第11話 第七師団潜入作戦


 もうすぐ樺戸監獄が見えてくる、と牛山が進行方向を指さした。土方とは事前に、監獄から一番近い宿で落ち合う約束をしていたという。こうして特定の場所をあらかじめ決めておけば、はぐれた場合も安心である。
 小夜子の長い髪は緩めの三つ編みにして体の前に垂らしている。こうすれば薬箱を背負うのにも邪魔にはならない。

「しかし拍子抜けだぜ。網走の脱獄囚にもこんな雑魚がいたんだな」

 尾形が意外だと言えば鈴川は気分を害するどころか、逆に詐欺師であることを誇るかのように言い返す。

「俺は詐欺師で頭を使う。暴力で人から何かを奪うような野蛮な脱獄囚と一緒にしないでもらいたいね」

「結婚詐欺だってな? 相手の女も何だってこんなしょぼくれ親父に騙されるかね」

 鈴川は米軍大佐になりすましたという。日本人よりも体格の優れた外国人を語るなんて無理があると杉元が言うが、やはり鈴川は言い返した。

「変装は基本だ。この姿は本当の俺じゃない。本当の俺なんてないけどね」

 鈴川によれば、権威を利用することも大切だという。米軍大佐や英国王軍の血を引いているなど、人は肩書のある者の言うことを盲目的に信じがちだからだ。
 実際、杉元は鈴川がアイヌの村長であることに騙された。『思い込み』によって多少怪しいことがあっても都合よく解釈しただろうと付け加えられてしまうと、杉元は返す言葉もなかった。

 監獄最寄りの宿に到着したが、再会出来たのは永倉と家永だけで、悪い知らせが二つあると言われた。
 まず一つ目は、熊岸長庵が死んだこと。外役中に脱獄を企てて射殺されたと、永倉と家永が樺戸監獄の典獄から直接聞いたという。だが、熊岸本人とは偽アイヌ騒動のあったコタンで会っているので、射殺されたという話は、脱獄された監獄側が体面を保つために偽装したものだ。
 そして二つ目は、白石が第七師団に捕まったこと。何故か脱走して第七師団に捕まったというのだ。
 住民の情報によれば白石を捕らえた兵隊は鶴見中尉の隊ではなく、旭川の第七師団本部から作業で駆り出された隊で、旭川に戻る途中であった。兵隊の数が多くて白石を助け出せなかったため、現在、土方とキロランケが白石奪還に向けて別行動をしているのだと聞いた。

 永倉と家永は杉元達と合流して月形を出たあと、旭川まで約25km手前の深川村に向かい、そこでようやく土方とキロランケと合流出来た。
 白石奪還は残念ながら失敗してしまったと土方から報告があった。白石はおそらく今頃は旭川に連れて行かれたと予測したのだが、自力で脱出したとしてもいつになるかわからないものを待ってはいられないとも付け加える。
 脱獄王とはいえ、監獄とは違うのでどのような扱いを受けているかも不明である。もしかしたら今この瞬間、皮を剥がされているかもしれない。

「尾形、見て来いよ。お前、第七師団だろ?」

「俺は今、脱走兵扱いだ」

 牛山が尋ねたが、尾形は無理だと答えた。

「キロランケは? 元第七師団だろ?」

「俺はカムイコタンで顔を見られた」

 杉元が尋ねたが、キロランケも無理だと答えた。

 一同は白石を思い浮かべる。小夜子も、アシパも、牛山も、家永も、永倉も、土方も、キロランケも、杉元も、思い出すのはお調子者の白石ばかり。
 ──まあ、いいか。あいつの入れ墨は写してあるし。
 誰もがその結論に至る中、二人が異を唱えた。

