悪いと思わないで


「ちょっと買い物に行ってきますね。一時間くらいで戻ります」

 ディートリンデがそう言ってライブラの事務所を出たのは二時間ほど前のこと。行先はスーパー、買い求めるものは家庭でも育てられる花の種と植物の栄養剤。
 事務所では主に観葉植物を世話しているが、机に鉢植えの花があればまた違った雰囲気が楽しめるだろう。気分転換の意味でも良いと思い立ったクラウスの言葉に、ディートリンデが購入してきますよと申し出たのだ。購入してくるのは今日でなくても良かったのだが、ここは彼女の言葉に甘えることにしたクラウスはおつかいを頼んだ。

 スーパーまではそれほど離れていないので一時間もあれば帰ってくる……のだが、二時間経っても戻ってこない。ディートリンデは外出の際、帰りが遅くなる場合は必ず連絡を入れる。それがないため、クラウスはディートリンデの携帯電話に発信するが、彼女は出なかった。

「……どうした、ディート……」

 * * *

 時間は二時間ほど前に遡る。ディートリンデが事務所から出てスーパーへ向かう途中、路上で声をかけられた。

「ちょっとすいません。今、アンケートを行っていまして。お時間があればご協力して頂けないでしょうか?」

 スーツ姿の好青年がディートリンデに笑顔を向ける。

「10分くらいで終わりますから」

「でも、今から買い物に……」

「今日ずっと皆様に声をかけているのですが、お忙しいのかアンケートに答えてくれる方がいなくて……回答数が集まらなくて困っているのです……」

 買い物だからと断ろうとしたディートリンデだったが、青年が気落ちした声を出すと気持ちが揺らいだ。

「……でも、無理にとは言いません。時間を取らせてしまってすみませんでした」

「いえ、あの……10分くらいなら大丈夫です。私で良ければ」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 つい先程まで落ち込んだ表情の青年が、ディートリンデの言葉で明るくなった。
 アンケートの回答を集める仕事なのだろうか。一人分だがノルマ達成への助力となればいい。そう思いながら、ディートリンデは青年にアンケート回答するための場所へ案内される。向かう先は、やや離れた場所に停車しているバス。

「あれ、ディートさん?」

「どうしたんですか?」

 名前を呼ばれて振り向けば、レオナルドとツェッドが並んでディートリンデを見つめていた。

「買い物に行く途中だったんですが、アンケートの回答集めにお困りのようなんです」

「ちょっと無理言ってお願いしたんです」

 ちょっとした寄り道だとディートリンデが付け加えると、青年が申し訳なさそうに苦笑する。

「なるほど、そうだったんですね」

「じゃあ、帰るのがちょっと遅くなるってクラウスさんに伝えておきましょうか?」

 今から二人は事務所に向かう。そのついでにクラウスへ伝言しようかとレオナルドが提案すれば、ディートリンデは頷いた。

「はい、お願いします」

 レオナルドとツェッドはまたあとでと別れの挨拶を言うと、事務所へ向かった。

 バスは前方部以外は窓がなく、後部にはドアが一つついている。

「バスの中で……?」

「中を改装しているんですよ。リラックスしてアンケートに答えて欲しいので」

 バス後部の扉を開けると、中はちょっとした個室になっていた。椅子とテーブルがあり、コーヒーメーカーや個別包装されたお菓子が盛られた皿などがある。

「わ、凄い」

「でしょ? 自慢のバスなんですよ。静かな方が集中するでしょうから、ここは閉めておきますね」

 青年は扉を中から閉めてディートリンデに椅子に座るよう促すと、そっと鍵をかけた。

「これがアンケートですか?」

 机の上に置かれた髪は真っ白だ。裏返してみても、アンケート文などは書かれていない。

「あの……何も書かれていませんが……」

 困惑した顔で青年へ視線を移せば、彼はしまったといった表情に変わる。

「あ……すみません。間違って白紙を出してしまったようです。ちょっと準備しますので、コーヒーでも飲んで待っていて下さい」

 青年は紙コップにコーヒーを注いでディートリンデに差し出すと、棚に置かれたファイルを探し始めた。
 ちょっとしたミスにディートリンデは苦笑し、テーブルに置かれた角砂糖とミルクを混ぜて飲む。甘さとまろやかさにほっと一息ついて飲み終えた時、意識がぼんやりとし、やがて眠りの淵に沈んだ。

