第12話 大雪山


 鯉登少尉を退けたあとの飛行船にアシパが加わり、白石と共に船体と繋がる縄を伝って飛行船に乗り込んだ。

「ふー、アシパちゃんってば大胆なことするねぇ」

 白石が突っ込んだ木に、まさかアシパが待ち伏せていたとは。きっと飛行船の進行方向にあの大木があることに気付き、白石に飛び乗って合流しようと考えたのだろう。賢い子供だと改めて感心させられる。
 そのかたわらでは杉本が第七師団の兵士から奪った三八式歩兵銃を尾形がじっくり眺めている。この銃は第七師団出奔時にはまだ導入されていなかったものだ。新しい銃を入手出来たことに、尾形は態度には出さないが上機嫌であった。
 一方、小夜子はすぐに杉元の傷の具合を診た。右肩に撃ち込まれた銃弾は貫通しているが、左胸にはまだ銃弾が残っていることに、小夜子は表情を曇らせる。

「まだ弾が残っていますが……地上で取り出す方が安全なので、すみませんがもうしばらく我慢して下さい」

「ああ。お願いね、小夜子さん」

 不安定な飛行船より、安定した地上で手当てを行う方が良いことは杉元も充分わかっている。申し訳なさそうに小夜子が眉尻を下げたので、彼女を安心させるために杉元は笑顔を向けた。
 そのかたわらで、白石が体に巻き付けた縄をほどく。飛行船を奪った時の小夜子の行動を思い出すと、一緒に飛行船に乗り込んだアシパから小夜子へ視線を移す。

「それにしても小夜子ちゃん、トリカブト持ってたの……?」

「小夜子がトリカブトを?」

 トリカブトの名前が出てアシパが反応したので、白石が飛行船に群がる兵士に投げて追い払ったのだと説明した。
 薬を扱う関係で採取したのだろうが、小夜子が猛毒植物を簡単に投げつけるという粗雑な取り扱いをする人間ではないことは知っている。どうしてトリカブトを投げたのかとアシパが問えば、小夜子は兵士に突き出した葉の残りの一枚を懐から取り出した。それは中心部に向けて深く裂け、葉の先端部分は不規則な凹凸形状で、葉全体は五角形に近い。また、小さく白っぽい斑点が葉全体に散らばっている。
 トリカブトの葉と聞いてアシパが間近でじっくり観察したあと、緊張した面持ちから笑顔へと変わった。

「よく機転を利かせたな、小夜子」

「司令部に行く前に見つけて採ってたのを思い出して」

 アシパと小夜子が顔を見合わせて笑い合う。杉元と白石は一体どうしたんだろうと首を傾げれば、二人は説明を始めた。

「これ、実はニリンソウなんです。トリカブトの葉とよく似ているんですよ」

「兵士がニリンソウとトリカブトがそっくりだということを知っていたかはわからないが、いきなりトリカブトだと言って投げられては逃げるしかなかったんだろう」

 ニリンソウは春になると白い花を咲かせる。花が咲いていればニリンソウで間違いないのだが、ニリンソウのそばにトリカブトも混生していることもあるので注意が必要だ。
 また、いくらニリンソウが食用とはいえトリカブトと同じ仲間である。少量ではあるが毒を有しているため、肌の弱い人間が葉や茎の汁に触れると水疱が出来ることもある。

「な、何だ……ハッタリだったのか……」

 肝が冷えたぜと苦笑する白石の顔や手には、大木に突っ込んだ時に出来た擦り傷が顔や手に出来ているため、小夜子は熊の油を取り出して塗ってあげることにした。傷自体は小さいのですぐ治るだろう。

「えっへへぇ……小夜子ちゃんのおててだぁ」

 小夜子が傷口に熊の油を優しく塗り込んでいるため、白石が思いきり鼻の下を伸ばす。やっぱりエロ坊主だ、と杉元とアシパが冷ややかな視線を送っていると、白石が小夜子に寄りすぎたため体勢を崩してしまった。小夜子の足がずる、と船体からずり落ちる。