「いや……俺は助けたい」

「私も杉元さんと同意見です」

 杉元と小夜子が白石を助けたいと告げた。

「確かに軽薄で腹が立つ奴だけど……」

「白石さんの脱獄経験は必要になると思います」

 あの網走監獄すらも脱獄した経験は必ず役に立つはずだ。二人はそう言い添えたのち、最後に杉元がこう提案した。
 ──鈴川聖弘を使おう、と。

 * * *

 旭川周辺の上川盆地周辺の森の中を、鈴川聖弘は走り回っていた。必死に走り回って──いや、正しくは逃げ回っていた。誰からと言われたら、もちろん杉元や土方達からだ。
 白石を第七師団から奪還するために詐欺師として使われることに恐怖した鈴川は逃げ出し、森の中に入って駆け回る。だが、たいして体力のない鈴川が長時間走り続けることが出来るはずもなく、喉が渇いてきたので水を求めて川へ向かった。
 川沿いに自生しているフキの葉を引きちぎり、丸めて柄杓として水をすくって飲もうとしたが、葉が銃弾に撃ち抜かれて水が漏れ出してしまった。
 再び逃げ出すと木の幹に矢が撃ち込まれて足止めを喰らい、おそれおののく。
 このまま進むのは無理だと判断して方向を変え、やがて見えてきたチセに向かう。中にいるアイヌの衣服に身を包んだ男に助けてくれと叫んだものの、彼はキセルの中の灰を鈴川の足の指に落としてきた。
 熱さに飛びあがって水を求めた鈴川は物陰に隠れていた軍帽の男に銃剣で臀部を突かれ、外に逃げ出すと刀を腰に差した老人に足を引っかけられて転倒し、最後はスーツの男が馬乗り状態となり、身動きを封じられた。

 「サルカニ合戦か!」

 思わず鈴川が苦し紛れに叫ぶ。
 森に入れば逃げられると思ったのに、こいつらは化け物か何かか。

「鈴川聖弘。この三十年式歩兵銃の表尺を見ろ」

 尾形は鈴川に小銃の表尺が見えるように小銃を近付ける。

「2000mまで目盛りがあるな? この距離まで弾丸が届くってことだ。2000m以上俺から逃げ切れるか試してみるか?」

 三十年式歩兵銃の有効射程──狙って殺傷出来る距離は500m程度と言われた銃だが、それは当然狙撃手の腕に左右される。日露戦争では一斉射撃でだが、1000m以上先の突撃してくるコサック騎兵達を食い止めたこともある。

「その前にストゥでぶん殴ってやる」

「制裁棒がでかすぎる!」

 アシパが持ち出してきたストゥは、彼女の背丈を遙かに超えた長さだった。見慣れたストゥの長さではないことに杉元は愕然とする。ここ上川盆地に住むアイヌの制裁棒は巨大なのだ。

「鈴川さん、あんまり逃げちゃうとお薬を使うことになるので、おとなしく従った方がいいですよ」

 非戦闘員の小夜子ですら薬を使って逃げられないように出来ると告げれば、鈴川は「薬じゃなくて毒だろう」と呻いた。

「ねえ鳴海さん、鈴川の脳を食べると詐欺師になれるかしら?」

「それはやめておきましょう。家永さんは今のままが一番ですよ」

「まあ、嬉しい」

 隙あらば同物同治を試みようとする家永にとって、協力しない鈴川は獲物と認識しているらしい。小夜子がやんわり注意すると、家永は声を弾ませてにこやかに微笑んだ。
 人の集まる街に行けば逃げ切れる可能性はあるが、そこに辿り着くまでこの集団から逃れられないだろう。鈴川はそう結論を出し、ようやく観念して杉元達に従った。

 旭川の街中では目立つだろうということで、一行はこの上川盆地のコタンに潜伏して白石奪還作戦を考案することにした。
 このコタンのチセの素材は屋根も壁も笹の葉で出来ている。ト キタイチセ(笹葉葺屋根の家)といい、このあたりは笹の方が入手しやすいためこういう家になるとアシパが説明してくれた。ちなみにアシパの祖母が住んでいるような茅葺屋根の家はサキ キタイチセという。