 * * *

 振動に気付いて目を開ければ暗い場所だった。どうやら横になって眠っていたようだ。
 身体を起こそうと手を動かした時、不自然な重さと冷たさに違和感を覚えた。手枷がはめられている。
 どうして、とこれまでの経緯を思い返した。確か、路上でアンケートに答えて欲しいと青年に呼び止められ、中を改装されたバスに案内された。そこでアンケート用紙を探す間、差し出されたコーヒーを飲んだ。
 それ以降の記憶がなく、眠っていたということは、コーヒーに睡眠薬が仕込まれていたのだろう。

「ああ、起きたか」

 聞き覚えのある声が上から降ってきた。そちらを仰ぎ見れば、バスに案内した青年が木箱に腰かけていた。
 暗がりで顔ははっきりとは見えないが、人の好さそうな雰囲気を出していたとは思えないほど、彼の表情は一変していた。まるで、商品を値踏みするかのようだ。

「お前らってほんと馬鹿だよな。見ず知らずの男についていくなんてよ。ま、お前らみたいのがいるおかげで、俺らぼろ儲け出来るんだけどさ」

 お前らということは、自分以外にもいるということ。周囲をよくよく見れば、他にも二人の女性が手枷をつけられている。二人とも異界人だが容姿は良く、綺麗な顔立ちをしている。しかし、不安と恐怖で怯えきっており、身を寄せ合って隅に座り込んでいた。

 ディートリンデは状況を頭の中で冷静に整理する。男の言葉から察するに、どうやら自分達はアンケートモニター募集と称して男に騙され、バスに連れ込まれ、何処かに売られる。

「……人身売買ですか」

「随分冷静じゃねぇか。頭の回転も速いみたいだな」

「ここもバスの中……?」

「そうだぜ。さっきまでお前がいたのが最後部。ここはちょうど運転席と最後部の間だ」

 ディートリンデは身体を起こして車内を見回す。外から見たとおり窓はない。ドアは最後部の部屋を繋ぐドア一枚のみ。運転席側の壁に小さな窓らしきものはあるが閉じられている。

「おっと、逃げる算段か? 無駄だぜ。このバスは防音仕様で作りも頑丈だ。逃げ出せねぇよ」

「私達を何処に売るつもりですか」

「超大金持ちってことだけは確かだな。ああそうだ、そこの旦那への態度は気を付けた方がいいぜ。何せ女の扱いが酷いって話だからな。何度もそこに出入りしたことあるんだが、結構な頻度で新しい女の注文があるんだよ」

 男の話に、身を寄せ合っていた二人の異界人の女性はさらに怯えた。人身売買だけでも恐ろしいのに、命にかかわるとなればその恐怖は計り知れない。
 その時、運転席側の小窓が開き、助手席に座った男がやや焦った様子で喋った。

「おい、思い出したぞ! クラウスって、ライブラのクラウスじゃねぇか!?」

「っ! まじかよ……」

 運転手が息をのむのがわかった。
 秘密結社ライブラが活動範囲を広げるたび、ライブラに壊滅させられた相手から恨みを買うことはよくあることだ。
 リーダーのクラウス自身が秘密結社であるにも関わらず、ライブラ所属だと明かすこともしばしばある。まあ、今回はレオナルドがクラウスの名前を口にしたからだが。

「おいおい、ライブラのメンバーなら料金上乗せ出来るんじゃねぇのか!?」

 外部にひとたびライブラメンバーだと知られると、その人物の脳にすら億の値がつく。
 いくらの値になるだろうかと男達が浮かれた様子で盛り上がっている中、ディートリンデはそっと自分の服の襟へ手を添えた。襟の内側に盗聴機能を備えた発信器を仕掛けているのだ。ボタンを押せばライブラに緊急信号を送ることが出来、現在の居場所を知らせることが可能となる。
 ボタンを押して発信器が作動したであろう直後、監視役──ディートリンデをバスに案内した男がふと視線をこちらに寄越した。

「おい、お前何してんだ?」

 ジャラ、と手枷の鎖が無機質な音をたてる。

「ちょっとかゆくて。私、敏感肌なので服の衣擦れでかゆくなったりするんですよ」

 もちろんこれは嘘だ。首元に手を添えても不自然にならない理由を述べたのだが、監視役の男は疑いの眼差しのまま、ディートリンデに近寄る。

「ところで、今から向かうのは何処なんですか?」

「知る必要はないだろ」

「せめて買う方がどんなところに住んでいるのかぐらい教えてくれてもいいじゃないですか。私だって命が惜しいです。女性の扱いが酷いというのが本当なら、あちらで無暗な詮索をしないよう、今教えて頂ければありがたいのですが」