「……っ」

 突然のことで声が出なかった。
 すぐに船体に捕まろうと手を伸ばしたが小夜子の手は宙を掴み、もう片方の足も船体から離れてしまった。
 ああ、このまま落ちるのだ。必死にもがいて何としてでも捕まろうとするのかと思いきや、意外なほど冷静に考える頭に自分でも驚いた。
 両親が殺されたあの夜から、私の心は生きることを諦めていたのか──
 金塊探しの旅は楽しいが、心のどこかで死を受け入れているのだと、今この瞬間自覚した。
 そんなことを頭の片隅で考えていると、下に落ちるのではなく上に引っ張り上げられた。杉元が助けてくれたのだと理解した頃には、小夜子は船上に戻されていた。

「小夜子ちゃん、すまねぇ!」

 調子に乗ってふざけすぎたと白石が頭を下げる。

「あ……いえ、大丈夫……杉元さん、ありがとうございます」

 小夜子はへたり込み、ぽかんと呆気に取られたまま無意識に杉元の左腕にすがりつく。

「まったく脱糞王はこれだから!」

 アシパがストゥを取り出し、白石に制裁を加えた。

 杉元は大事に至らなくて良かったと胸を撫で下ろして小夜子に笑いかけたが、彼女は腕にしがみついて離れようとしない。女性とこんなに密着することもそうそうないので何だか恥ずかしい。おまけに背中を向けていた尾形が今の騒動でこちらに体を向け、じっと見つめてくるので余計に落ち着かない。

「……小夜子さん、そろそろ……」

「ごめんなさい、腰が抜けて動けなくて……もう少しこのままで……」

 何とも情けない姿を見せて申し訳ないと謝る小夜子に、杉元はそんなことはないと慰めた。九死に一生を得たのだから無理もない。
 杉元としてはずっと腕を貸しても構わないのだが、尾形の視線が痛くて仕方ない。

「それにしても、危険を冒してまで俺を取り戻しに来るなんて……俺は脱獄王だぜ? 自分で逃げられたのに……」

「みんな白石はあきらめようと言った。でも助けに行こうと言ったのは杉元と小夜子だけだ」

 小夜子が助かったことに白石も胸を撫でおろしてほんの少し強がって笑うが、アシパの言葉にその強がりはなりを潜める。

「ほんと……?」

「網走では白石が必ず俺達の役に立ってくれる。お前を信じてたから助けに行こうと決めた……でも思い出したんだよ。鰊番屋で出会った変なジジイのことを」

 杉元の顔が俯き、声もより低いものへと変わった。白石は表情を強張らせる。

「お前……土方と内通してたな? ずっと土方にこっちの情報を流していたんだろ」

 杉元は命を狙う相手は躊躇なく殺す。一度でも寝返った人間は同じことを繰り返すので、裏切り者にも容赦しないだろう。
 辺見和雄の刺青の写しを土方に渡した罪悪感と、裏切りを知った杉元に殺される恐怖。これから杉元が何をするのかは明白な白石は青ざめ、飛行船の船体を伝って杉元から離れようとする。

「待て白石! 逃げるな! これを見ろ!」

 小夜子がすがりついていない右手で取り出したのは折り畳まれた刺青人皮。それは牛山経由で土方に渡った辺見和雄の写しだ。

「白石が札幌で牛山に手渡した辺見和雄の刺青の写しだ。土方歳三が俺に見せてきた。確認してみたが……」

 一旦言葉を区切ると、杉元は刺青の写しを手放した。

「デタラメの写しだった。白石は俺達を裏切っていなかった」

 ひらひらと落ちていく刺青の写しを目で追っていた白石は、杉元の言葉でいつもの調子を取り戻して明るい笑顔を見せる。

「そう、その通り! 言ったはずだぜ、俺はお前らに賭けるってな!」

 刺青の写しを偽装していたことで杉元を裏切っていないとわかると、アシパや小夜子の表情もやわらかくなった。
 旭川製の特大ストゥで白石の肛門を破壊すると牛山が言っていたのでここにいなくて良かったなとアシパが朗らかな笑顔で言えば、白石は彼がいなくて本当に良かったと肝を冷やした。

 それからしばらくの間、飛行船は空を飛んでいく。
 もしかしたらこのまま網走まで飛んでいけるのではないだろうか。そうすればキロランケ達の到着をのんびり待つことが出来ると白石がわずかに浮かれる一方で、杉元は小樽を出て二ヶ月以上経過しているので急がなければと呟いた。