「俺にどうしろって言うんだ!」

「お前が樺戸監獄に潜入して熊岸長庵を脱獄させたように、第七師団から白石を助け出せ」

「方法を考えろ。お前は詐欺師だろ」

 鈴川が途方に暮れていると、土方と永倉が二人して圧力をかけた。戦争帰りの杉元や尾形も恐ろしいが、幕末を生き抜いた老人も恐ろしいと青ざめる。
 さらには、協力しないのなら杉元に皮を剥がされ、この計画が失敗すれば第七師団に皮を剥がされると脅された。最悪の結末を避けるには手を貸して計画を成功させるしかないのだ。

 白石が旭川第七師団の兵舎のどこにいるか、中に潜入して探らなければならない。それならば関係者になりすます方法が成功率が高そうだが、カムイコタンの一件で警戒しているだろう。よほどの関係者でなければ教えないはずだ。
 では軍の上級将校になってはどうだという案が出たが、これも却下となった。軍は上に行くほど横の繋がりが強いため、架空の上級将校は簡単に見抜かれるのだ。

 全員、沈黙した。他に何か良案はないものかと考えあぐねている時、屋外で犬が鳴いた。それを聞いた鈴川は一人の男の名前を口にする。

「犬童四郎助はどうだろうか」

 網走監獄の典獄・犬童四郎助。
 犬童の名前を聞いて囚人達はその人物の顔を思い浮かべたが、お世辞にも鈴川とは似ても似つかない。

 実在の人物になりすますということは、その人物と似ていない部分を減らすということだと鈴川は変装について説明を始めた。
 犬童四郎助に変装するにはまず髪を切り、眉毛も薄くする。短くした髪を前に流してみると、何となく似てきた気がすると牛山が唸る。

「第七師団内に網走監獄の典獄と親しい人間がいる可能性は低いが、よほど似ていないと多少面識のある人間にならバレちまうぞ。大丈夫か?」

 計画を失敗させるわけにはいかないので尾形も気にかけて問うと、土方が犬童の顔を思い浮かべながら彼のことを話す。

「犬童は厳格で潔癖、規律の鬼と言われながらも、個人的な恨みで私を幽閉する矛盾を持ち合わせている。心の歪みが顔に表れている」

「確かに性格って顔に出るよな。ヒグマもキツネっぽい顔つきで睨んでくるのは気性の荒いヒグマ……なんだよね、アシパさん?」

 以前、アシパから聞いた話を確認しようとその相棒本人を見れば、もう夕食後で外はすっかり暗くなっている時間帯のため舟をこいでいた。

「……駄目だ、おねむの時間だ」

「ふむふむ……ならばこれでどうかな」

 性格が顔に出るという話を聞いた鈴川が髭を撫でつけたあとに見せた顔は、囚人達を愕然とさせた。つい先程までは何処か気弱そうな冴えない初老男性の顔つきだったが、鋭い眼光の厳格なものへと変わる。表情だけでなく雰囲気も一変したことに小夜子も驚く。

「……で、網走監獄の典獄に化けて第七師団相手にどうしようってんだ?」

「俺に考えがある。まあ焦るな。準備が必要だ」

 杉元がどうするつもりだと問うと、鈴川はごろりと横になった。態度もそうだが、声もより一層低くして犬童という人物になりすましている。

 杉元や土方が作戦を練っている間、小夜子は頭の包帯をほどいた。ガーゼには既に赤い滲みはないが完治にも至っていない。傷口に薬を塗って新しいガーゼをあてがい、再び包帯を巻いていく。
 一人でも出来る作業だが、包帯を巻く作業は家永が手伝ってくれた。年若い後輩に対して親切に接する名医の先輩といえば聞こえは良いが、その真意の裏側には同物同治の対象として狙っている節がある。

「傷、塞がったわねぇ……」

「残念そうに言わないで下さい」

「だってぇ……」

「そんな声で訴えかけても、駄目なものは駄目です。何もあげられませんよ」

 切なそうな声を発する家永は、何も知らない者が見れば美しいご婦人がおねだりしているようにも見える。だが、家永の正体を知っているので小夜子はほだされることなくあしらう。

