことだ。姉畑は人間なので厳密に言えばウコチャヌという表現はふさわしくないだろうが、かといって人間同士が交わるオチウとも異なるため、アシパは前者を選んだものと思われる。
 キラウによれば森で殺されていた鹿は穢されて──つまり獣姦されていた。ただ殺すのではなく穢しているのだから村人が怒り狂うのも納得出来る、と小夜子は話を聞きながら小さく頷く。

「私も一緒に行きます」

 アシパは、もしもの時を考えて谷垣を託すため尾形のところへ向かおうとした時、小夜子が杉元とアシパにそう告げた。

「えっ、小夜子さんはここで待ってていいんだよ?」

 力になってくれるのは嬉しいが、わざわざ同行しなくても大丈夫だと杉元が気を遣う。しかし、それでも小夜子は同行するとの言葉を曲げなかった。
 何かあったのかとアシパが問えば、小夜子が珍しく怒りの表情を垣間見せたので杉元は少しばかり驚く。

「あの分からず屋と意見が平行線を辿って埒が明かないので」

 小夜子が尾形のいるプを視線で示した。分からず屋というのが尾形なのだと杉元とアシパは理解した。
 谷垣への誤解をとくこともせず、彼を助けるなら村人を殺してしまおうという尾形と意見が対立したという。

「まあ、俺は別に構わないんだけど……」

 小夜子は尾形と再会してから、たいてい彼がそばにいた。幼馴染みで気心の知れた相手だからと思っていたが、そんな二人にも意見の食い違いはあるのだと知る。

 杉元とアシパは小夜子に見送られながら尾形のところへ向かった。

「私達が三日以内に姉畑支遁を連れて戻れなかった時は、尾形が谷垣を守ってくれ」

「あの子熊ちゃんを助けて俺に何の得がある? 奴は鶴見中尉の命令で俺達を追って来た可能性が高い。鶴見中尉を信奉し、造反した戦友三人を山で殺す男だ」

 尾形は子熊の檻をちらりと見る。小夜子が檻のところにいるが、尾形の位置からは死角になる場所に立っているため足元しか見えない。意図的に隠れて檻の中の谷垣と何かを話しているようだ。足元しか見えない小夜子の姿をねめつける。
 一方、杉元は三人の兵士と聞いて数か月前の出来事を思い出す。アシパと出会ったあと、雪山で遭遇した第七師団の追跡者のことを。

「谷垣と行動していた三人のことか? あいつらを殺したのはヒグマだ。俺がその場にいたんだから間違いない」

「ヒグマ……?」

「谷垣はマタギに戻りたがっていた。足が治ったあとも軍に戻らず、フチの家にいたと聞いた。谷垣に何かあればフチが悲しむ」

「アシパさんの頼みを聞かねぇと、嫌われて獲物の脳味噌貰えなくなるぜ」

 山の中の食事はアシパの狩猟の知識がおおいに役立っている。その彼女に嫌われたら食事が出来ないぞと杉元が言い添えると、尾形はアシパをじっと見下ろしたあと、口の端をわずかに吊り上げる。

「……言っとくが、俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ」

 離れたところでは村人が集まって杉元達の様子を伺っている。敵意を込めた視線を送る村人の姿に、アシパは緊張感を走らせた。
 急がなければと焦りつつも、姉畑捜索に向かう前にこれだけは言わせて欲しいと尾形を見上げる。

「尾形、頼む。小夜子の考えを優先して欲しい」

 そう言い残すと、杉元とアシパは子熊の檻の前に残った小夜子のところへ戻って行った。
 小夜子の名前を出したのは、そうすれば誰も傷付けることなく谷垣を救い出してくれると踏んだのだろう。やはりアシパは賢い子だ。
 二人の背中を、尾形は笑みが消えた無表情で見つめていた。


2020/11/24

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