第8話 違和感


「ところで小夜子、左目の視力はどうした」

 食事を終えた尾形がいつもの静かな口調で話しかけてきた。
 小夜子は左目のことを言われてドキリとするが、平静を装って小さく首を傾げる。

「いきなりどうしたの?」

「江渡貝邸で食事の際、小夜子の正面に椀を出さないと気付かなかった。第七師団の襲撃の時は、俺が隠れろと合図したのに反応がなかった。他にも気になった点はあったが、どれも俺がお前の左側にいた時のことだ」

 再会してまだ日が浅いのによく見ていたものだと感心しつつも、同時に隠し事が暴かれることに小夜子の表情が強張っていく。

「両目があって初めて物を立体的に捉えると同時に距離感を掴むものだ。縫合痕に手が届かなかったのは、片目しか見えないから距離感が上手く掴めなかったんじゃないのか?」

 それと、と前置きした尾形は手を伸ばし、小夜子の髪に手を潜らせて隠れている部分を露わにした。左の目尻付近や額には刃物で切りつけられたような跡が残っており、それを見て杉元達は驚いて言葉を失う。

「見えないだけなら髪で左目を隠す必要はない。隠していたのは、この傷があるからだろう? 何があった?」

 四人の視線が注がれていることに居心地が悪くなり、小夜子は俯いて両手を握り締める。

「小夜子」

 口を真一文字に結んでしばらく沈黙を続けていたが、尾形が再び小夜子の名前を呼ぶ。静かな口調だが拒否を許さぬ圧力を感じさせる声に、小夜子は観念して話すことにした。


 医学校を卒業した小夜子は両親の待つ北海道へ戻った。自宅は一階が診療所、二階が自宅となっており、異変は深夜に起こった。
 何かの物音が二階の別の部屋から聞こえてくることに気付いた小夜子は目を覚ました。音の発生源とおぼしき両親の寝室を覗くと、二人は既に殺害されていた。
 悲鳴をあげなかった──というよりも声が出なかった。
 犯人はまだ両親の寝室で金目のものがないか物色している。うっかり声を出して見つからないよう口を手で覆い、ゆっくり移動を始めた。
 強盗だ。家に電話はあるが、今は深夜のため電話をかけられない。
 早く外に出て助けを呼ばなければと焦る気持ちをおさえて一階におりようとした時、物色を終えた犯人が廊下に出てきて見つかった。
 急いで一階におりたものの、犯人に追いつかれてしまい、馬乗りになって取り押さえられた。必死に抵抗しても男相手ではどうしても力では勝てず、押しのけることすら出来ない。
 姿を見られたことに犯人は焦ったが、相手が若い娘だとわかるや否や安堵の表情──ではなく、獲物を前にして舌なめずりをする捕食者の笑みを浮かべ、下卑た笑い声を漏らした。
 小夜子は恐怖で泣き出した。拘束から脱しようと何度ももがき、助けてと必死に声を振り絞る。
 抵抗されて犯人は苛立ち、小夜子を殴り始めた。
 ──黙れ。声を出すな。静かにしろ。
 犯人は特に小夜子の顔の左側を強く殴りつけ、それが左目に直撃した。あとから思い返せば右利きなので顔の左側を重点的に殴ったのだと合点がいくが、当時はそのようなことまで理解が及ばず、振るわれる暴力に抵抗力を削がれる。
 しばらくして犯人の手が止まったと思えば、今度はナイフを取り出した。殺されると恐怖して何とか防ごうと手で顔を覆うが犯人は手を止めず、額や腕を切りつけてきた。
 暴行を加えて抵抗が弱くなったところを見計らった犯人が小夜子の寝間着に手をかけた時、警察が駆けつけて来たので犯人は捕まった。騒ぎを聞きつけた近隣住民が通報してくれたらしい。その後は傷の治療やら事情聴取やらで忙しかった。
 しばらくして落ち着いた頃、小夜子は自宅を取り壊して旅に出た。片目が見えないため医療行為は難しく、当時のことを思い出すので家にはいられなかったから──


 小夜子の話が一通り終わる頃、彼女の声には震えが混じり、両手は力を込めすぎて指先は白くなっていた。親を殺され、暴行を受け、乱暴されそうになったのだから当然だ。
 俯く小夜子の目尻には涙が浮かんでいる。医者は男性の職業だという風潮が根強いこの時世に晴れて医者になれたのに、強盗殺人の被害に遭って片目の視力を失い、夢を諦めざるを得ない辛さは計り知れない。