 医者同士がささやかな攻防を続けている一方で、アシパが睡魔に耐え切れず、そばに座っていた土方に倒れ込む。彼は口の端を穏やかに吊り上げ、アシパを抱えて足の上に乗せた。

「やれやれ、この子は大物だ」

 眠るアシパを抱えて孫娘を可愛がるかのような姿を以前目にしたことを杉元は思い出した。辺見和雄が死んだあと、立ち寄った鰊番屋でにこやかな笑みを浮かべてアシパを抱える老爺のことを。

「……鰊番屋に現れたのはあんただな、土方歳三。白石はあんた達と内通していたのか」

 軍帽の下の眼光を鋭くさせて声を低くした杉元に、キロランケがぱちくりと瞬きをする。

「白石が内通?」

「ああ……そうだとすれば結構前から」

 杉元が頷くと、キロランケはカムイコタンでの出来事を思い出した。川に落ちた白石を引っ張り上げようと手を差し伸べたのに、白石はその手を掴むことなく流されていった。あれは手が届かなかったのではなく、内通が発覚することを恐れてわざと手を伸ばさなかったのだ。

「白石はカムイコタンで俺の手を掴もうとする時、確かに躊躇した。俺達から離れようとしていたと仮定すると……一人で朝っぱらに月形で旅館の外をフラフラしていたことや、あれもこれも合点がいく」

「この状況ならもう過ぎたことでは?」

 今それが判明したとしても問題ではないだろうと永倉が言えば、杉元はより一層眼光を鋭くさせて土方を睨み付ける。

「ってことは、認めるんだな?」

「敵も味方もない中で必要なのはただ情報だ」

 老いてなお杉元に劣らぬ眼光を宿す土方は、杉元を見つめ返した。

「バレたら杉元に殺されるとでも思ったんだろ。あいつの考えそうなことだ」

「どうするんだ? それでもまだ助けるのか? 助けた上で殺すのか?」

 キロランケは困った奴だと眉尻を下げ、尾形は内通を承知で助けに行くのかと問えば、杉元は剣呑な雰囲気を漂わせたまま呟く。

「一度でも裏切った奴は何度でも裏切る」

 相棒の放つ雰囲気を敏感に察知したのだろう。アシパは目を覚まし、体をむくりと起こす。

「杉元……殺さなくて済む人間は殺すな」

 無抵抗の人間や、殺す必要のない人間を手にかけることはしたくない。アシパの深く澄んだ二つの青い瞳は杉元を見据え、静かに忠告した。

 * * *

 軍都・旭川。
 帝政ロシアの南下政策に対して防衛整備が急務とされ、第七師団の駐屯と鉄道の敷設により、函館、小樽、札幌に次ぐ道北の中心となっている街である。
 その旭川の駅からは第七師団の兵営へ通じる広い道路があり、それは『師団通り』と呼ばれていた。

 鈴川を犬童として送り込もうと決めた翌日、杉元達は目立たないように第七師団の兵営の偵察に向かった。
 広大な敷地のどこに白石がいるのだろう。監獄ではないので敷地内に侵入するのは容易だが、建物を一軒一軒探し回ることも出来ない。であれば、相手の方から白石を差し出させるしかない。
 コタンに戻って一行は作戦立案を始め、犬童四郎助に変装した鈴川に同行する人間を決めることにした。
 まず、囚人である土方、牛山、家永と、顔を知られている尾形やキロランケは同行出来ない。
 もし相手と戦うことになった時を考えて非戦闘員の小夜子や、子供を兵営に連れていくのも不自然だということでアシパも除外する。
 その結果、杉元の同行が決まった。ただ、顔の傷で『不死身の杉元』だと気付かれる可能性があるため、かぶりものをすることになった。
 布を縫い合わせて目や口の部分に穴を開けた簡単な覆面にしようということで、小夜子が作りますよと名乗り出た。早速白い布を調達して手早く杉元の頭部の採寸を始める。