 それでも男は歩み寄る足を止めなかった。ディートリンデの前で止まり、首元に視線を落とす。

 ──まだ、情報を聞き出さないと。

「あなた達は注文が入ればその分儲かっていいかもしれません。ですが、すぐに抵抗してしまう人を何度も連れてきたとなれば、あなた達の仕事の評価が下がることになると思いますよ」

 ディートリンデに指摘された男は、ぐ、とやや不服そうな表情を浮かべたのち、短く溜息をついた。

「お前、やっぱ頭いいぜ。今までに多くの女を見てきたが、お前みたいに賢い奴はいなかった」

 違法な仕事だと自覚しているが、これで生計をたてている。依頼主からの信頼を失えば、今後の仕事にも影響が出るだろう。
 そう考えた男は、依頼主のことについておおまかに伝えることにした。

「詳しい場所は言えねぇが、依頼主は異界人ってことだけは教えとく。何でも最近は同じ異界人より人類の女がお気に入りみたいだから、お前の待遇はそっちの二人よりはいいだろうよ」

「……そちらのお二人を解放しては頂けないでしょうか。人類がお望みなら、私だけで良いのでしょう?」

「悪いがそれは無理な相談だ。依頼主は複数人を希望している」

 既に前金を受け取っているため、依頼内容を違えることは出来ないという。
 依頼主の居場所も名前も聞き出せず、先に捕えられた異界人の二人の女性の解放も不可能という事態に、ディートリンデは内心焦りを覚えた。

「……念のために確認させてもらうぜ」

 ぽつりと呟いた男は、ディートリンデの首元に手を伸ばす。首筋に指を潜り込ませても何もない。では襟はどうだろうと探れば、男の指先が小さな物体に触れた。それをつまんで引っ張り出すと、男の表情が一変した。

「てめぇ、発信器を仕込んでやがったのか!」

 小さな機械を発信器だと思った男は怒りに震え、ディートリンデの胸倉を掴み彼女を床に打ち付けた。

「ぐっ……」

 忌々しそうに機械を足で踏みつけて破壊する男に、助手席の男がなだめるように話しかけてくる。

「おいおい、商品傷つけんなよ」

 そばで不安そうに事の成り行きを見ていた異界人女性二人が息をのむのがわかった。

 どうやら男は発信機能のことしか頭にないようで、盗聴機能のことについては気付いていない。現在の居場所だけでもライブラへ伝わっていれば御の字だ。

 男が苛立ちを鎮めようと再び木箱に腰かける。おそらく今までで最高価格になるであろうディートリンデに、これ以上危害を加えないよう自制しようとしているのだ。

「だ……大丈夫……?」

「無茶なことしない方がいいわ……」

 小さな声で案じてくれる異界人女性に、ディートリンデは申し訳なさそうに目を伏せた。

「あなた達だけでも逃がせればと思ったんですけど……ごめんなさい」

「ううん、いいの」

「気にしないで」

 ディートリンデは、自らを犠牲にして解放してくれるよう懇願してくれたのだ。怯え震えていた自分達より勇敢な人類に、二人はただただ感謝した。

 * * *

『くそっ、発信器を壊されたか』

 片耳の通話用イヤホン越しにスティーブンが悪態をついた。

 ディートリンデが買い物に行くと言って二時間経過しても戻らないため、ライブラメンバーで彼女を捜し始めた。
 まず最初の手がかりは、彼女が行方不明になる前に彼女と会ったレオナルドとツェッドの二人の証言だ。事務所からそう離れていない路上で、アンケートモニターの募集に協力すると言っていたという。
 その近くには運転席以外は窓のないバスが停車していたので、現場周辺で聞き込み調査を始めたが、有力な情報は得られなかった。

 先にザップ、スティーブン、チェイン、K・K達が街中で捜索を始め、ディートリンデが発信器を作動させた頃にクラウス、レオナルド、ツェッド、ギルベルトが一台の車に乗って事務所を出た。

「本当にごめんなさい……僕が引き留めていればこんなことには……」

「レオ君一人のせいじゃありません。僕がもっとあの男を疑っておけば良かったんです」

 レオナルドとツェッドはディートリンデと最後に会ったということもあり、彼女を引き留めていれば良かったと自分を責める。
 だが、そんな二人をクラウスは責めることはせず、いつもの冷静な口調で諭した。