「辛かっただろう……話してくれてありがとう、小夜子さん」

 小夜子を慰めるように杉元が優しい声音で背中をさすってやれば、彼女はポロポロと涙を溢れさせた。誰にも打ち明けることが出来ずにずっと一人でため込んでいたのが、ようやく開放出来た安心感による涙であった。

「小夜子が旅をするのはアイヌに興味がある以外にも何かあると思っていたのだが……本当の理由はそれだったんだな」

 アシパも旅をする理由について薄々疑問に思っていたらしい。和人だが本当の姉のように優しい小夜子にこんな経験があったなんて、夢にも思っていなかった。

 小夜子は涙を拭くと、若干気恥しそうに顔を上げた。湿っぽい話は苦手で、これ以上、場の空気を重くしたくないので辛気臭い顔からいつもの明るい顔を見せる。

「何だかすっきりしました。話を聞いてくれてありがとうございます」

 辛い過去があっても前を向いて笑顔で歩む小夜子に、杉元もアシパも心配しつつも胸を撫で下ろした。
 その一方、尾形は何も言わないため杉元や牛山に指摘された。久しぶりに会った幼馴染みが辛い過去を話してくれたのにどうして声をかけてあげないのか、と。

「……ほら」

 尾形は気遣う言葉ではなく、かんざしを小夜子に差し出した。てっきり江渡貝邸で失くしたとばかり思っていたかんざしは尾形が拾っていたのだとわかった小夜子は、ゆったりと優しく微笑む。

「ありがとう、百之助君」

「……ふん」

 尾形は鼻を鳴らすと、どこかに行ってしまった。

「ったく、あいつが話せって言ったくせに。いたわる言葉くらいかけろっての」

「女性に対して全くなっとらんな」

 杉元と牛山が尾形の態度に納得がいかないと不満を漏らすが、小夜子にまあまあとなだめられる。

「さあ、早く片付けて月形に向かいましょう」

 空になった鍋や食器を洗おうと手を伸ばすも、やはりアシパに火傷があるので何もするなと叱られた。

 * * *

 翌日も森の中を進んで行く杉元一行は、アイヌのコタンに立ち寄ることにした。樺戸までもうすぐだがしっかり休憩を取って次の予定に備えるべきだと判断したためである。
 これまで立ち寄ったコタンにはアシパの親戚が誰かしらいたが、このあたりにはいないらしい。アシパも初めて訪れたという。

「やあ、こんにちは。あんたら何の用だい?」

 コタンに行くと、アイヌの男性が出迎えた。首元あたりまでの黒髪と立派な髭をたくわえている。

「旅をしていて寄っただけだ。今晩の寝床と米があったら分けて欲しい。もちろんタダでとは言わん」

「そうだったのかい」

 牛山が手短に説明すると、男は大変だっただろうと目を細める。
 アイヌは和人と交易するため、日本語が堪能な者がいる。アシパの叔父マカナックルもそうだが、この男も和人相手に荷揚げの仕事をしていたので覚えたそうだ。山奥で砂金掘りをしていた和人に、米や塩を舟に積んで川の上流へ運んでいたと聞くと、杉元も砂金を掘っていたので荷揚げのことはよく知ってるよと頷いた。

「おい、何だあれ?」

 コタンを見渡していた牛山が、少し離れたところにある丸太の檻に気付いた。
 子熊の檻だ。アイヌは猟で子熊を見つけるとコタンに連れ帰って一、二年大切に育てるのだと杉元が説明しようとしたが、違和感を抱いた。その檻の中にいるのは小さな熊ではなく、今にも檻を破壊しそうなほどに大きくなった熊で、排泄物が檻の下に溜まっている。
 小夜子も子熊の檻のことは知っているが、あれほどまでに大きく成長した熊が入っているのは見たことがない。
 男によれば、子熊の成長が思ったより早く、大きい檻を作って移すところらしい。気にしないでくれと苦笑した。

「俺はエクロ。俺の父であり村長のレタンノ エカシに滞在の許可を貰うといい」

 男は村長の息子のエクロだと名乗り、杉元達を村長の家へ案内した。

 アイヌのチセを訪問する時はいくつか作法がある、と切り出したのは杉元だった。
 アシパはアイヌであり、小夜子はアシパのチセに何度も訪れているので彼女達には説明は不要だ。
 そのため牛山と尾形を相手に、これまで何度かやってるからよく見ておくようにと付け加える。