「白石を連行した連中の肩章番号が27だった」

 旭川に四つある歩兵聯隊の一つである、歩兵第27聯隊。その兵舎はここだとキロランケが地図のある一画を指さすと、尾形が割り込んできた。

「ちょっと待て、27聯隊?」

「どうした尾形?」

「いや、お前らアホか」

 そう言って、尾形は外套をまくり上げて肩章を見せる。そこに記されている数字は27だった。
 小夜子も横目で見つつ、覆面作りを進める。裁縫道具も使い慣れたものなのでさくさく進んでいく。

「あ……そうだったっけ。ってことは鶴見中尉も同じ聯隊か」

「白石は27聯隊が密かに確保している可能性が高い。何故なら聯隊長は、鶴見中尉の息がかかった淀川中佐だ」

 淀川中佐。二〇三高地での作戦の欠陥を鶴見中尉に指摘されたが全て揉み消し、結果的に多くの兵士を失うことになっため、鶴見中尉に逆らえなくなった人物だ。
 小夜子はアシパのコタンを出発する前、谷垣が教えてくれた情報を思い出しながら覆面の仕上げに入った。

 * * *

 第七師団への潜入作戦を決行することになった。
 網走監獄の典獄・犬童四郎助に変装した鈴川と、看守役として付添人の杉元が、旭川第七師団司令部に向かった。室内で交渉を進めて白石を取り戻す際、金で雇った熊岸に似た男と交換する手筈となっている。
 看守が覆面をかぶっている理由としては、家永という凶悪犯に顔をズタズタに食い千切られたというもの。おまけに狂人めいた言動をすれば、変装した鈴川から相手の意識をそらすことが出来る。
 それが功を奏したようで二人はすんなりと司令部に通され、淀川中佐と面会することになった。

「……あれでよく入れたな……」

 不測の事態を想定し、狙撃支援待機のため司令部から少し離れた木の上で尾形が双眼鏡を覗きながら呟いた。相手が淀川中佐だから成功したものの、鶴見中尉ならばすぐに見抜かれて司令部に通される前に始末されるだろう。

「ま……まあ、成功を願いましょう……」

 尾形が登っている木の下で小夜子が苦笑する。
 戦力にならないので家永と共に待機するつもりだったが、一緒に来いと尾形によって連れてこられた。
 後世の『狙撃手』は『観測手』と二人一組での行動が基本となっている。狙撃手が撃つことのみに専念出来るよう、周囲の状況把握や警備の役割を担う観測手が認知されるのはもっと後年になってからだが、既に尾形は観測手の重要性を知っていた。
 アシパのコタンで谷垣を狙った時は観測手として二階堂を連れていたが今はいない。その役割を小夜子に任せることにしたのだ。左目を失明しているため満足に周囲の警戒を行うには難があるだろうが、集まった面子の中では信頼出来る人間だからである。
 樹上から司令部の警戒は尾形本人が、地上での周囲の警戒は小夜子が行う、という分担だ。
 杉元と鈴川が司令部に潜入してどれくらい時間が経過しただろうか。幸いにも地上の異変はなかったが、樹上の尾形が緊張した様子を見せた。

「……まずいぞ」

「どうしたの?」

「鯉登少尉が入って行った……奴は鶴見中尉のお気に入りの薩摩隼人だ」

 鶴見中尉のお気に入りということは、鯉登少尉より階級が上の淀川中佐が相手でも、鶴見中尉から命令を受けていればそちらを優先するだろう。作戦が失敗する可能性が高くなる。
 緊張した面持ちで尾形が言うと、小夜子は薬箱を肩からおろして地面に置き、木を登り始めた。ひょいひょいと身軽に登ってくる小夜子を見た尾形は、そういえば子供の頃は彼女が率先して木登りをしていたなと思い出す。

「双眼鏡貸して。私が見るから」

 尾形が腰かける枝のやや下に生えている枝に登った小夜子は、尾形から双眼鏡を借りて司令部の窓を覗く。犬童扮する鈴川と、覆面をかぶった杉元の背中が見える。さらには白石や紺色の軍服を着た兵士がいて、黄土色の軍服を着た浅黒い肌の男が部屋に入って来た。

