第9話 偽りのアイヌ


「ムオンカミってどういう意味だ?」

 アシパと小夜子を追ってエクロの弟が出て行ったあと、尾形はアシパが口にした言葉の意味を村長達に尋ねた。
 アイヌなら言葉の意味がわかるはずだ。しかし、村長もエクロも黙り込んでしまう。

「おや? もしかしてわからんのか?」

「……ムオンカミはちょっと聞いたことがない」

 黙っているのもまずいと判断したエクロが口を開き、日本語に方言があるようにアイヌ語にも方言があると説明した。すると杉元が、ギョウジャニンニクだけでも『プクサ』や『フラルイキナ』という異なる呼び方があるしな、と頷く。

「一体何を疑ってるんだ、尾形。この人達に失礼な真似は許さんぞ!」

「こいつら、本当にアイヌか?」

 尾形が訝しむ目を村長達に向けると、彼らは居心地が悪そうに黙り込んだ。

「ほら見ろこの耳たぶ! アイヌは耳たぶが分厚いんだ。シンナキサじゃないぞ」

「福耳にしか見えねぇけどな」

 杉元がエクロの髪をかき分けて耳を尾形に見せるが、分厚いとは感じられない尾形は否定する。

「ウンカ オピウキ ヤン!」

 一人の女性がチセに駆け寄り、窓から中にいる杉元達に向かって大声で叫んだ。何やら慌てるような焦っているような様子にも見えるが、近くにいた男がすぐに口を塞いでチセから去っていった。

「今のご婦人は何と?」

 牛山が疑問を口にするが、村長は相変わらず沈黙を続ける。見かねたエクロが助け舟を出した。

「……知らない方がいい。和人をよく思わない者もいる。でも我々は歓迎するよ。今夜は酒でも飲んで──」

「ウンカ オピウキ ヤン!」

 これまでずっと黙っていたモノアがエクロの言葉を遮った。それは今しがた窓の外で叫んでいた女性と同じ言葉だ。
 そのアイヌ語は『私達を助けて』という意味である。モノアは村長達の正体を知っており、このままだんまりを決め込んでいれば、外に出て行ったアシパと小夜子の身に危険が及んでしまう。
 それならば、とモノアは意を決して杉元達に助けを求めたのだが、いかんせんアイヌ語がわからないため緊急性は伝わらず、逆にエクロを苛立たせてしまった。

「……出て行け!」

「何か奥さんの気に障ったかな? 失礼があったらすまない」

 いくら村長が歓迎してくれたとはいえ、和人を敵対視するアイヌもいると杉元はアシパから聞いたことがある。モノアの気に障ったことをしたのだろうかと心配するが、エクロは何でもないと笑う。
 しかし、モノアやエクロ、それにムオンカミの意味を答えなかった村長の態度が腑に落ちない尾形は、疑いの眼差しを向け続けた。

「やっぱりどうも様子がおかしいぞ」

「まだ言うか尾形! よしわかった。さっきそこの『シントコ』の裏に落ちてるのが見えたんだが……」

 この場にアシパや小夜子がいれば通訳をしてくれただろうが、いないので仕方ない。ここはひとつ、あの道具を使うとしよう。

「これを使ってみせてくれ。本当のアイヌなら使い方を知っているはずだ。ちなみに俺はアシパさんほど上手く使えなかった」

 杉元が拾い上げたのは、先が三つ又に分かれた木の棒だった。キサラリという道具で『耳長お化け』を意味する。
 村長やエクロが戸惑っている中、杉元はまずやってみろと牛山にキサラリを渡す。牛山は少し考えたのち、孫の手のように背中を掻き始めたが全然違うと杉元に否定された。
 次にキサラリが渡されたのは村長レタンノ エカシ。アイヌ語しかわからないらしいが、今のやり取りを見て何をして欲しいかわかりますよね、と杉元は怖がらせないよう村長に笑いかける。