「二人とも、自分を責めるのはやめ給え。今はディートを捜すことが最優先だ」

 レオナルドは後悔の念は消えることはなかったが、誰よりも悔しく思っているのはクラウスだ。自分がおつかいを頼まなければ、ディートリンデがこういうことになることはなかったのだ。
 クラウスは大きな拳を、ぐっと握りしめる。

『それで、ディートを乗せたバスってのはどこらへんを走ってんだ?』

 ザップが苛立った声で訊ねてきた。
 普段はクズっぷりを発揮して生活しているザップであるが、仲間の危機となれば誰よりも自分のことのように怒り、救出に向かうのだ。

「市街の中心部付近で信号が途絶えました。向かう先はおそらく異界かと」

 車内に取り付けたモニターでは、発信器の最後の信号が一か所で点滅している。発信器が作動していた時間は長くはなかったが、相手の目的地が推測出来たのだ。
 ギルベルトは手短に、捜索中のメンバーにそのことを伝えた。

『OK。誘拐犯も、依頼した異界人もぶっ潰してやる』

『ザップっち、一緒に派手に暴れましょう。ディートっちを誘拐したこと後悔させてあげるわ』

『依頼主が頑丈だと潰し甲斐があるんだけど』

『こらこら、相手が死なない程度にしておけよ。警察に引き渡さないと検挙出来ないからな』

 ザップ、K・K、チェインが誘拐犯と依頼主両名を叩き潰す算段を企てている中、スティーブンがほどほどにしておけと釘を刺す。
 ライブラは非合法組織だ。いくら相手が法で禁じられている行為をしていても、自分達だけで成敗しても意味はない。
 心情としてはスティーブンも違法人達の命を奪ってやりたいが、それではただの私怨となってしまう。法で裁くためには、不服であっても警察に引き渡して検挙してもらわなければならない。

「ですがスティーブンさん、今回ばかりは僕も我慢なりません。もし自制がきかなくなった時は頼みます」

『って、ツェッド、君もかい!? やれやれ……うちのメンバーはどうしてこうも仲間想いばかりなんだろうね』

 スティーブンは小さく溜息をついて苦笑する反面、同胞を大切に想う彼らが誇らしくもあった。
 誘拐犯の車両が異界へ向かっていることを知ったライブラメンバーは、スティーブンの指示が入ると一斉に向かう先を市街中心部──異界へと変更した。

 * * *

 バスがようやく停車すると、ディートリンデ達はバスから降ろされた。
 拘束されているのは手のみで、目隠しはされていない。連れてこられた建物を見上げればかなりの大きさだ。屋敷の外観だけで、人類のデザインとはかけ離れた異界独特のものだとわかる。

「ほら、早く行けよ」

 屋敷の護衛に監視役の男が用件を伝えると、中に入る許可が下りた。助手席の男に促され、ディートリンデ達は屋敷に入る。
 監視役の男、ディートリンデ達、助手席の男が並んで廊屋を歩いていく。誰も喋ろうとする人はいない。

 やがて通された部屋で待っていたのは、依頼主であり屋敷の主である異界人だった。

「待っていたぞ。お前達は仕事が早くて助かる」

 人型ではあるが、異界人らしく肌の色は人類とは異なり、身体の細部も異形な箇所が見受けられる。

「いえいえ……ところで一つご相談したいことがありまして」

 監視役の男が依頼主に一歩歩み寄った。

「人類の女のことですが、実はあのライブラのメンバーらしくて」

 ライブらの名が出た途端、依頼主のディートリンデを見る目が変わった。

「ほう! あのライブラの!」

「そうなんですよ。容姿もですが、なかなかに賢いんです。旦那様のお気に入りになることでしょう。こんな女滅多にお届け出来ないので……」

「よかろう。五億でどうだ」

 男が依頼主に対して、ディートリンデの商品価値と稀少度を上げようと遠回しに値上げを要求したところ、すんなりと承諾した。一人で五億の値がついたのは初めてなので、同行している仲間と顔を見合わせ、互いに自然と顔が緩んだ。
 小切手に金額を書いて男達に手渡せば、彼らはさらにはしゃぐ。

「あっ……ありがとうございます!」

「うむ、これからも頼むぞ。──おい、こっちに来い」

 男達が退室すると、依頼主がディートリンデを手招きした。従いたくはなかったが、行かないわけにもいかない。
 ディートリンデが渋々歩み寄れば、依頼主は満足そうな笑みを浮かべる。