「騒ぎを起こしたくなければ行儀よくしろよ。特に尾形」

 無表情で何を考えているのかわからない尾形をねめつける。やはり彼は表情を変えずに頷くこともなく静かにしていた。

「ハ エエエ……」

 まずはチセの外で咳払いをする。家人に「すみません」など声をかけてはいけない。

「ンンンン……」

 さらに咳払いをすれば、家人の若い男がひょっこり顔を出し、すぐチセの中に引っ込んだ。これは、家の若い者が外に来た客を無言で確認して主人に報告するためである。
 主人が入れることを許可すれば、これからチセの中の掃除が始まるので、客はしばらく外で待たなければいけない。
 中に入るまで暇なので、全員ゆっくり待つことにした。
 杉元はしゃがんで小枝で地面をいじり、アシパはじっと立ったまま、牛山は手持無沙汰にキョロキョロし、小夜子はアシパの髪を三つ編みなどにして遊び、尾形はひらりと飛んできた蝶に手を伸ばす。
 離れたところから聞こえてくる鳥の囀りが心地良い。
 各自が好き好きに時間潰しをしている間、中でも牛山が一番暇そうにしているのでアシパはアイヌの逸話を話した。
 昔、和人の偉い役人がアイヌの案内で北海道の奥地を見て回っている時、土砂降りになって雨宿りをさせてもらおうとアイヌの家に行ったところ、アイヌはこの手続きをきっちり取り、中に入れた時は雨が止んでいたという話だ。

「アフ ヤン」

 先程顔を覗かせた若い男が出てきた。どうぞお入り下さい、という意味だ。
 チセに入る許可が出たら客人は手を繋いで入るのだが、ここでも注意点がある。家人に手を引かれて招き入れられる際、腰をかがめるのだ。背筋を伸ばしてはいけない。
 杉元、牛山、小夜子、尾形、アシパの並びで中に入る。
 この時、アシパは紋様の入った鉢巻をつけたまま入った。はずそうとしたものの、家人が何も言わないので再び巻き直す。

 チセの中にいたアイヌは、村長、エクロの他に、杉元達を招き入れた若い男、そして口の周りに刺青を入れた女性の四人だった。
 挨拶の場ということで、杉元はいつもかぶっている軍帽を脱いだ。全員が座ったことを確認した村長が両手を素早く何度も擦り合わせたり上下させ、「イランカラテ」と言った。
 杉元は村長の動きを真似するように言って牛山が手を持ち上げようとした時、

「ムオンカミ」

 アシパが村長を指さしてぽつりと言い放った。一同はぽかんと呆気に取られている中、小夜子はわずかに苦笑し、アイヌの女性は小さくふきだす。

「この子はどうしてあんたらと一緒にいるんだ?」

「あー……ちょっと駄賃をやって案内をさせてるんだ。俺達はこうやってアイヌの村にも滞在したりするんでね」

「そうか」

 エクロが問えば杉元が説明する。その間、アシパはただ黙って話を聞いている。隣に座る小夜子も同じように静かに佇んでいた。

「家族を紹介しよう。そっちに座っているのは妻のモノアだ。こっちの若いのは──」

 挨拶が終わって家族の紹介をし始めたエクロの言葉を遮ったのは、今までおとなしくしていたアシパだった。

「オソマ行ってくる!」

 すっくと立ちあがり、出入口に向かう。

「ちょっとアシパさん、我慢出来ないのか?」

「もうオソマが出口まで来てる!」

「んまぁ〜、下品!」

 まさか家族を紹介している時に用足しで席を外すなんてアシパらしくない。杉元は申し訳ないと家人に言う。

「すみませんね、普段は礼儀正しいんだけど……他の家ではこういった場で挨拶の邪魔なんてしなかったし、頭の鉢巻とかも取ってちゃんとしてたのに……どうしたんだろうな」

「皆様、大変失礼致しました。ちょっと言い聞かせてきますね」

 小夜子も謝ると立ち上がり、チセの外に出た。

「子供のやることだから気にしてない。うちの便所はわかりにくい場所にある。迷ってないかちょっと見て来い」

 困惑の色を残しつつも、子供相手に目くじらを立てるのも大人げないということでエクロは少しだけ笑みを浮かべ、隣に座る弟の肩をポンと叩く。
 使いを頼まれた弟は立ち上がり、アシパ達からやや遅れてチセを出て行った。