「ああ、びっくりした……」

 小夜子はようやく動けるようになったので杉元から離れて尾形の隣に腰を下ろし、広大な森を見下ろす。杉元が少しでも遅ければ今頃森に落下していたはずだ。
 木々が緩衝材となれば命は助かる可能性はあるだろうが、打ち所が悪ければ死んでいたと思うとほんの少しだけ身震いした。生きることを諦めたのに矛盾しているな、と小夜子は密かに心の内で自嘲する。

「良かったな、助けたのが杉元で。俺だったら一緒に落ちていただろうなぁ」

 尾形は薄く笑い、どこか棘のある言い方なので小夜子はどうしたのかと尋ねたが、尾形は無言のまま顔をそらした。再び問いかけても何も言わないので、怪訝に思いながらもそれ以上の追及はやめることにした。

 プスン、プスン──

 動力部から奇妙な音が聞こえてきた。そちらを見れば、白石が動力部を観察したあと叩き始めた。まるで猿のような声を上げて叩くので、直し方がわからないのだろう。杉元やアシパも対応方法がわからないらしく、白石と共に騒いでいると「やかましい」と尾形が一蹴した。
 どうやら動力部が壊れたようだ。風任せに進んでいくと、大きく切り立った断崖のそばを通過する。アシパの説明によれば、ここはパウチチャシというところらしい。

「パウチチャシとは、パウチカムイが住む村という意味で、このあたりの奇岩はパウチカムイの砦といわれている。パウチカムイは淫魔であまり心の良くない神様だ。憑りつかれるとその人間は素っ裸になって踊り狂う」

「はっはっは、そんな馬鹿な……アイヌは想像力が豊かだねぇ」

 あまりにも素っ頓狂な話に、そんなことがあるものかと白石が笑い飛ばした。

 やがて飛行船は高度を落としていき、森の木々に引っかかって不時着した。これより先は徒歩で向かうしかない。
 第七師団の兵営から東に40kmほど移動出来ただろう。ただ、馬で追いかけてくる兵士が上空から見えたため、おおよその位置は把握されている。
 早く移動しなければいけないが、まずは杉元の手当てが先だ。小夜子は杉元の上半身の衣服を脱がせると、左胸に入ったままの銃弾を手持ちのピンセットで取り出した。痛み止めがない状態で手当てをしたため、杉元には我慢を強いてしまったが、「こんなものどうってことないさ」と笑顔を見せてくれたので少し安心した。
 小夜子の背負う薬箱の中には、乾燥させたヨモギの葉が入っている。漢方では艾葉(がいよう)という生薬で、止血、鎮痛、胃腸の不調など、様々な症状に効果があるが、すぐさまアシパがレタンノヤ(ノコギリソウ)を見つけてきてくれた。この植物の葉を揉んで塗れば止血の効果がある。

「鯉登少尉が撃った拳銃は二十六年式……『豚の鼻に当たってポトリと落ちた』で有名な低威力の拳銃さ。そんな銃で俺が殺せるかよ。鈴川は豚の鼻より弱かったが……」

「鈴川はやっぱり殺されたのか……」

 小夜子が血をぬぐい、アシパが葉を揉んで傷口に塗っていく。
 第七師団から逃げてきたのが杉元と白石だけだったのでもしやと思ったのだが、やはり鈴川は殺されたのだと知らされると、アシパは眉を寄せた。

 杉元の手当てを手早く済ませた一行は再び歩き出した。先頭は杉元、続いてアシパ、小夜子、白石で、最後尾は尾形の並びで進んでいく。
 森を抜けて傾斜を登り始めた時、尾形の緊張した声が一行の耳に届いた。

「見つかった、急げ! 大雪山を越えて逃げるしかない!」

 後ろを振り向けば、遠くに数名の兵士の姿が見えた。まだ距離はあるものの、馬に乗っているので追いつかれるのも時間の問題だろう。
 大雪山は北海道の最高峰である旭岳を始め、二十連峰に及ぶ標高2000m級の山々の総称である。その山を越えていくのは簡単なことではないが、後方には追手が迫ってきているので進むしかない。
 しばらく登っていくと先程まで何ともなかった天候が急に崩れ始め、風が強くなってきた。吹きすさぶ風で体感温度は低くなり、杉元達は衣服をかき寄せて体温を奪われないようにする。