「ライブラの一員というのは本当かね?」

「…………」

 依頼主の問いに、ディートリンデは答えなかった。ライブラは秘密結社である。長であるクラウス自身がライブラの一員だと明かす場合もあるが、原則的には口外してはならない。
 依頼主が何度か繰り返して問うも、やはりディートリンデは口を開かない。とうとう我慢の限界が来た依頼主は、ディートリンデの服の襟元に手を伸ばし、力任せに服を引っ張った。そのせいでボタンが弾け飛び、胸元があらわになる。

「やめ……!」

「女。黙っているということは、やはりライブラの一員か」

「私は何も知りません。例えライブラの一員であっても、それを口外すると思いますか」

「あくまでもしらを切るつもりか。……いいだろう、嫌いではない。なかなかに楽しめそうだ」

 依頼主もディートリンデが素直にライブラメンバーだと答えるとは思っていなかった。逆にディートリンデの反応に興味を持ったのだろう。ディートリンデの首に手を当て、少し力を込める。

「ぐ……」

 大きな手で首を絞められる。加減されているので気道は塞がれていないが、呼吸がしにくいことは確かだ。
 抵抗して依頼主の手から逃れたかったが、下手に刃向かえば命を落とすことになると誘拐犯の男が話していたことを思い出した。

「ふむ、あいつらに逆らうなと聞いたか? まあ、手に入れたばかりの商品だ、儂も無駄に傷付けたくはない」

 従順な態度を見せているディートリンデに満足したのか首から手を放し、依頼主はディートリンデと一緒に連れられた異界人女性二人も手招いた。
 おずおずと先に依頼主のそばへ歩み寄った一人を依頼主は何も言わずに引き寄せる。

「いやぁ!」

 今顔を合わせたばかりの見知らぬ相手の行為に女性は思わず拒絶反応を示し、依頼主の胸元をぐっと押しのけた。

「……女ァ……」

 低い声に、女性はハッとして怯えの色を濃くする。
 女の扱いが酷いという依頼主は怒りに震え、持っていたステッキを強く握り締め、女性めがけて振り下ろした。

「やめて下さい!」

 ディートリンデが叫んで制止を呼びかけるも、依頼主は怒りで我を忘れているせいか、殴る手を止めない。
 殴られている女性は手で頭を覆い、身体を丸くしてひたすら耐えている。
 やめて、ともう一人の女性が抗議すると、依頼主は彼女にも危害を加えた。両名とも殴られた箇所の肌の色が変わり、血が滲んできた。このまま止めなければ彼女達は殴り殺されてしまう。
 呼びかけても無駄なら、とディートリンデは依頼主の殴る手を押さえてみたが、

「『物』が主人に逆らうことは許さん!」

 ディートリンデの手を振り払い、一層大きくステッキを振った。勢いのまま振り下ろしたステッキはディートリンデの右の額を直撃する。

「……っ!!」

 ディートリンデは声にならない悲鳴をあげ、床に崩れ落ちた。硬いステッキはまるで鉄の塊のようで、殴られた衝撃で強烈な痛みがディートリンデを襲った。
 やや遅れて、赤い液体が流れ落ちた。殴られた箇所が裂け、その傷口から血が溢れ出てきたのだ。

「あ、あなた、血が……」

 異界人女性が震えた声でディートリンデを心配する。
 どうすれば依頼主を止めることが出来るか、と痛みのひかない頭で模索していると、部屋の外が騒々しいことに気付いた。複数人の足音、屋敷の護衛の怒号。

「──、っ」

 騒がしさの中に、聞き覚えのある声が混じっていた。殴られた衝撃で聴覚がまともに働かず、フィルターがかかったようなくぐもった音声で聞こえるが、間違いない。
 あれは──

「ディートリンデ!!」

 赤髪の大男が一番に室内へ飛び込んできた。彼に続き、銀髪褐色の青年、スマートだが均整のとれた筋肉を持つ半魚人、音速猿を肩に乗せた少年、顔に傷のある男、ボブカットのスーツ姿の女性、右目を眼帯で覆った長身の女性が姿を現した。
 見慣れたライブラメンバーの姿に、ディートリンデは心から安堵した。