 * * *

 アシパは便所──ではなく、足早に子熊の檻へ向かった。小夜子もついていく。
 熊はやはりみっしりと窮屈そうに閉じ込められていた。排泄物も放置され、餌も粗末なものを食べさせられている。本当のアイヌならこんなことはしない。

「アシパちゃん……ここにいる人達、本当にアイヌかしら?」

「小夜子も気付いていたか。私も怪しいと思っている」

「さっきの挨拶だって──」

 すぐ隣で鈍い音がして小夜子が倒れた。後頭部を殴られ、その衝撃でかんざしが折れて地面に落ちる。
 どうしたと振り向くよりも前にアシパは口を塞がれ、鉢巻でさるぐつわを噛まされ両手を後ろ手に縛られる。
 一体誰が──アシパが振り向けば、エクロの弟が無表情でこちらを見下ろしていた。

「うーっ!」

 さるぐつわで喋られないので呻くだけしか出来ない。小夜子は後頭部を殴られて気を失い、アシパと同じように後ろ手に拘束された。
 二人はエクロの弟により、村長のチセとは別の建物へ連れられる。

「この二人を見張ってて下さいね、熊岸さん」

 チセの中には一人の男がいた。熊岸と呼ばれたその男はアイヌの服を着ており、眼鏡をかけている。
 アシパと小夜子の監視を熊岸に任せると、エクロの弟は立ち去った。

 小夜子は殴られて気を失ったままだ。アシパは何度ももがいて鉢巻をずらし、口を露わにする。

「小夜子、小夜子!」

 小夜子に呼びかけるがまだ目を覚まさない。それどころか、後頭部から赤いものがじわりと床に広がって行くのを見たアシパは血の気が引いていく感覚に襲われながらも、熊岸を見据える。

「お前は何でアイヌのふりをしている? ムオンカミとは、蠅のようにせかせか早く手を動かす無作法なオンカミ(礼拝)を嘲る言葉だ。それをあいつら意味が分かっていなかった」

 それだけではない。チセに入る時、わざと鉢巻をつけたまま挨拶の場にいても誰も注意しないし、檻のヒグマの餌も粗末だった。アイヌは育てているヒグマには自分達と同等か上等な食べ物を与える。カムイの世界に送ったあと、コタンが良いところと他のカムイに伝えてもらうためである。
 あんなに大きく成長したのは、いつまでも熊送りの儀式が出来ず、手が付けられなくなったのだろうと推測した。

「静かに……そんな話を聞かれたら、子供だろうと殺されてしまうよ」

 熊岸が慌ててアシパの口を塞ぐ。
 熊岸は去年の春、このコタンへ連れてこられた。旅人が何人か訪れたが、誰一人としてこのコタンを出た者はいない。油断させて酒を飲ませ、寝込みを襲うからだ。
 村長やその息子と名乗っている男達は全て樺戸監獄を集団脱獄してきた囚人で、アイヌの村を乗っ取り、潜伏している。
 正確に言えば、熊岸達はある男によって脱獄させられたという。男は政府の偉い役人になりすまして樺戸監獄に現れ、内部から脱獄の手引きをした。樺戸監獄の雑居房には火災時を考えて一度に全ての錠が開く装置がついており、それを開けて集団脱獄を成功させたのである。

「その男は何のためにお前を脱獄させた?」

「私はあの男にここで監禁され、贋札を作らされている」

 室内の奥には見慣れない大きな機械がある。それで贋札を作っているのだろうか。
 熊岸達を脱獄させた男の本名は鈴川聖弘。いろいろな人間に化ける天才詐欺師だ。米軍大佐に化けて裕福な家の女性相手に結婚詐欺を繰り返した罪で網走監獄へ収監されたが、最近脱獄してきたという。
 元々いた村の男性達は皆殺しにされ、女性達は脅されて家族のふりをしている。熊岸はここから逃がすので助けを呼んでくれとアシパにすがったが、警察に通報されては彼も捕まってしまうため、仲間のアイヌに今話したことを伝えてくれと懇願した。
 どちらにしろ事態を収束させるためにはアシパを解放しなければならない。熊岸は彼女を拘束している縄をほどき始めた。

 網走監獄を脱獄したという言葉に、アシパはもしかしてと熊岸に一つ問う。

「その網走監獄を脱獄してきた男は、変わった入れ墨を彫っていなかったか?」


2020/04/06

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