「早くやってくれよ、爺さん」

 やんわりと応対する杉元とは対照的に、尾形が感情のない視線を村長に向ければ、それに気圧された村長はようやくキサラリを使い始めた。
 立ち上がると服の埃を払うような仕草を行い、数歩歩いて外出しているような動きに繋ぎ、前かがみになって腰を押さえたあと、三つ又部分に腰かけた。
 さあどうだ、と一同は杉元を見るが、

「なるほど、そういう使い方もあるのか!」

 と真偽を話す前に村長の使い方に納得してしまった。

「もういい、寄越せ。俺が正しい使い方を当ててやる」

「尾形にわかるかなぁ〜?」

 これでは埒が明かないと溜息をついた尾形はキサラリを受け取り、にこりと笑う。
 持ち手部分を握って大きく振り上げた瞬間、笑顔は消え──キサラリの先端で村長の足の小指めがけて思いきり振り下ろした。

「痛ぁっ!!」

 アイヌ語しかわからないと思っていた村長の口から咄嗟に出てきた悲鳴は、アイヌ語ではなく日本語だった。

「この使い方が正しかったようだな」

 まったくもって回りくどいことをさせたものだ、と尾形は呆れながらも手っ取り早く正体を暴けたことに満足する。

「日本語を話せるアイヌなんて珍しくも何ともない! 何てことをするんだ尾形!」

「本当にアイヌなら痛い時、咄嗟に日本語が出るもんかね?」

「そもそもこの人達がアイヌのふりをして何の得があるって言うんだ? いい加減にしろ、尾形!」

 村長を庇う杉元と、日本語を発した村長に疑いを向ける尾形が言い合っていると、エクロの弟が戻って来た。

「そうだな、俺も是非そこが知りたいね。ちょうど戻って来た弟君にも聞きたいことがあった」

 チセを出る前とは異なる雰囲気に戸惑う弟に、エクロがそばに寄って小声で何かを伝える。

「……あれ、アシパさんは?」

「小夜子もいないぞ」

 便所の場所を教えるためにチセを出て行ったのだから、アシパと小夜子を連れて戻って来るはずだ。それなのに彼女らの姿がないことに、杉元と尾形が気付いた。

「弟が言うには、近所の女性に刺繍を教わろうとアイヌの娘さんが和人のお姉さんを誘って夢中になっているらしい。まあ、こんなところは女性や子供に見せない方がいいだろう」

 エクロが弟に代ってそう説明した直後、杉元が躊躇することなく弟をキサラリで殴りつける。

「アシパさんが小夜子さんを誘って『刺繍に夢中』だぁ? てめぇ……二人をどこへやった?」

 アシパは刺繍が嫌いだし、そのことを知っている小夜子が刺繍をしようという誘いに乗ることもしない。すぐに嘘だと見抜いて怒りの形相へと変わった。

「……あ? 何だその足?」

 杉元に殴られたエクロの弟の服の裾から足に彫られた入れ墨が一部見えていることに牛山が気付くと、尾形がにやりと笑う。

「そうそう。さっきも出て行く時にチラッと足首に見えた気がしたんだよな、その『くりからもんもん』が……ヤクザがアイヌのふりか」

「う゛ぇろろろろごうろろろあ゛あ゛あ゛ッ!!」

 耳長お化けの絶叫がコタンに響き渡った。

 * * *

 化け物のような野太い叫び声に、周囲の木々にいた鳥が驚いて飛び立った。アシパと熊岸の耳にも杉元の声が届く。

「今の叫び声は一緒に来た人かね? ここの村の男達は全員樺戸監獄の凶悪な脱獄犯だ。気の毒だが、私には止められない」

「杉元が怒ってる……むしろ気の毒なのは偽アイヌの囚人達だ」

 自分や小夜子が捕えられていると知った杉元が怒り狂えば、いくら凶悪な囚人といえど無事では済まないだろう。
 小夜子の頭部の傷口は布でおさえているがまだ血が止まらず、目を覚まさない。
 今、小夜子を守ることが出来るのは自分だけだ、とアシパの表情は緊張で強張った。