「ディート……!」

 ようやく見つけたディートリンデは倒れ、胸元がはだけて下着の一部が覗き、右の額から流れ出た血が服と床に染みを作っていた。それを見たライブラメンバーは全員息をのむ。
 ディートリンデを視界に入れたクラウスは、言い表しようのない怒りと後悔に襲われた。やはり安易におつかいに出すべきではなかったのだ。誘拐され、負傷している原因は全て自分にある。
 クラウスは真っ先にディートリンデの元へ駆け寄り、ワイシャツをウエストコートごと脱いで彼女の肩にかけ、襟元のボタンをとめた。こうするれば、はだけた胸元を隠すことが出来る。

「クラウス、様……」

 姿勢を正そうと動くが、ふらりと身体がよろめいた。出血が多いせいだろう。それをクラウスが優しく受け止める。

「ディート、遅くなってすまない」

「いえ……あ、駄目です、シャツに血が……」

「構わない。むしろ君の肌が強引に晒されたことに我慢ならない……!」

 血が付いてしまうからとワイシャツを返そうとするが、クラウスに止められた。

「レオナルド君、ディートを頼む」

 クラウスはハンカチを取り出して額の傷口に押し当てる。量は少なくなったようだが、今も出血しているためだ。
 呼ばれたレオナルドはディートリンデの隣に座ると、ハンカチで止血する役目をクラウスから引き継ぎ、ディートリンデに謝る。

「ディートさん、すみません……路上で声をかけた時に、僕達が引き留めておけば良かったのに」

「いいんですよ、レオさん達に非はありません」

 男を怪しまなかった自分が悪いのだとディートリンデは小さく苦笑した。やや引きつった表情になっているのは、額の傷と殴られた時の痛みのせいだろう。実際に、頭が動いてレオナルドがずれたハンカチの位置を直そうと手を動かすと、ディートリンデがわずかな呻き声をあげる。

「あっ、す、すみません! 痛かったっすよね!」

「大丈夫です」

 あたふたするレオナルドに、先程よりもしっかり笑顔を見せれば幾分か落ち着きを取り戻した。すると、今まで彼の肩に乗っていたソニックがディートリンデの左肩に乗り移り、心配そうにディートリンデの顔を覗き込み、ぴた、と小さな両手を頬に添えてきた。

「ソニック、心配してくれてるの? ありがとう」

 小さいながらも賢い猿の気遣いに、ディートリンデは感謝した。

「何だ貴様らは! ここが何処かわかっているのか!?」

「わかって乗り込んできたんだよ」

「この野郎、女を傷付けやがって……」

「下劣な……!」

 スティーブン、ザップ、ツェッドが殺気の満ちた目で依頼主を見据える。
 依頼主が多勢に無勢と察して護衛を呼びつけるが反応がない。焦りを感じて狼狽していると、

「護衛ならみんなおねんねしてるわよ」

「今度はもうちょっと手ごたえのある護衛を雇ったらどうかしら?」

 怯える異界人女性を保護したチェインとK・Kが「今後があるかはわからないけど」とくすりと笑った。

「クラウス」

 スティーブンがクラウスの名を呼び、自分は今いる場所から進むことはしなかった。
 スティーブンだけではない。ザップも、ツェッドも、他のメンバーもその場から動くことはなかった。仲間を傷付けられて憤慨しているのは誰もが同じだが、一番はクラウスだ。その証拠に、どのメンバーを上回るほどの怒気を発している。それを察知したメンバーは、とどめを彼に譲ることにした。

 クラウスが一歩前に出る。左拳のナックルをしっかりと握り締め、狼狽する依頼主を鋭い眼光で睨み付けた。

「ま……待て、すまなかった! 慰謝料も治療費も出す! は、話せばわかる!」

 依頼主が命乞いをする。悪人のこういった言葉ほど信用出来ないものはない。
 必死の命乞いもむなしく、依頼主はクラウスの鉄槌を受けることとなった。


「ディート!」

 クラウスに呼ばれ、身体が揺れた振動でディートリンデの意識が浮上した。目を開ければ、いつもは穏やかで落ち着いたクラウスの顔は、焦燥感が募ったものだった。

「……クラウス……」

 何とか彼の名前を呼んで安心させてあげたかったが、ディートリンデの声は酷く弱かった。頭にはまだ痛みが残り、めまいでくらくらする。
 ああ、血で固まった前髪が邪魔でクラウスの顔がよく見えない。