「どんどん風が強くなる。雨も降りそうだ」

 空を見上げたアシパに焦りの色が見えた。狩猟で山に入り、自然の動植物の知識豊かな彼女は天候の変化にも敏感だ。
 暖をとろうにも木が生えておらず、下山しても後方の兵士に捕まってしまう。ところどころに雪が残っているが身を隠せるほどの量はないので、残雪に穴を掘って避難することも出来ない。
 小夜子も冷たい風で体温が奪われていく感覚に襲われていた。服をかき寄せる両手の指先は既にかじかんでいる。
 一行が寒さに震えて前進していると、白石がブツブツと何かを呟き、次第に奇妙な笑い声へと変わった。

「白石の様子がおかしい!」

 アシパの緊張した面持ちに、尾形は明治35年に起こった出来事──青森の八甲田山にて行われた陸軍の雪中行軍の話を思い出した。二百十名の将兵が参加したその訓練は遭難事故へと変貌し、最終的な生存者はわずか十一名であった。
 事故の要因はいくつも挙げられているが、これほどまでに冷たい風が吹き荒れているのだ。まずは体温を奪われないようにすることが必要となる。

「風をよける場所を探すんだ! 低体温症で死んじまうぞ!」

 アシパが何かないものかと見渡すと、離れた場所にユ(エゾシカ)の群れを見つけた。
 ──あれだ。あれを使って冷たい強風から身を守ろう。

「オスのユを撃て! 大きいのが四頭必要だ!」

 人数は五人だが、子供のアシパは杉元と一緒になれば一頭分減らすことが出来る。
 杉元が小銃を構えようとした時、尾形が素早く構えて発砲してオスと隣にいたメスを同時に撃ち抜いた。さらに発砲して三頭目を仕留め、続けて四頭目を狙おう──と照準を定める前に、発砲音に驚いたユは一目散に逃げてしまった。尾形が小さく舌打ちをする。

「三頭だが仕方ない! 急いで皮を剥がせ、大雑把でいい!」

 仕留めたユはオス二頭、メス一頭だった。
 皮を剥いで内臓を取り出し、空になったユの体の中に上半身を潜り込ませ、剥いだ皮は外に飛び出す足に覆い被せれば、この冷たい強風から身を守ることが出来る。
 手短にアシパが説明すると、小夜子は早速手持ちの小刀を持ってオスのユの皮を剥ぎ始めた。
 尾形も共に作業を行うが、獣の解体はアシパに教わったこのとある小夜子の方が手慣れている。そのため、尾形はユの体を動かしたり、内臓を取り出したりといった力仕事を行う。
 その近くでは杉元とアシパがもう一頭のオスのユの内臓を取り出している一方、メスのユはまだ手つかずだ。白石はどこに行ったと顔を見上げれば、いつの間にか全裸になってフラフラ歩いていた。

「白石が低体温症で錯乱している!」

「パウチカムイに取り憑かれた!」

 放っておいては低体温症で死んでしまうため、杉元とアシパが慌てて白石の捕獲に向かった。
 オスのユの処理を先に終えたので、小夜子はまだ手付かずのメスの処理を始めた。かじかんだ指先をまだ下がりきっていないユの体温で温めつつ皮を剥ぎ、内臓を取り出す。

 ようやく三頭分のユの処理を済ませた頃、杉元が錯乱する白石を捕まえてきた。
 ユは三頭しかいない。人数はどう振り分けるべきか。
 まず二頭いるうちのオスの一頭に、杉元とアシパが一緒に入ることにした。残るはオスとメスが一頭ずつ。白石は錯乱して会話が成り立たないため、尾形と小夜子で話し合うことにした。

「メスの方が小さいから、私がメスに──」

「何で錯乱した変態野郎と一緒にされなきゃいけねぇんだよ」

 飛行船で杉元に助けられてから尾形の態度がそっけないので何となく彼を避けたのだが、すぐに却下されてしまった。
 白石は服を着させてメスのユに入れて毛皮をかぶせてあげたあと、小夜子は尾形と一緒にオスのユの中に潜り込むことになった。


2020/05/26

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