 * * *

「俺の一声で外にいる仲間があのガキと女の喉を掻き切るぜ! お前ら武器を捨てろ!」

「一声出せるもんなら出してみろ!」

 エクロの弟に扮していた男がマキリを抜こうとしたが、間髪入れずに杉元がキサラリを口に突っ込んで首をへし折る。戦争帰りの杉元と収監されていたヤクザでは、実力も経験も違いすぎて話にならなかった。
 エクロが急いで壁に立てかけている杉元の小銃に手を伸ばす──が、届くことはなく背中を撃たれる。

「エクロク助さん、アイヌ語で命乞いはどう言うんだ?」

 ジャキ、と尾形は小銃のボルトを操作して薬室を開放し、空の薬莢を排出させながら口角を吊り上げ、エクロを見下ろす。

「銃から目を離すな、一等卒」

 尾形が壁の小銃を杉元へ投げ渡すと、杉元はすぐにチセの外へ駆け出した。
 外にいる二人の囚人が弓や斧を構えたが、牛山がエクロの足首を掴んで投げ飛ばすと倒れ伏す。

「アシパさん! 小夜子さん!」

 牛山によって倒された囚人とはまた別の囚人が待ち構えていたが、杉元は躊躇することなく銃剣で倒していく。
 あの二人をどこに隠しているのだろうか、とアシパと小夜子の名前を叫びながらあちこち走り回る杉元の後ろ姿を銃で狙う囚人がいた。物陰に隠れて杉元を狙っている。
 だが、その囚人も標的として狙われており、引き金を引く前に頭を撃ち抜かれた。

「……俺も別に好きじゃねぇぜ、杉元」

 江渡貝邸の借りを返すといわんばかりに、尾形が偽アイヌを狙撃したのである。一時的に手を組んで協力しているだけで、杉元が好きだから助けたわけではないのだ。
 今いるチセから見える範囲に囚人の姿はない。他の場所へ移動するかと外に出て、積み重なった丸太の前を通りかかって立ち止まる。そういえば先程、牛山が檻を壊して中にいた熊が逃げ出したのをちらりと見かけた。
 丸太の檻を壊すとは、何て力をしてやがる。
 尾形はやや呆れながらも感服した笑みを浮かべて移動を再開しようとした時、細長い物が折れていることに気付いて地面に視線を落とした。それは、幼馴染みがいつも身につけている木製のかんざしだった。

「これは……」

 * * *

 遠くから聞こえる杉元の呼び声に、アシパが外を見やる。

「杉元が呼んでる」

「待ちなさい。まだ見張りが……」

 居場所を知らせなければとアシパが外に出ようとした時、見張り役の囚人が斧を持って中に入って来た。

「おいおい熊岸! そのガキ逃がすつもりか?」

 勝手なことをするなと言わんばかりの男だったが、駆け込んできたモノアがイウタニというアイヌが使う杵で男の後頭部を殴りつけた。モノアだけではなく、他の女性達もそれぞれ農具などを持ち、囚人に罵声を浴びせる。

「クホクフ エライケ クス エモンサタア ナ!」

「ロンヌ ヤン!」

 ──夫を殺された復讐だ!
 ──殺せ!

 女性達は夫や兄弟を殺された恨みだ、罰が当たったのだと口々に囚人を罵り、他の女性達と団結するために外に出て行った。

「大混乱が起きてる……逃げるなら今しかない」

 先程よりも騒ぎが大きくなっている外の様子を伺い見る熊岸に、しかしアシパは外に出るなと引き止める。

「いや、今出て行くと巻き込まれるぞ。お前に何かあれば私達が困る」

 贋物の刺青人皮の判別方法を探るために家永が挙げた名前が熊岸長庵だった。
 現在は手元にないが、熊岸に判別して欲しい物があるとアシパは切り出した。ある剥製屋が作った贋物と思われる刺青人皮で、自分達は熊岸に会いに樺戸へ向かっている途中だったと告げた。

「お前が贋作師の熊岸長庵だな?」

「贋作師か……贋作など好きで作ったわけじゃない。頼まれたからだ。贋札だってそうだ……絵だけでは食えなかった。でもね……これはさっき、君が知りたがっていたことの糸口になることかもしれないんだが……」