「クラウス、警部補に連絡したから、先にディートを病院に連れていってくれ」

 携帯電話をスーツの胸ポケットにしまいながらスティーブンが言った。人身売買を行っていたということで依頼主はもちろん、誘拐犯グループの三人組もすでに捕えている。彼らをダニエル・ロウ警部補に引き渡し、今まで犯していた悪事を公にしてやるのだ。

 クラウスはすぐさまディートリンデを抱え上げた。もちろんディートリンデの身体を出来るだけ揺らさないように。

「スティーブンさん……彼女達のこと……」

「ああ、わかってるよ」

 ディートリンデが心配なのは、依頼主に危害を加えられた女性達だ。ディートリンデよりは被害は軽いといえど、彼女達もまた出血していて手当てが必要である。それを心配してスティーブンに病院の手配を頼めば、彼はもちろんだと頷いた。

「っと、まず先に……」

 ザップが血液で形成した『焔丸』でディートリンデ達を拘束していた手枷を斬り、両手を解放させる。

「ありがとうございます、ザップさん」

「いいってことよ。早く手当て受けて来い」

 いつもは粗暴なザップだが、この時ばかりは優しそうな笑みを浮かべた。

 * * *

 ひとまずメンバーと別れたあと、クラウスはギルベルトの運転する車で病院へ向かい、傷の手当てを受けた。
 出血量は多めであったが輸血するほどまではなく、止血と手当てを済ませたあとは事務所に帰ると言ったのだが、クラウスがしばらく入院させるように医師に申し出たため、数日の間入院することになった。

「入院しなくても大丈夫でしたのに……」

「もしもがあってはいけない。休日だと思ってゆっくりしてくれ給え」

 ベッドの上で申し訳なさそうに眉尻を下げるディートリンデの手を、椅子に腰かけたクラウスが両手で握る。

「ディート……本当に、すまなかった……」

 区切って紡いだ言葉のひとつひとつに重みが感じられるクラウスの謝罪に、ディートリンデは何度目ですかと苦笑した。

「私は気にしていませんから。あなたが負い目を感じる理由はありませんよ」

「だが……」

「それではこうしましょう。私も誘拐犯の口車に乗せられてホイホイついていったんですから、おあいこです」

 遠く離れた島国に『喧嘩両成敗』という言葉があるらしい。それにならい、双方ともに悪いとし、処罰をしようとディートリンデが提案した。その処罰内容は、クラウスに関してはディートリンデが外出する場合、連れの者と行動すること。ディートリンデに関しては、相手が情に訴える言動をしても安易についていかないこと。
 そう提案すれば、ようやくクラウスは謝罪の言葉を止めた。

「ね? こうすればいいんですよ」

「……そうだな」

 クラウスは小さく頷き、ずっと硬かった表情が柔らかいものとなった。彼の変化にディートリンデは、やっと笑いましたね、とこぼし、大きなクラウスの手を自分の小さな手で包むように握り返す。

「助けに来てくれて、ありがとうございました」

 ディートリンデが心からの安堵の笑みを見せると、クラウスは椅子から腰を浮かせて彼女を抱き締めた。

「君に万一のことがあれば、私は……正気でいられない」

 クラウスの声は震えていた。怒りによるものではなく、恐怖によるものだとディートリンデは感じ取った。まるで、母親を失うことを恐れる幼子のようだ。無事だったとはいえ、万一を考えるだけで恐怖と喪失感がクラウスを襲い、身体も小刻みに震え始めた。

「安心して下さい。私はあなたのそばから離れませんから」

 クラウスの背に腕を回してさすってやれば、彼の震えは次第におさまっていった。

「……ディート」

 少しディートリンデから離れたクラウスは彼女の目をじっと見つめる。綺麗な色はクラウスのお気に入りだ。
 ディートリンデの頬に手を添えたクラウスは、ゆっくりと顔を近付ける。彼の行動の意味を察したディートリンデは静かにまぶたを閉じて待てば、やや乾いた唇が触れた。
 クラウスが何度か角度を変え、啄むようなキスをする。柔らかなディートリンデの唇をもっと味わっていたかったが、あまり長く続けると彼女から離れたくなくなりそうだ。
 ──いや、それだけではない。
 甘い余韻を残しつつキスを終えたクラウスは病室のドアへ歩み寄り、開ける。