「今部屋に入ってきた、軍服の色が違う人が鯉登少尉?」

「ああ」

 ちらりと尾形へ視線をやれば、彼はいつでも銃が撃てるよう既に小銃を構えていた。場違いであることは百も承知だが、狙撃手としての姿に胸が高まる。
 駄目だ、そんなことを考えている場合ではない。小夜子は再び双眼鏡を覗いて杉元達を見れば、鯉登が拳銃の引き金を引いた。

「百之助君、鯉登少尉が発砲したわ」

「チッ……失敗したか」

「──あっ、杉元さんと白石さんが窓から!」

 小夜子の言葉に尾形は照準を窓から放すことなくじっと待ち、二人が窓から飛び出たあとに追跡しようと窓枠に足をかけた兵士を狙う。引き金を引けば、兵士の肩に弾が当たった。

「小夜子、行くぞ」

「はい」

 すぐさま尾形と小夜子は地上におりて駆け出す。兵営の建物がある方向へ向かえば、杉元と白石の二人とすぐに合流出来た。しかし、まだ兵士は追いかけてきており、杉元は撃たれて負傷しているのであまり無理はさせられない。

「こっちは駄目だ! 南へ逃げろ、あっちだ!」

 胸と肩に銃弾を撃ち込まれて苦しそうに呼吸する杉元は白石に支えられて走っている。いくら不死身とはいえ、これだけの傷を負って走り続ければ血を失ってしまう。
 小夜子は杉元を支えるため、白石とは反対側に回る。

「杉元が撃たれちまった!」

「不死身なんだろ? 死ぬ気で走れ!」

「無理だ! こんな傷の杉元が走り続けられるわけねぇ!」

「俺の……足が止まったら……白石、お前がアシパさんを網走監獄まで……」

 網走監獄を脱獄してきた白石ならばアシパを監獄に連れて行けるだろう。どうしてもアシパとの約束を果たすために、杉元は万が一のことを考えて白石に託す。
 南の方へ抜けると開けた場所に出た。そこには丸く細長い舟に似た巨大な物体があり、何人もの兵士がその物体の周りで作業をしている。
 巨大な物体を見て、尾形はある噂を思い出した。偵察に使われる気球部隊を旭川にも作り、何らかの兵器を気球に載せて利用する計画があるということを、第七師団を抜け出す前にちらりと耳にしたことがある。あれはきっとその気球だろう。

「気球隊の試作機だ」

「あれだ、あれを奪うぞ!」

 この場から逃げ出すには、あの飛行船を奪うしかない。白石の言葉で杉元はすぐに兵士から小銃を奪い、尾形はフードをかぶると、二人で兵士に向けて飛行船から離れるよう小銃を構える。

「全員下がれ! もっと離れろ!」

 小夜子は一足先に飛行船に乗り、白石は動力部を兵士に操作させるとその兵士をすぐにおろさせた。
 やがて飛行船は浮き上がり、杉元と尾形は引き続き兵士達が寄り付かないように小銃で牽制する。

「どうせ撃てっこねぇ、ハッタリだ!」

「撃てば飛行船に当たらんでも水素に引火しかねん!」

「逃がすな、捕まえろ!」

 しかし兵士達ものんびりと眺めているわけもなく、杉元達を捕まえようと浮き上がる飛行船に飛びついた。
 小夜子もどうにか力になれないか考えて取り出したのは、数枚の深く裂けた緑色の葉。それを何枚か飛行船に飛びついてきた兵士に向けた。

「これが何だかわかりますか? トリカブトの葉です!」

「ひっ!?」

 有名な毒草の名前を告げられて数人の兵士が短い悲鳴をあげる。続けて小夜子が葉を投げると兵士は慌てて手を離し、飛行船から飛び退いた。
 トリカブトといえば葉や茎、根といった全体に毒を持つ植物だ。食べると嘔吐、呼吸困難、臓器不全などから死に至る。経口から摂取後、一分もしないうちに死亡する即効性がある恐るべき植物だ。