「アシパさん! 小夜子さん! 良かった、無事だった──」

 熊岸がアシパに話しかけていると杉元が走って来た。相棒の無事を確認してホッとしたのも束の間、その隣で小夜子が頭から血を流して倒れていたものだから再び怒りの表情へ変わり、銃口を熊岸に向ける。

「駄目だ杉元! 小夜子は生きている! この男が熊岸長庵だ!」

 慌ててアシパが制止すると杉元は銃口を下げた。
 樺戸監獄にいるはずの熊岸長庵がどうしてここに、と言う前に、杉元の脇をかすめて何かが飛んでいく。その直後、熊岸の腹に一本の矢が刺さっていた。

「くそっ、外した」

 杉元の後ろで囚人の男が弓を構えていた。おそらく杉元を狙ったものだと思われる。
 狙いを外して熊岸を射ってしまった男はすぐに二本目の矢をつがえるが、すぐさま杉元が小銃で撃ち抜き、二本目の矢が放たれることはなかった。

 熊岸の腹に射られたものはアイヌの毒矢だった。すぐに矢を引き抜いたが矢尻が腹に残ってしまったことにアシパは青ざめた。肉に刺さっただけならば、肉ごと取り除けば助かる可能性はある。だが、アイヌの作る毒は解毒方法がないため、腹の中に残ってしまっては助からない。
 熊岸は毒で苦しみながら、贋物の刺青人皮の判別方法の手がかりになれば、と思い当たることを口にした。
 剥製屋といえど『作品』を残すからには、作るものには共通するこだわりがあるかもしれない。熊岸も同じで、真作を凌駕してやろうという執念があったので、材料から真作よりもこだわったものを使ったりもした。貧しさゆえ贋作に手を染めても、芸術家であろうとしたちっぽけな意地だ。
 どうしても本物の作品を作りたかった。本物が作れたら贋作など作らなくて良かったのに。観た者の人生をがらりと変えてしまうような本物の作品を──
 途切れ途切れに本音を口に出したのち、熊岸長庵は息を引き取った。

 毒に苦しむ熊岸の最期を看取ったアシパが外に出ると、見える範囲だけでも十数人の囚人達が地面に転がっていた。何人かは衣服がはだけてヤクザの和彫りが露わになっている。
 眼前に広がる光景に呆然となるアシパの元へ尾形が寄ってきた。

「杉元の奴、ほとんど一人で偽アイヌ共を皆殺しにしやがった。おっかねぇ男だぜ」

 感心しているのか呆れているのかわからない笑みを浮かべた尾形だが、その笑みはすぐに消え、アシパを見下ろした。

「アシパ、小夜子はどうした?」

 尾形に問われたアシパがちらりと後ろに視線をやれば、チセの中から小夜子を抱えた杉元が出てきた。彼女の頭には布が巻かれている。

「ああ、尾形……小夜子さん、後頭部を殴られたらしくてまだ目を覚まさないんだ」

 杉元が尾形の元へ向かうより先に尾形が杉元へと駆け寄り、小夜子を自分で抱きかかえた。尾形より小柄で意識を失ってぐったりしているせいか、抱きかかえる手に力を込めると折れてしまいそうな感覚に陥った。

「小夜子」

 尾形が名前を呼んでみるが小夜子の意識は戻らない。まずはきちんと傷の手当てを行い、意識が回復するのを待つしかない。

「……先に手当てをする」

 ぶっきらぼうにそう告げると、尾形は村長やモノアがいたチセへ向かった。
 杉元はこちらの顔を見ることなく背を向けた尾形に気を悪くするどころか、彼なりに小夜子を心配しているのだと思うと腹も立たなかった。

「アシパさん、怪我はないかい? 奴らに酷いことされなかった?」

 死屍累々の光景に足がすくんで立ち尽くすアシパに杉元が声をかけた。いつもの優しい声なのに、この時だけはとても恐ろしいと感じていた。


2020/04/27

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