「いくら同じ部屋に他の入院患者がいないとはいえ、野次馬が多いとやはり落ち着かないものだな」

 え、とディートリンデが開けられたドアの向こうに見たのは、ドアにはりつく体勢で室内の会話に聞き耳を立てていたザップとK・Kだった。その後ろには、レオナルド、スティーブン、チェイン、ツェッド、ギルベルトが廊下に立っていた。
 性格的に盗み聞きしていたのはザップとK・Kだけで、他のメンバーは少し呆れた様子で二人を見つめている。さすがのチェインも、仲間のプライベートを盗み見するつもりはなかったようだ。
 先程、クラウスがスティーブンへ連絡していたことを思い出す。どうやら、ディートリンデが入院することを知ったメンバーが駆け付けてくれたようだ。

「すまないね、二人とも。少年とザップがどうしてもお見舞いに行きたいってわがままを言ってね。僕は明日にしたらどうかって止めたんだけど」

 スティーブンがゆっくりさせてあげられなくてごめんと苦笑する。

「俺でも心配することはあるってことですよ」

 ザップが少し照れながらも頼りがいのある笑顔を見せる。

「でも僕、ザップさんみたいに盗み聞きする無神経さは持ってませんから」

 レオナルドが口を尖らせてザップを見つめる。

「やだ、レオっち。ザップっちと同じことしたあたしも無神経って言うの?」

 K・Kが眉をハの字にしてひどーいと茶化すと、レオナルドがあたふたし始める。

「ま、銀猿が無神経のゴミってことは確かよね」

 チェインが呟くと、ザップが瞬時に反応して彼女と口論を始める。

「みなさん、病院では静かにしないと他の方の迷惑になりますよ」

 ツェッドがメンバーをたしなめ、病室の中に入るよう促す。

 ディートリンデはクラウスとの会話を聞かれていたかと思うと、恥ずかしさのあまり顔が赤くなる。
 そんなディートリンデを、同僚のギルベルトがにこやかな笑顔で眺めた。

「坊ちゃま、ディートさんと一緒に誘拐された女性達もこの病院で手当てを済ませました。彼女達にも様子見でしばらく入院して頂くよう手続きを済ませてあります」

「うむ。ありがとう、ギルベルト」

「あの……明日、彼女達のところへお見舞いに行っても大丈夫でしょうか?」

「ええ、心配ありません。どうぞお見舞いに行ってあげて下さい」

 誘拐され、怪我を負わされたせいで不安がっている彼女達を心から安心させてあげられるのは、同じ被害を受けたディートリンデだけだろう。ギルベルトはそう思うと、普段よりも一層優しい声音で答えた。

 しばらくの間みんなと談笑していたディートリンデだが、やがて面会時間が終わりを迎えた。クラウス以外は一足先に退室し、駐車場へ向かう。

「では、私もそろそろ帰る」

「はい。おやすみなさいませ」

「数日で戻ってくるとはいえ、別々の場所で過ごすとなるとやはり寂しいものだな」

「寝る前にメールしますから」

「……出来れば声が聞きたい」

「子供みたいなこと言わないで下さい」

 ラインヘルツ家にいた頃もそうだが、ヘルサレムズ・ロットに居を移して家から離れたせいか、クラウスのディートリンデへの依存度が増したような気がした。元より頑固者だが、今は頑固というより駄々をこねる子供だ。

「では、私が一晩ここに残れるよう担当医に相談を──」

「もう! わかりました、電話しますから!」

 病室には他の入院患者はおらず、医療機器もないので電話も可能。そう踏んだクラウスがメールではなく電話で直接話したいと言い出したのだ。
 先に折れたのはディートリンデだった。ディートリンデも少々頑固な面はあるが、クラウスほどではなないと自負している。
 このまま通話を拒否していると、本当に担当医へ居残り看病を直談判しに行くだろう。それを防ぐためにも、ディートリンデは必ず電話するとクラウスに約束すれば、彼は心底安心して嬉しそうに笑った。

「ディート、またあとで」

 クラウスはディートリンデの額に軽いキスを落としたあと、病室を出て行った。

「……クラウスったら……」

 いつもは紳士的で頼り甲斐のある人物だが、ディートリンデが絡むと暴走することがある。困るのはいつもディートリンデで、それを見たライブラメンバーはまた始まったと笑って眺めるのだ。決して嫌ではない。むしろクラウスに想われていると実感出来て嬉しい。
 今もまたクラウスの愛情を感じ、小さく溜息をつきながらも顔は緩んだ。

 今夜は就寝時間をオーバーするだろう。今のうちに携帯電話の充電を始めた方が良さそうだ。


2015/08/24
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