 かくん、と飛行船が傾いた。船尾では何人もの兵士が山のように組み上がり、飛行船を掴んでいるのが見えた。その後方から鯉登が走り寄ると一人の兵士から軍刀を奪い、兵士の山を駆け上る。
 一番上の兵士が手を離してしまったが、鯉登は諦めなかった。頂上の兵士の頭を軍帽ごと踏み台にして飛び上がり、飛行船を掴んでよじ登る。

「銃剣を寄越せ。俺がやる」

 杉元が鯉登を睨み付けたまま、後ろの尾形に手を伸ばして銃剣を受け取った。

「自顕流を使うぞ。二発撃たれた状態で勝てる相手じゃない」

 自顕流とは薩摩に伝わる古流剣術である。銃撃を食らった杉元では勝ち目はないのではと尾形が危惧すると、鯉登がフードをはずした尾形へ視線を移す。

「尾形百之助、貴様……!」

 眉間に皺を寄せて尾形を射抜くように睨み付けた鯉登は、早口で一気にまくしたてた。

「よくも鶴見中尉どんをだまけっ裏切ったな! 前からわいのこつはわっぜん好かんかった! おいがこつボンボンち舐めくさって、知らんとこいでわれこっぼばかいおうちょったとは知っちょっと!」

「相変わらず何を言ってるかさっぱりわからんですな、鯉登少尉殿。興奮すると早口の薩摩弁になりモスから」

「ちょっと百之助君、やめなさいってば」

 尾形が薩摩弁を真似たため、小夜子が慌てて尾形を止める。彼らの関係を詳しく知らない小夜子でも、尾形に対する鯉登の態度で察することが出来た。
 尾形と鯉登は仲が悪い。ひょっとしたら杉元よりも相性が悪いのではないだろうか。
 そんな尾形の言葉が火に油を注いでしまった。怒りに身を任せた鯉登が軍刀を振り上げる。

「わいたちゃずるったたっきっど! キエエエェェェッ!」

「──受けるな!」

 杉元は咄嗟に小銃を盾代わりに顔の前に構えた。尾形が慌てて攻撃を受けるなと叫ぶがわずかに遅く、杉元は鯉登の一撃を受けてしまった。振り下ろした軍刀の勢いが強すぎるため、小銃の銃身が杉元自身の頭部を直撃する。
 新撰組隊長の近藤をして薩摩の初太刀は外せと言わしめた自顕流は、受け止めれば自分の刀の鍔もろとも額にめり込んで絶命したといわれる。それほどまでに自顕流は恐れられていた剣術であった。
 鯉登は猿叫を発しながら何度も杉元めがけて軍刀を振り下ろすが、初太刀以外は飛行船の船体に当たるばかり。
 そんな鯉登の攻撃がぴたりと止まった。すぐ近くの船体に一本の矢が射られたのである。矢が放たれたであろう方向を見れば、弓を持った一人の少女が馬で飛行船を追いかけていた。アシパだ。

「小夜子ちゃん、いいかい?」

「はい、どうぞ」

 杉元達の背後で密かに交わされる会話は、白石と小夜子のものだ。
 鯉登の攻撃が止んだ今が好機だといわんばかりに白石が鯉登に飛びかかり、飛行船から蹴り落とした。杉元は白石も落ちると肝を冷やしたが、そこはしっかりと腰に縄をくくりつけていたので落下する心配はない。小夜子が白石に縄をくくりつける手助けをしていたのだろう。

「覚えちょれよ! わいたちゃずるっ鶴見中尉どんにがられるっでな!」

 鯉登は薩摩弁で叫びながら地上に広がる森の中へ落ちていった。

「あははは! あばよ、鯉登ちゃん!」

「白石、木に突っ込むぞ!」

 飛行船の進行方向には大木がそびえ立っていた。すぐに回避することも出来ず、鯉登を撃退出来たと喜ぶ白石が木に突っ込んでしまった。木の中からは枝が折れる音と白石の短い悲鳴が聞こえてきたあと、抜け出した白石にはアシパがくっついていた。


2020/05/13

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